生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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<特集> 世界に冠たる「生命の實相哲学」――マサノブ(自称)総裁はこれを捨てた!(第四回) (1301)
日時:2013年06月10日 (月) 07時46分
名前:信徒連合




合掌、ありがとうございます。
開祖・谷口雅春先生のお悟りになられた「生命の實相哲学」は世界に冠たる最高峰に位置するものであります。よって、世界中の叡智ある識者が挙って称揚し、大聖師の御昇天に際しては各界の一流の人々から御遺徳を絶賛する言葉が寄せられたのであります。

開祖・谷口雅春先生の「生命の實相哲学」は「谷口哲学」とも呼ばれ、単なる象牙の塔に籠もって思索された哲学ではなく、真剣な求道の究極の一点において「無の関門」を超えられた“お悟り”によるものであり、この「生命の實相哲学」が実に多くの世界の人たちの病悩苦を救済し、国家を救う現実的効果(實相顕現)を発揮し、人類社会の進むべき道を照射し続けたた点において世界に冠たる実践哲学として絶賛されたのであります。

しかし、肝腎の「生長の家」信徒として、この「生命の實相哲学」の内容を正確に把握している信徒の人たちはまだまだ少ないのが現状であります。その最たる人は、三代目のマサノブ(自称)総裁でありまして、彼は学者・評論家的な難解な思索に耽るだけで、開祖・谷口雅春先生のこの「生命の實相哲学」の真価がわからないのみか、捨て去ってしまったのであります。

そこで、「生長の家」の信徒として、社会の各方面での識者と対等に交わる力を養成して置くためにも開祖・谷口雅春先生の「生命の實相哲学」(「谷口哲学」)を深く深く研鑽しておく必要があります。現代の三代目の「生長の家」に於いては、肝腎のマサノブ(自称)総裁は詳細な講義なんて出来ない人ですから、私たち信徒は自主的に進んで自主研鑽する必要性があるのであります。特に、現教団のニュー講師の方々、ニュー信徒の方々はこれを機会に「生命の實相哲学」の奥殿へと是非進んで頂きたく宜しくお願い申し上げます。

この意味において、「生長の家・今昔物語」において、掲載いたしました < 第二篇・真髄中の神髄 > の部分を数回にわけて再掲載させて頂きます。 最合掌



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



生長の家 「今昔物語」 第二篇 真髄中の神髄



 神の子の自覚に点睛す


  
「生命の実相」第27巻第5章<神の子の自覚に点睛す>



<<「観ずれば吾等一切衆生は久遠刧の始めより神の懐に抱かれたる神の子也。如来の子也。自覚すると自覚せざるとに論なく、事実に於いて皆然り」これは綱島梁川氏の「回光録」収録「自覚少記」の言葉である。

この自覚は、生長の家で説くところの「人間本来、神の子、仏子であって、悟ると悟らざるとの別なく既に救われている」の自覚とほぼ一致する。

しかもこの「既に人間神の子」の自覚を得ながらも、その自覚が何故、彼れ綱島梁川氏を生かさず、氏をして病の床より起つ能はざらしめたのであろうか。

何故またこの同じき「既に人間神の子」の自覚が「生長の家」の誌友の場合は続々病の床を蹴って起つ力を与えるのであろうか。

ここに一つの同じき信念が一つは現実生活を生かし、一つは現実生活を生かさない結果を生む重大なる「紙一枚の自覚の差」が何故に生ずるかを研究することは無駄ではないと思う。

「人間神の子の自覚は得られましたが、どうも病気は治りません」と往々訴えられることがあるが、そういう人は梁川式信仰型の人である場合が多いのである。神子の自覚を得ながら病気が癒されなかった理由を知るために梁川氏の場合を引いてこれを検討することにする。・・・・・・(中略)・・・・・


明治三十七年十一月の某夜、綱島梁川氏は此の見神の体験的自証によって、<今此処に在りて無限につながり、今此処にあって永生に繋がる>大自覚を得たのであった。その時以後彼は「観ずれば我等一切衆生は久遠劫の始めより神の懐に抱かれたる神の子也、自覚すると自覚せざるとに論無く、事実に於いて皆然り」と宣言するを得るに到ったのである。

彼の大自覚は「今、ここにありて此の儘で久遠劫に繋がる」のであるから、いとも明快に三世を踏断して次の如く言い得ている・・・・・・(中略)・・・・・。


此処に彼れ梁川は、「今、此の一点に此の儘無限永生とつながる大自我」の生活を説いているのである。<彼>とは何ぞや、<我>とは何ぞや、此の一点にありて無限の大生命に繋がるものである。今此の一点――幅なく厚みなくして、一切所に遍満する大生命であり、今此の一点――長さなく持続なくして一切時を踏み越えた大生命である。神、我れであり、我れ神であり、神すべてであり我れ渾てなるが故に、神のほか、善のほか、至美至妙なるもののほか何ものもないことが本当に自覚されたならば、彼の病も「無い」ことが判ったであろうし、それと共に彼の病も癒えたであろうが、<今一歩>のところで、彼は「生長の家」の説く大真理の敷居を跨ぐことが出来なかったのである。

今一歩のところとは何であるかと言うならば、彼はあの明治三十七年十一月某夜の恍惚境からさめて現実界を見たときに「一点にあって此の儘永生につながる自覚」を得ながらも、尚、<そこに現象世界、物質世界の実在せることを見たのである。>

此処に彼の自覚の墜落があり、現象世界、物質世界を<あり>と見たるが故にそれが高き敷居となって「紙一枚の差」を打ち破って彼は「生長の家」同等の自覚に入ることが出来なかったのである。


梁川は我れ神につながる大自覚を得たる後に、「生長の家」の所説と同じく、「在るもの皆善し」の自覚を得ていた。しかし、その「在るもの」なる意味が「生長の家」とは甚だ異っていたのである。

生長の家では一切現象本来無しと截ち切ってしまった後に実在のみの風光を見て「在るもの皆善し」と絶対自覚より言うのであるが、彼は一切現象を、物質を「本来無なり」と空じさること能はずして、それを空じ去ることを「消極的なる<あきらめ門>」と批評し、「物質あり、現象あり、しかして病苦あり、悲惨あり、これ<事実なり>」として、それを在るがままに<事実>として認むることを勇者とし、そして「<在るもの>皆善し」と見ようとしたのである。・・・・・(中略)・・・・・

即ち、梁川の言う所を一層判りやすく表現せば、

今、画家の絵筆より打ち卸される「褐色の一転」(現在の惨苦)も実相一如のカンバスの上にやがて打たるる他の配色(当在)との関係上、「現在」と「当在」とを一望の下に俯瞰し得うる時間空間を絶したる実相一如の神なる立場より観るならば、それは其の儘で絶対美であり、絶対善とするのである。

ここに於いては病気は空じ去られず、不幸は空じ去られず、ただ高揚して実相一如の真善美の空よりそれを俯瞰して美しと言い得るに過ぎずして、地に立って現在に生活すれば実相の峻峰は永へに天を摩して高く、それに到らんとするも道遠く且つ険難であるのである。

だから、彼は「如是我証」の中で「唯だこの<事実>に面しては何人も之を得否まじ、吾人及ち観ずらく、我等は弱し、当に強からざるべからず、吾らは完からざるべからず」と歎じているのである。

彼は「<事実>に面しては」と言う。しかしその「<事実>」とは何ぞや。現象のみ、本来無きもののみ。

しかもこの「本来無き現象」を<あり>と観る限り、彼の如く実相一如の世界に没入する体験を得るとも、何人も「我等は弱し、我らは完からず」と嘆ぜざるを得ないのである。


しかしこれを「<事実>」と言うのは間違いであるのである。知れ、<事実と言うは実相のみである>のである。


だから実相の実在のみを強調し「弱きものは<無し>、完からぬもの<無し>」と、一切の悪を空じ去って、而して「一切皆善の実相的事実」のみを肯定するとき、吾らは現象的事実をも征服し得て、「我らは、弱し、吾らは完からず」と現象的事実に征服された弱音を吐く必要がなくなるのである。


生長の家は斯く「実相皆善」のみを強調して、「現象は無なり」と現象的不幸一切を空じ去る。

さればこそ現実を征服する現実的威力を発揮するのである。

「現象あり」と観ずれば吾らは現象に力を認めるが故に現象を征服することが出来ないのである。

「現象も現象として<在る>のであって、斯く本体界のみを主張し、本体界の完全観念を現象界にも適用せんとするのは、本体界と現象界とを混同するものである」との諸宗教家または哲学者よりの非難があるが、

吾らは本体界と現象界とを混同するのではない、混同とは現象界を在りと認めての立場であるが、吾らは現象界無しと自覚するが故に、<無きもの>は混同するの恐れなきが故に、吾らはただ常に本体界の完全性のみを主張するのである。

その結果、本体界の完全性がそのまま現象界に投影して、現象界の不幸を征服することが出来るのである。


「現象は<現象としては>あるのである」と言って現象界を本体界に対立せしめたり、「本体界の自叙自展が現象界であって、本体界と現象界とは一如である、そして、現象界は本体界のうちに包摂せられるものである」と言うような在来の見方を脱し得ないような宗教では、到底それは現実人生を支配することが出来ないのである。

生長の家の思想が、斯く素晴らしい現実人生の支配力を有しているのは、主として「現象無し」とスカッと断ち切り、実相独在を明快に斬然と主張しているからであるのである。>>



  
<注釈コメント>
 

禅宗では「公案」を与えられ、それを解答する事によって悟りの心境を高めて行くのでありますが、私たち一般人は、毎日の生活において起こって来る事柄が、つまり毎日の生活そのものが<生>の「公案」なのであります。その「公案」を解く鍵は<現象は、肉眼に映じているが本来無し>という「無の関門」を超えると言うことであります。この事が本当の「神の子」の自覚に入るための、そしてまた日常生活という公案解決への<画龍点睛>の正に「点」に当るものであります。この<「点」>がなければ、実相は顕れて来ないのであります。

「無の関門を越える!」という事は「現象ナシ!!」と肉眼に見える眼前の現象のスガタを一刀裁断してしまう事であります。一刀裁断して其の向こうにある実相世界に飛び込んでしまうともうそこは実相独在の世界であります。ここへ自己の自覚を置き換えてしまう事であります。これが<360度の「観」の転換>であります。しかし、これは頭では判っても潜在意識へ定着させる事は非常に難しい事でありますから、どうしても「神想観」の継続と「聖典」類の無心での拝読継続が必要となるのであります。「叡智の断片」P.172-P.215「入竜宮不可思議境界録」には<<地上の話に非ず、現象を超えて実相不可思議の世界に透入せんと欲する人々のためにものせるものであって、玄々、字間と行間とにその真意を摑む覚悟をもって読まれたい>>と書かれているのであります。

唯物思考の支配せる日常生活の中で毎日を送っている私たち一般人は、三次元の肉体頭脳の知識で公案に対する答えを出して来たのでは、誠に不完全な答えしか導き出されないのでありまして、日常現象世界での問題という公案は根本的には仲々解決できないのであります。綱島梁川氏は非常に深い宗教的心境に入りながらも、<現象ナシ!>と一刀裁断出来ず、現実の現象は現実に存在していると認めたが故に<二元論>の壁をどうしても乗り越えることが出来ず,ご自身の病気という現実を克服出来なかったのであります。正に谷口雅春先生の御文章にあります「今一歩」の所で生長の家の説く「大真理」<現象本来無し・完全円満なる実相独在>の「敷居」を跨ぐ事が出来なかったのであります。

この意味では、今までの宗教、現在ある殆ど全部と言っていいほどの宗教の説教の仕方(内容)は、ただの観念としてのみ考えられる理想の状態と目に見えている不完全な現実の状態――この二つのスガタが実際に存在するという二元論によって現実の日常生活の問題解決を図ろうとしているのであります。ひとり「生長の家」の御教えのみが「不完全な目に見える現象のスガタは実在ではない。真実の存在(実在)は完全かつ円満なるスガタ(実相)のみである。と言う<実相独在という完全・完璧な一元論>なのであります。

この実相独在と言う完全一元論を、日常生活の問題解決に適用して夫々の問題の根本的解決を図ってゆく(実相を顕現する)ためには、「五官の世界」を去って「無の関門」をこえて「実相の世界」に入る(観の360度の転換)ことが必要となるのであります。私たち一般人は、毎日の生活での実際の問題(公案)解決に当たってこの訓練をして行かねばならないのであります。素直な心で聖典を読み、真理を理解して、それを信念化(潜在意識にまで落とし込む)するために毎日の神想観の継続実修が大切であります。

「無の関門」を超えると言うことは、毎日の私たちの問題解決(公案の答えを出す)の為に役立つと同時に、「神の子」の自覚を本物とする(点睛する)ことでもあり、自己の霊性を益々明らけくすると同時に霊魂としての自己の大いなる進化に資するものであります。

私たちは、常に意識して素直な心で三正行(聖典読誦・神想観・愛他行)を続けてゆかないと<現象あり!の唯物的思考という世間の大波>にともすれば呑み込まれてしまいます。「現象無し!常に完全円満な実相のみ独在!そしてそれは<観>ずる事によって顕れる!」この教え、この完全・完璧な徹底的一元論は生長の家の御教えのみ!そして、かくも深切丁寧に開祖・谷口雅春先生は説かれていますので、この第五章の文章は繰り返し・繰り返して読み、完全に自分のものとしたいものであります。正に<画龍点睛>であります。







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