生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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マサノブ(自称)総裁よ、汝、宗教家を自負するならば「対称性」・「非対称性」なる言葉を使わず、もっと平易に真理を語れ! @ A B C D E   (1440)
日時:2013年07月02日 (火) 19時35分
名前:画龍点睛

合掌、ありがとうございます。
マサノブ(自称)総裁は、宗教家と称しながら、私たち一般庶民信徒の日常言葉とは全くかけ離れた難解な学者的言葉を使い、ブログを書き講習会で話をするのでありますが、われわれ凡人信徒向けには、庶民ことばで真理を語って貰わねばなりません。それが出来ないのであれば、総裁の椅子を即座に降りるべきであります。

彼は数年前の「小閑雑感」で、 < 『創世記』第1章は非対称性の原理、第2章は対称性の原理で掛かれたもの> と云い、最近の「唐松模様」では、< 潜在意識は対称性に属し、現在意識は非対称性に属す > と書いているのであります。信徒を対象にどうしてこの様な難解な言葉を使う必要があるのでありましょうか? 

「マサノブ教」では、「潜在意識は対称性、現在意識は非対称性」と説明する。こんな説明で人々は果たして“幸福の世界”へ出ることが出来るであろうか? 答えは、完全に「否!」であります。

開祖・谷口雅春先生の本来の『御教え』で、「幸福の世界へ出るためには、現在意識の想いと潜在意識の想いが、“牝鹿の脚”の如くピッタリと一致しなければなりません。」と説明すれば良いのであり、“牝鹿の脚”の話をすればよくわかるのであります。なにも難解な「対称性・非対称性」といった学者的言葉を使う必要はないのであります。

真理を平易に説く能力に欠けるマサノブ(自称)総裁に代わって、開祖・谷口雅春先生の御著書から“幸福の世界に出る法”としての「牝鹿の脚」のお話を以下、数回に別けて転載させて頂きます。




幸福の世界へ出る法 「牝鹿の脚」の話 <第一回> (1441)
日時:2013年07月02日 (火) 19時41分
名前:画龍点睛


幸福の世界へ出る法

「牝鹿の脚」の話 <第一回>

(『善と福との実現』P.153−156)




<< 私は『生長の家』に、「幸福の世界へ出る法」と題して、北海道の誌友の浅野君がタイプに打って送って下さったグレン・クラーク氏の著書の一部を紹介したことがある。(註・第十三章に再録)

 同氏の本名は何かの間違いでブレーン・クラークと印刷されたりしていたが、浅野君の手紙も散逸してしまったし、その英字綴りも不明であった。

 其の後あの記事を読んだ誌友横田次男氏から、その原著は生長の家の思想と全然同一で真理は洋の東西を問わず一つである。この真理によって今後日米一つの真理信仰で手をつなぐべきであると恵送して下さった。

 これは誠に心の底深く祈り求むるものは自然に得られると云う真理の実証のようにして私の手に入ったのである。それを読んでその原著者名はグレン・クラーク(Glenn Clark)氏で、元・米国イリノイス大学の文学教授であることもあきらかになったのである。

 あの当時のタイプで印書した一部の紹介では、吾々を天国へ伴れていってくれるHinas Feet(牝鹿の脚)と云うものが一体何であるか不明であって、「何か神秘的な翼を象徴したものだろう」と私は注釈を加えておいたにとどまったのである。

 ところで今、幸いにその原著を得たので、幸福の天国へ翔けのぼるこの神秘の翼なる「牝鹿の脚」について稍々詳しく紹介して見たいと思うのである。


 或る日グレン・クラーク氏が或る小さな料亭で、窓から見るともなしにぼんやりと外を見ていた。氏は自分の註文を受けに来る誰かを待っていたのであるが、何か心のうちに落ち着かない気持がして、窓の外に吹いている風の渦も、雨の重吹(しぶき)の響きも氏の心を引き立てなかった。その時、突然ドアが開いてダン・マクァーサー氏が其の部屋へ入ってきたのだった。

 ダン・マクァーサー氏は町はづれの小さな教会でコツコツやって来た精力家の青年で教会の書記であったが、人好きのする性格の男で何でもやりかけたらトコトンまでやりぬくだろうと云う種類の人であった。

 グレン・クラーク氏とは大学時代からの友達であったので、氏は急にヤアと云った調子で立ち上がったが、彼は以前のような冗談一杯の調子では答えないで、クラーク氏の反対側の椅子にかけるとテーブルの上にその手を突き出して強い強い握手をした。

 何だか以前とちがう不思議な新しい力強さが彼の雰囲気に感じられるのであった。その不思議な力が何処からか自分の中へ入って来て骨の髄までジーンと伝わってくるかのような感じである。

 クラーク氏は彼の目を見入ったが、何と云う事だ、彼全体の顔色が明るく輝いて見えるのである。

 彼はメニューに見入っていたが鷹揚に何か二人前註文して、一緒に食べようというのである。どう云うものか彼の雰囲気には以前と異なる尊厳さと人を威服するような人格の力とが感じられるのであった。

「大変景気がよさそうではないか、百万弗の遺産でも譲り受けたかね。」とクラーク氏は突然云はざるを得なくなった。

「そんなちっぽけなものではない。僕は<生命の水>を発見したんだからな。」

「レオン・ボンスかね。それとも猿の生き肝(きも)かね。」とクラーク氏は冗談を云った。

「僕は君を驚かせたようだね。それは無理もないさ、僕は自分自身に驚いているんだからね。僕は新しく生まれかわったのだ。

 この新生は最近六ヶ月の内に起こったんだがね。この素晴らしい位置は、百万長者の位置と取り換えてやろうと云う人があってもそれは中々取り換えたくないね。」とダン・マックァーサー君は云った。

「君が――?」と、叫んでクラーク氏はおどろいた。と云うのはダン君は前々から金を非常に愛している男であり、その男が百万長者の位置とでも取り換えたくないと云うような富裕な位置にいると云うのは信じがたいことだったからだ。

 ダン君はロールにバターを塗りながら、

「そうだともよ。百万長者には新鮮なる意欲がない。僕のは意欲百パーセント。何でも吾が掌中にある。まあ謂わば天地を掌握したと云うような感じだね」と云うのだ。

「吃驚させるじゃないか。」とクラーク氏は彼が葡萄酒に酔っ払っているのじゃないかと疑いながら「その天地掌握の秘密と云うのはどんなものか知らして貰いたいものだね。」と云った。

「それは極めて簡単だよ。君の脚を牝鹿の脚のようにするだけで好いんだよ。あとは神様がやってくれるのさ。」

「牝鹿の脚だって、牝鹿の脚だって?何のことだか僕にはわからないね。説明してくれないか?」

 此処にクラーク氏の著書にはじめて「牝鹿の脚」なる語が出ているのである。>>


(つづく)




幸福の世界へ出る法 「牝鹿の脚」の話 <第二回> (1445)
日時:2013年07月03日 (水) 14時57分
名前:画龍点睛




幸福の世界へ出る法 

「牝鹿の脚」の話 <第二回>

(『善と福との実現』P.156−161)




<< 突如として「牝鹿の脚」だなどと云われてもそれは誰にも判らないが、「生長の家」の<真の>誌友で、何でも自由自在に思うことが成就すると云う人は、既に「牝鹿の脚」を得ている人であるのである。

 話は日本のことに帰るが、私は、三月十三日の午前十一時半カッキリに此の頃珍しい自動車が迎えに来た銀座の「平和グリル」で昼食を食べさせようと云うので、出掛けた。

 私を招待しようと云うのは古い生長の家の誌友で、戦災にも何一つ焼かないし、何をしてもトントン拍子で、焼け野原に、早速「平和グリル」と云う料亭と、喫茶店ジープと云うのを戦災復興の魁(さきがけ)にこしらえている男で、「毎日毎日が奇蹟の連続であう。どうしてこんなに都合よく行くのか、自分でも不思議になってくる位です。これは全く生長の家のお蔭です。

 先生の仰る通りに実行していれば、何もかも好都合にいくのです。自動車でも先生の必要なときにはいつでも差し向けます。近い内に新宿に劇場をこしらえて映画と劇とを交々やるつもりです」と云う。

 こう云う人たちが即ち「自分の脚を牝鹿の脚にした」人たちなのである。諸君は恐らく其の方法を知りたいだろうが、ダン・マックァーサー君をして暫くその方法を語らしめよだ。




「僕は喜んでこの秘訣を全世界に語りたいと思う」といってダン君は話し出した。「僕は数ヶ月前までは、まるで行き詰まった途方に暮れたような気持でいたんですよ。この気持から自分を抜け出させてくれるものは天にも地にも何処にもない。何処も彼処も陣痛の混迷とでも云うような状態だった。

 ところが天の一角から僕は一つの説話を聞いたのです。僕はボストンからポートランド行きの汽車に乗っていました。その汽車の中に、白い髯の紳士がいて、僕に一時間その話をしてくれたのです。たった一時間ですよ。

 その一時間の話が私を内的にも外的にも変化させてくれたのです。その話は貴方をも変化せしむるに違いない。その話がどんな変化を私に与えたかは君には見当がとれんだろう。其の話をきいた後では人間に不可能なと云うことは何もない。それは何事でも平易なABCたらしめてくれるのですよ。」

「どうして、そんな一つの話が奇蹟を演じるのだろう。」

「それは至極簡単さ。まあ聴きたまえ。先ず何かが、私の内部に起こったのです。先ずそれを得るんですね。自分の内に、深い深い自己の底に。ひそかに、黙々として流れている内部生命の中にですよ。君、わかるかい?」

「わかる。」とクラーク氏は答えた。

「で、そこに其の話の不思議なる部分があるのです。君が迚(とて)も信じられないような奇蹟的な部分があるのです。内部に変化が起こったら、外部に於いても、すべてのことが変化しはじめるのですよ。」

 光明思想にまだ触れていなかったクラーク氏は、このダン君の談がどうも呑み込めないのである。

「そう云う論理を信ずることは出来ないね。内と外と何の関係がある。」

 大抵の人たちは、外界の出来事は物質的な外部関係で自然に動いているものであって、心の内部が変わろうが変わるまいが、運の悪い人は依然として運が悪いし、運の好い人は運が好いのだ位に考えている。こう云う人はまだ「自分が自分の運命の主人公だ」と云うことを知らないのである。即ち未だ完全に自覚の上に自主権を確立していない非民主的な人に過ぎないのである。

「心配するな、君に其の話をきかしてやれば判ってくる。君がその話をきいて直ぐそれを実行するのだ。それを実行することが極めて必要だよ。」

「ところで、君はその内部の変化で、外部はどうなったと云うのだい。」とクラーク氏はきいた。

「君の内部に変化が起こったと云うことは君の目を見ればわかるがね。」

 この問いに答えるかの如くダン君の眼は星の様に輝いた。「君も知っての通り、僕は前には極めて小さな仕事しかしていなかった。其の仕事はべつに苦にならなかったが、僕が苦になったのは、教会の書記と云うあまりにも小さい仕事に自分が勿体無いと云うことだった。

 ところがさ。其の汽車の中での一時間の話の後にはじめて真に人類に貢献し得るようになれた。と云うのは、天空の一角から声があって、私は合衆国最大の教会に配属するように命じられたのさ。」



 其の教会の名は書いてないが、どの点から見ても合衆国で最も有名な教会であるとクラーク氏は書いている。

「まあ、君が今アメリカ最大の教会の副牧師であるとは?」とクラーク氏は其の時思わず叫んだそうだ。

「副牧師じゃないよ。」とダン君は訂正した。「主任牧師だよ。」

 愈々もってクラーク氏はそれを信ずる事が出来なかった。「何だか、狐につままれているようで、信じられないね。」と、もう其の不信をかくそうともしなかった。

 このクラーク氏の無耻(むち)な不信の態度にもダン君は少しも腹立ったような様子を見せないで微笑した。そして「それが、その話が効果をあらわした訳だよ。」と静かに云った。

「なんて素晴らしい話なんだろう。その話を是非聴きたいものだ。」とクラーク氏の好奇心は満点である。


 ところがその著書には早速とその秘密が書いてないのである。その秘密を知るためには長々とクラーク氏の英書を読んでいかなければならないのであるが、生長の家の誌友だったら、すぐこれだなと感銘せられる「あるもの」があると信ずる。


「よろしい。其の話をしてあげよう。併し、その話は君が直接、白い髯のおじいさんから聴けば最も好いんだがな。併し、僕に話せるだけ君に話そう。じつはこうなんだ。」とダン主任牧師は話し出した。そこへ折悪しく給仕がやってきて、

「電話でレヴェレンド・ダン・マックァーサーとお呼びでございます。」と云った。ダン君は最早、ただのダン君ではなく、「レヴェレンド」と敬語をもって呼ばれるようになっているのだ。日本では大僧正貌下(げいか)とでも云うところであろう。

 貌下(げいか)は「失礼します。直きにかえって来ます。」と電話にかかって何か話していたがすぐ戻って来て、「まことに君、済まないが、思いがけない用事で直ぐそれをやってくれと云うので失礼します。」と慌(あわただ)しく出て往った。

 まだクラーク氏はその神秘な説話をきく機縁が熟していなかったのである。併しその白い髯のおじいさんと云うのは一体何者だろう?>> 


(つづく)




幸福の世界へ出る法 「牝鹿の脚」の話 <第三回> (1453)
日時:2013年07月04日 (木) 09時24分
名前:画龍点睛




幸福の世界へ出る法

「牝鹿の脚」の話 <第三回>

(『善と福との実現』P.162−167)




<< その数週間のち、クラーク氏はニューヨーク市のブロードウエイを歩いていた。氏は23番の街角ではげしい群衆の中で旧友のジョー・ベンゾン君を見出した。

 どんな群衆の中からでも神は必要な時に必要なものを見出さしめ給うものである。それが摂理と云うものである。

 神は「牝鹿の脚」でクラーク氏の神秘に対する好奇心を釣って置き、しかもまだその神秘のカラクリについては説明しないで愈々好奇心の絶頂になって其の秘密を明かし給うのである。

 何でも満腹のときに与えてもそれは充分消化し得られない。食欲が百パーセント昂進したときに与えられてこそ、真理の料理も消化し得るのである。凡そ「牝鹿の脚」の料理もそんなものかも知れないのである。

 ところでクラーク氏が群衆の中で見出したジョー・ベンゾン氏は、いとも深切な目付きで、先刻からクラーク氏を微笑みながら見つめていたらしいのである。

 クラーク氏は未だ嘗てベンゾン氏を、「寛容な深切な老紳士」だなどと思ったことなどはなかった。ところが今遇った印象はまことにも、そう云う立派な老紳士に見えるのである。尤も、ジョー氏はたしかに前々から確実な才能を有っていたのであるが、未だにその才能を発見してくれる人に出遭ったことがなかったのである。

 然し、今、微笑みながら近付いてくる氏の風丯(ふうぼう)を見ると甚だ尊厳な、威風堂々あたりを打ち払うと云うようなドッシリとしたものが漂うている。

 氏が手を伸ばして「ヤアー」と言って握手したときには、どうしたことか、クラーク氏の人格の底まで震撼せしめるような深い感銘を与えるものがあるのである。

 ジョー氏はジーッと“まとも”にクラーク氏の眼に見入ったが、その顔色は頗る明るく輝いていた、彼の周囲にはどこか重々しい力が、人間的な自己を超えた力が、隠そうとしても隠しきれない状態で溢れ出ているとでも云うような有様であった。

「やっぱり、あの町の音楽隊(バンド)で演(や)っているのかい。とクラーク氏は訊いた。

「まあ来たまえ。」とジョー氏は丁度通りかかった喫茶店の扉を押しながら、「君には随分と沢山はなしたいことが積もっているんだ」と云った。

 喫茶店の脇テーブルに向かい合って二人は四方山(よもやま)のことを話していた。

「君は僕のうわさを何かきいたかね?」とストローでレモンソーダ水を吸いながらジョー氏は云った。クラーク氏はストローで吸うのはきらいだったので、二た飲みにグッとレモンソーダを飲みほした。それは夏の暑い日だった。

「君がある有名な楽団員になろうとして運動していたが、うまく行かなかったと云うことはきいたよ。」と云った。

「その通りだ。」とジョー氏は笑いながら叫んで、「そのあとの話は、君きいたのかい?」と声をおとした。

 クラーク氏は、「いや」と首を掉(ふ)ると、

「それがこうなんだよ。」とジョー君は話し出した。その話というのはこうなのである。


 ジョー氏がニューヨーク駅で、ニューヘヴン・ハートフォード間の汽車に乗ると、其処に白い髯のおじいさんが隣の席にかけていて、一瞬間の躊躇もなしに話しかけたと云うのである。

「君は失望しているね、若い人。君は失望などする権利はないよ。」とその老翁は云った。

 何と云う素晴らしい言葉でしょう。今、日本には無数の失望している人達がいるのである。そうした人達に、この白い髯のおじいさんに遇わせてやり、その失望する権利がない所以を知らせてやれば、日本の再建ぐらい何でもないのだと思われるのである。

「いや、僕はたしかに失望する権利があると思うのです。僕は長い間の時間と、労力と、そして夥しい費用とをかけて、熱心に熱心に勉強して来たのです。ところがその準備がことごとく報いられないで、あらゆる扉が自分に対して閉鎖されていると云うのでは失望するほかはないじゃありませんか。」とジョー氏は云った。

 白い髯の老翁は愉快そうな微笑を顔いっぱいに湛えながら「君の脚を牝鹿の脚に変えるんだよ、若い人、そうすれば君の運命はかわってくる。」と云って一條の「牝鹿の脚」の話をしてくれたと云うのである。

 クラーク氏は全く驚いてしまった。「牝鹿の脚だって?その話のつづきをしてくれたまえ、何が一体それから起こったんだ。」ときいた。

「いや別に、僕はその牝鹿の話には大して気にもとめませんでしたよ。それを聴き流して僕は自分の目的地へついたのですが、その話をきいて数週間後に、真夜半(まよなか)に目が覚めましたが、その時突然『牝鹿の脚』の意味がわかって来たのです。

 コレだと思うとその朝一番列車で、ニューヨークへ行き、其の同じ会社――そうです、その僕を採用しなかった同じ楽団に、僕は飛び込んだのです。

 そして楽団の小さい部分でも好いから、自分がどれだけの仕事が出来るかチャンスを与えてくれないかと申し込んだのです。するとその支配人、自分が題名をつけた有名な曲がある。そのセロの演奏が出来るなら機会を与えようと云ってくれました。

 丁度その楽団のセロ奏者の主役をやっていた人が重病にかかって二ヶ月間は演奏に出られないと云うところへぶつかったのです。『君が出来ればその代理をやって貰いたい』と云う“うってつけ”の申し出です。

『いつからです』と僕は全く自分の耳を疑うような気持で訊き返しましたが、支配人は『明日の晩から』というのです。僕は殆んど気絶するほど喜んだですよ。」

「君はレモン・ソーダに酔っているんじゃあるまいな。」とクラーク氏は云った。それほど氏は驚いたのであった。あの有名な楽団の主任セロ弾きにジョー君がなろうとは全く信ぜられなかったからだ。

「そこがあの牝鹿の脚に乗ったのですよ。」とジョー氏は云った。まったくジョー談でもないらしいので、「その牝鹿の脚がそれとどう云う関係があるのか話してくれたまえ。」とクラーク氏は云った。

「それがね、君、長い話なんだよ。ところで、僕は2,3分間のうちには遠いところへ出掛けることになっているので詳しく話している暇がないのです。では直ぐ会社の事務所へ僕と一緒に来てくれませんか、すぐ大通りを横切った処です。道々話すことにしましょう。」

 で、二人は一緒に出かけたが、ニューヨーク市の大通りの雑踏では話が充分聞き取れないままに話しながら、ある高層ビルディングに入って行った。

 その時ジョー氏はクラーク氏の方を振り向いて、

「君が牝鹿の脚を得たら、何よりも先ず内部の静謐と云うこと、深い深い深い魂の奥底の静謐を得なければならぬことがわかりますよ。わたしの云う意味がわかりますか。」と云った。

 そのとき二人はエレヴェーターの中に入った。

「その内部の変化はどうして起こるのですか。それを私は知りたいのです。」とクラーク氏は云った。

「其処に秘密があるんですよ。併し、もう到着しました。」とジョー氏は云った。クラーク氏とジョー氏が部屋へ到着したとき、秘書役があわててやって来て、

「ベンゾンさん、もう一時間も貴方を探していたのですよ。はるばるあの人たちがデトロイトから貴方を迎えに来ているのです。明日、あなたにセロの独奏をやって貰うことになっているのです。汽車が直ぐ出るんです。」と云うのだった。

「お気の毒さま」とジョー氏はクラーク氏に云った。

「お聞きの通り僕は行かねばなりません。またいつか僕のヒマのあるとき来て下さい。その時、あの『牝鹿の脚』の話の一部始終を申上げましょう」と云った。

 こうしてクラーク氏は、心の内部の変わる秘密を聞く機会をついに失してしまったのであった。>>


(つづく)





幸福の世界へ出る法 「牝鹿の脚」の話 <第四回> (1454)
日時:2013年07月05日 (金) 09時11分
名前:画龍点睛



幸福の世界へ出る法

「牝鹿の脚」の話 <第四回>

(『善と福との実現』P.168−171)





<<それから、クラーク氏はある風の激しい、ミシガン湖の水がみんな吹き飛ばされてしまいそうな暴風(あらし)の日に、シカゴへ帰って来たのだった。

氏が講師をやっているイリノイス大学ではまだ授業が再開されていないので、その晩、何か、講演か、劇か、音楽会へでも行きたいと思って新聞を見ると、最近、最も売れ行きの好い小説の著者であるミス・マリアン・グローがある有名な講堂で講演すると云うことが出ていた。そこでクラーク氏はその講話を聴きに行くことにしたのである。


 それは極めて興味ある講演であったが、その講演が殆んど終わりに近づいたとき、驚いたことが起こったのである。突如として、彼女は演壇の正面へ歩み出して来てこう云ったのだった。――

「そこでどうして私がこの本を書くに到ったかを皆さんに話したいと思います。

私は一個のうらぶれたる学校教師として、一文の金もなく、一人の知友もなく、しかも肺結核に悩める者としてコロラドへ往ったのでした。私は腕だめしに書いて見ました。併し駄目でした。

それから或る日の事、グリーリー・デンバー間の汽車に私は乗ったのです。その時、私の隣の席にかけていたのが白い髯のおじいさんでした。

そしてその人が私に、

『低い世界』で生きる事を止めなさい。人間はすべからく、『牝鹿の脚』に打ち乗って、高所に翔けのぼるべきですよと云ってくれました。

私はこのおじいさんの勧告に従ったのです。私は小説の構想を製造する工場であることをやめてしまったのです。

そして天から流れ入ってくる構想の流れの唯パイプになることにしたのです。その結果がこの本です。ベスト・セラーになったこの本が結果です。」

 マリアン・グロー嬢の講演は終った。白い髯のおじいさんの話がクラーク氏の心を刺激したので、氏は講演者に何か云おうとして演壇の近くまで急いで突進して往ったが、もう彼女は壇上にいなかった。

聞いて見ると、著者は次の講演会場へ行くためにすぐ汽車で発つのだそうである。クラーク氏の心の底に、潜在意識の底深く、あの白い髯のおじいさんにめぐり遇いたい思いが湧き出て来たのも無理はないのであった。


 次の日、クラーク氏はイリノイス大学で創作の書き方、読み方の講義をするために、そちらへ赴任したのであるが、それから三ヶ月後の或る寒い十二月の日に、クリスマス休暇で帰省するために、イリノイス州のアレド及びアィオーワ州のドモイネ間の汽車に乗ったのである。そのクリスマスを機会にクラーク氏は結婚の儀式を挙げることになっていたのである。

雪が降っていた。クラーク氏は記者の窓から外の雪を見ていたのである。そして気がついて見ると白髪の老人が列車の中をゆっくりゆっくり歩きながら、親しげな目つきで旅客一人々々の顔を覗き込むようにして歩いているのである。

そしてその老人はクラーク氏の座席の側まで来たときに歩みを止めた。

「御免なさいませ。恐れ入りますが、貴方のお側の席にしばらく掛けさせて頂けないでしょうか。」

「ええ、どうぞ。」とクラーク氏は云った。

 この白髪の老人は、クラーク氏の側に腰をおろすと、

「あなたは何か宗教的な仕事をやっていられるんじゃありますまいか。」と訊いた。

「いいえ、僕はただの文学の教師であり、学校では運動競技のコーチをやっています。」とクラーク氏は笑いながら答えた。

 老人は一瞬躊躇したように見えたが、

「だけど、何でしょう、あなたはその関係していらっしゃる青年たちに精神的な影響を与えてはいらっしゃるのでしょう。ね?」と云った。

「さあ。とクラーク氏は躊躇しながら答えた。「どんなものですかな。」

「私は商売をやっている者なのです。その関係でわたしは米国中どんなところへでも始終旅行している者です。その旅行の旅ごとに私は誰か一人に私の話を自然に話し出すようになっているのです。神様がその話をするべき相手の人のところへ常に導いて下さるんですね。そして今日は貴方に話をせよと被仰るようなんですが。」とその老人は云った。

「どうぞ話して下さい。喜んで承りましょう。」とクラーク氏は云った。>>



(つづく)





幸福の世界へ出る法 「牝鹿の脚」の話 <第五回> (1464)
日時:2013年07月06日 (土) 08時57分
名前:画龍点睛




幸福の世界へ出る法

「牝鹿の脚」の話 <第五回>

(『善と福との実現』P.171−176)




<<その老人の語るところは大体次のようである。---------

彼は青年のころ、希望に燃えた精力家としてオハイオ州のアルコンに来てある商社に勤務し、一所懸命商売に熱中した。その商売は予想以上に好成績を収めたので、間もなく、その商社の支配人になったのである。

彼は一会社の支配人になっているだけで満足する事無く、又別会社をつくってそれを主管し、更にまた諸多の会社の重役となった。そして溢るゝばかりに金を儲けたのであるが、朝から晩まで、金、金、金とばかり思ってそれに突進してきたのである。

それは丁度、一本の蠟燭(ローソク)を両端から燃やし尽してしまう様な具合で、とうとう彼は生命の破綻に直面したのである。

 破綻と云うのは彼が著しく健康を害したことであった。医師の云うには、「もう貴方の働ける命数は尽きたのです。生活を全然変更して湖畔にでも往って、何ヶ月も何ヶ月も、静養するほか何もしないことが、まあ貴方に残されたる唯一の希望ですね」と云うのであった。

 そこで彼はスペリオ湖のロイヤル島に往って静養することにした。体力も次第に恢復して来たので、或る日、ボートに乗って湖を数時間ぶらついて見たいと思った。

夏の青空の下にある豊かな水が、何となしに彼の心を和やかにして呉れた。内部からも外部からも、何か新しいものが芽ぐんで来るような新しい平和が彼の中に流れ込んで来るように思われた。

 丁度、日没近く彼は一人ボートに乗って漕ぎ出たのであるが、何だか睡くなって、いつの間にか彼は眠って仕舞っていたのである。

数時間後気がついて見ると、遥かに陸地も何も見えない、水又水の縹渺(ひょうぼう)とした湖面に、何方が島の北か、南か、東か、かいもく見当のつかないところに漂っているのである。

スペリオル湖には、時々強風が起こってボートの覆へされることがある。この最も寒い時期、湖水に溺れた者は決してその死体が発見されたことがない。そう考えると彼はパニックのような恐怖に襲われて来たと云うのである。

彼は神に祈りはじめた。併しどうしても神に祈ることが出来なかった。

何故かと云うと、自分は何ら祈るに価せぬものであると思われたからである。

すべての彼の過去の生涯が一度に記憶に甦って来た。

「この自分のような人間を助ける価値があるだろうか。自分のために金をかき集めるほかに何事もしなかったようなこの自分を、この自分がこのままこの世に帰ってこなかったにしても世界は何を失うだろうか?」


 このとき、彼は神に約束しはじめたのです。

「神様、若しあなたが私を救って下さるならば、それ以後の私の生涯の半分を神様の仕事に、人類を救うためにささげます。特に青年を救うために」

こう云って祈ったとき、神からの答が来たのだった。----

 ここまで語り出したときに其の老人はあわただし気にポケットをま探りはじめた。一枚の絵葉書をつかみ出してクラーク氏の面前に差し出した。

その絵はまさしく写真そのもののように見えた。それには湖の上に一隻のボートが浮いている。そしてそのボートにたった一人の人間がいる。その上に月と星とが輝いている。

その無数の星の中に、他の星の十倍もの大きさ、月の大きさの四分の一ほどもある大きな星が、ひときわ、あざやかに光っているのであった。

イエスの降誕の場所を示したベツレヘムの星とはこんなものかと思わせるような大きな星であった。

「その時ですな、空に突然この星が現れて来たのですよ」と老人は絵葉書の中のこの大きな星を指さしながら云った。

「それは未だ嘗て見たこともないような巨大な星でした。私は、その神秘さに圧倒され、夢でも見ているのではないかと最初は疑いましたが、

いやいやこれは神様のお示しに違いないと思って、その星をシッカリと見定めて、常にその星をボートの軸と一直線に保ちながら一所懸命、漕いで漕いで漕ぎました。

ところが不思議ではありませんか。私は出発した島の船着場のその場所へピタリと帰り着いたことがわかりました。これが私の話のすべてです。」 

こう云って老人は話を突然やめて、

「この話をどうぞ憶えていて下さい。それを貴方の魂の中に植えつけて置いて下さい。いつかそれが貴方の生活に根をおろして果を結ぶでしょう。

何時、如何にしてかと云うことは私は存じません。しかし私の知っているのはこれだけなのです。

神様から来たものは永遠だと云うことです。神様の植えないものは引き抜いて捨てられます。しかし神様の植えたものには百倍の果を結ぶのです」こう云って座席を起っていこうとした。

「失礼ですが、もう一分」とクラーク氏は呼び止めて「その後、貴方はどうなすったのです」と訊いた。

「私はただエレヴェーターに乗っただけです。

そして、別の階層へ上がって往っただけです。

当たり前の商売、教会での生活、それは前通り、平常そのままに継続しておりましたが、全く別の世界で生活しているのです。

わたしは愛と平和と幸福が私のいるところにつきまとう天国のような世界に生活している自分自身を見出しました。

それは商売の友人との関係でもまた旅行中偶然遭った知り人との関係でも同じことです」

こう云ってその老人は私に対して微笑するのであった。

「しかし、どうして貴方はその高い階層にのぼったのですか」とクラーク氏は尋ねた。

「それは神秘ですよ。偉大なる、不可思議なる神秘ですよ。

若し、貴方が直にその神秘を知りたいと被仰るならば申しましょう。

それは斯うです。

『彼はわが脚を牝鹿の脚の如くならしめ、いと高きところに吾を立たしめ給う』と云うことなのです」

(「神はわが強き城にてわが道を全うし、わが足を牝鹿のごとくなし、我をいと高き所に立たしめ給う」サムエル後書第廿二章33−34)


クラーク氏は驚いた。

「牝鹿の脚」「牝鹿の脚」その言葉は氏の脳裡をまるで耳近く鳴る鐘の様に離れなかった言葉であった。

「ついに、あの白い髯のおじいさんが、神秘の人が、自分の眼の前にあらわれたのだ。もっと其の事について聴きたい」と思っていると、

「それでおしまいです」と又しても老人は立ち上がろうとした。

「其の牝鹿の脚と云うのは一体どう云うことなのですか説明して頂けませんか」とクラーク氏は懇請した。

「神様が鹿にはどのように脚を使わねばならぬかをちゃんと教えておられます」と言って、老人は謎のように

「教えているじゃない、ちゃんと脚を使っていますよ。さあ鹿ちゃん、行きなさい。四本の脚を使うんですよと云う所ですな。」と附け加えた。

「もう一つ尋ねさせて頂けませんか」とためらい勝ちにクラーク氏は尋ねた。

「さあ、どうぞ」

「では、その鹿は高い所へ登って行くのに何(ど)の道を通っていくのですか」

「私の見出した最もよき道は『主の祈り』ですよ」こう云うと愈々老人は起ち上がった。そして自分の名刺を差し出して、さっさとあちらへ往ってしまった。

クラーク氏は何か魔法の国からでも出て来そうな神秘な名前でも見つかるかと思って見たが、それにはオハイオ州エークロン市、ミスター・フィビーガーと書いてあって、全く当たり前な散文的なものであった。>>


(つづく)








幸福の世界へ出る法 「牝鹿の脚」の話 <第六回・最終回> (1476)
日時:2013年07月08日 (月) 13時41分
名前:画龍点睛




幸福の世界へ出る法


「牝鹿の脚」の話 <第六回・最終回>


(『善と福との実現』P.177−183)




<<クラーク氏はそれからグリンネルと、ドモイネスへ行き、数日後にグリンネルに帰って其処で結婚式を挙げ、花嫁と相たづさえて、イリノイスの大学のある町へ戻って来たのである。

 あれやこれやで忙しいクラーク氏はあの白髪の老紳士と、其の語ってくれた話を殆んど思い出さなかった。実際、このすべての出来事をただの夢として、そしてこの老人を自分の空想の所産として心の世界から追放したいような気になっていたともいえるのである。

併し、そう出来ない事件が、大学のある町に着くと直ぐ起こって来たのである。

 それはどんなことかと云うと、クラーク氏が新夫婦の最初の家として借りた家はゴタゴタした取り乱した家だったが、その家にとりつけてあるオクトーバスの腕のある大きな石炭炉に、クラーク氏がショベルで石炭を先ず一杯くべ、二杯目をくべようとしたときに、氏はその暖炉の扉の上に名前板(ネームプレート)があってフィービーガー・アクロン暖炉会社と書いてあるのを見出して驚いてショベルを持った手をやめて、じっと物をも云えず突っ立ったままでいた。

たしかにあの老人の名前なのである。老人は自分の空想した白日夢でもなく、実在の人だったのだ。

新婚の最初の冬を暖めてくれるストーブの製造会社の名前を知って置いても、それは決して無駄なことではないと云うことである。しかもそれ以上にこの老人の魂から出た言葉がそれ以来、自分の家庭を暖めつつあるのである!

それが実在の人物であったと知ることは喜びでなくて何であろう。

 其の後、オハイオ州アルコン市第一メソヂスト教会、世界最大のメンズ・バイブル・クラスの指導者フィービーガー氏から「西部クリスチャン・アドヴォケート」と云う雑誌を、一冊送ってきた。

しかしそれ以来、「牝鹿の脚」の問題は遂に進歩を見せなかった。

併しそれから九年後になって愈々其の全貌を明らかにする時が来たのである。 

それからクラーク氏は長い間、この老紳士のことも「牝鹿の脚」の話もいつとはなしに忘れてしまっていたが、或る日周囲の事情から自然にワイオーミング州の或る農場に数日間生活することになったのである。

クラーク氏の乗馬用として氏の求むる儘に一匹の馬が差し向けられたが、カウボーイたちと一緒に、どんなに荒っぽく乗っても差し支えないと云う特権を与えられていたのである。

乗って見ると嬉しいことには其の馬は仲間のうちでも最も速力の迅い馬であった。

何故自分にこのような光栄が与えられたのかクラーク氏には不明であった。

やがてそれは広い平原ではスピードと云うものが最も重要な要素であり、また山においては尚一層特殊の重要な要素であると云うことが判って来た。

 或る日、この高原地帯に放牧してある馬どもを馴らすために山腹の険しい石道を五人の者が乗って行くことになった。

最初萬事はうまく往ったが、とうとう差しかかったのは危険な辷りやすい嵯峨(さが)たる岩の兀立(ごつりつ)せる道であった。

もし一歩ふみはずしたら永遠に死の世界へ墜落すると云うところである。

そのときクラーク氏は皆の者からもっと傾斜の少ない危険のない廻り道をして頂上へ行くように勧められた。

何故自分だけが、安全な路を勧められるのかとクラーク氏は尋ねた。

 すると世話役の頭が云った。

「旦那の馬は山のぼりには確実性がないからです。

その外の馬は皆、真に山登りの馬なんです。

その前脚が踏んだ脚あとをしっかり確実に後脚が踏むのです。

前脚は見ながら歩くのですから安全な山の背をしっかりと踏みます。その同じ場所を後脚が踏めば安全なのです。

ところが、旦那の馬は不幸にして数年間、市街で馴らされました。

そのために天与のその天分を失ったのです。

他の動物と同じように近代文化にあまり晒され過ぎましたので、後脚が前脚の踏んだあとを二、三寸狂って踏むのです。

吾々が登って行く険しい突兀(とつごつ)たる山道は、後脚が一寸踏みちがえると、死の谷へ真っ逆様に落ちるおそれがあるのです。


 「成る程」とクラーク氏は答えた。「君達の乗っている馬は、鹿とかカモシカとかに類する脚を持っている訳なんですねぇ」、

「まったくそうです。高い所へ登るには山羊のような確実な後脚を持っていなければならないのです」 


その「高い所へ登るには山羊のように確実な後脚が要る」と云う言葉が、パッと光のようにクラーク氏の頭へ入って来て、氏は全体の真理が啓示されたように思へたのである。

何故なら、白髪の老人の語った牝鹿の後脚の謎がついに解けたからです。

氏には深くその神秘に入っていけば行くほどそれは驚嘆すべき真理を蔵しているように思われた。

それからそれへ偉大なる目眩めくばかりの真理が黙示のように殺到して来るように思われるのだった。

その二、三を次に掲げよう。

 どんな他の動物も鹿の前脚と後脚ほどに完全な相互作用をもっているものはないのである。

牡鹿(おじか)もその点では脅威に価するものではあるが、

牝鹿(めじか)のそれに到っては、神の創造し給える中でも最も完全なる物理学的完全さをもっているものである。

 それから来る、目眩めくばかり輝かしい啓示と云うのは、

牝鹿の脚が山登りをするときにあるように、人間も、その生活の高層に登るには、その心が「牝鹿の脚」のようであらねばならないのである。後脚が前脚の行ったあとをぴったり踏むように、

人間の潜在意識は現在意識の欲するところを、ぴったりと信じ進まなければならないのである。

そして動物が高所に登るには前脚と後脚との関係が最も完全なる相互作用をもっていなければならないと同じように、

人間も高き自由なる境涯に上るには現在意識と潜在意識との間に最も完全な相互作用をもっていなければならないのである。 

こうかんがえて来たとき、あの白髪の老人が云った「彼はわが脚を牝鹿の脚の如くにならしめ吾を高き所に伴いたまう」と云う言葉の意味がハッキリして来たのである。

聖書にあるところの、

 「神を信ぜよ、われ誠に汝らに告ぐ、若し信じて此の山に移りて海に入れよと云うとも、彼のHeartに於いて疑うことなく、信じて云えばその言葉の如く必ず成らん。汝若し芥子種ほどの信だにあらば、汝の欲するものを求むるに、何事といえども成らざるもの無けん」

 と云うようなイエスの言葉の真理がクラーク氏にはっきりと開顕されてきたのである。

 人間の唇は現在意識の想念を語るのである。

 ただHeart(ハート・真実感情)のみが吾々の潜在意識の想念を語るのである。「汝がHeartに於いて信ずる如く何時にまで成るのである。

 ハート即ち潜在意識の後脚が、現在意識の前脚の踏むところを、ピッタリとその通り信じて行けば、

 何事と雖も、山に登ることの、山をして海に入らしむることも不可能なことではないのである。

 現在意識の言葉と潜在意識の感情とがピッタリ一致することが必要なのである。

 吾々は人生の最大の祝福を、単に数寸の後脚の踏みどころで逸してしまう。

 この見たところ何でもない数寸が人間を地獄の谷へつき落とし、また眺めひろき山頂へと誘ってもくれるのである。

 まことにそれは数寸又は十分の何寸かの狭き門である。

 「狭き門より入れ」の啓示も深刻にその深い意味がわかった気がするのである。

 併しそれではその後脚はどうしたら前脚の踏んだ道を正確に歩むことが出来るか、

 山登りの先達は云う。「あまりこの動物は近代文化にさらされ過ぎたのです」と。

 また白髪の老人は云った。「牝鹿の後脚がどう歩むかと云うことは神様が、<そのまま>に教えて下さっているのです」と。

 そうだ!“そのまま”に帰ること、

 そのままに神の生命をわがものとし、神の智恵をわがものとし、神の叡智をそのままに一挙手一投足をまかせ切れば好いのである。

 “そのまま”になるには<そのまま>の世界と、人間の<そのまま>の生命とがすでに完全なることを知らねばならない。

 それには白髪の老人の言った「主の祈り」が、「みこころの天になるが如く地にもならせ給へ」の祈りが最も力をあらわすのである。

 神の完全なみこころは“既に”、「天」即ち實相の世界に、其処にすめる<實相の人間>にすでに成っているのである。

 それを知ること、とそれを見ること、観ずること、想念すること、言葉にあらわすこと――

 それらのはたらきが「一」に成っているものが真の正しき祈りなのである。

 「まず神の国と、神の国の義(ただ)しきを求めよ。其の余のものは汝らに加えられん」とイエスは云った。

 神の国は、神の人は既にあるのである。ただ、それを毫厘(ごうりん)でも踏みはづして、疑いをさしはさめば、それだけ谷底へ墜落するのであると云いたいのである。>>  (完)






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