生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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<お伽噺の秘義> 「マサノブ教」では説いていない「正統・生長の家」の『御教え』 @ A B C D  (1506)
日時:2013年07月12日 (金) 09時39分
名前:信徒連合

「桃太郎の鬼ヶ島征伐」の秘義

神の真義とその理解P.141−142(但し、現在は絶版)



<<桃太郎のお伽噺がありますが、こう云う作者不明の、古代から民族に伝わっているおとぎ話と云うものは一種の神話でありまして真理を象徴しているのであります。



 では、桃太郎というのは一体何かと言うと、或る日、おじいさんは山へしば刈りに往った。これは心の雑木、雑草、雑念を刈り除いて心を浄化することです。


おばあさんは川へ洗濯に往った。これも心の垢を洗いおとすことです。


そうすると浄き流れの川が出て来る。川というのは生命の川ですが―――


「黙示録」の第二十二章には「み使い、また水の如く透きとうれる生命の水の河を我にみせたり。この河は神と子羊との御座(みくら)より出でて都の大路の真中を流れる。河の左右に生命の樹ありて十二種の実を結び、その実は月毎に生じ、その樹の葉は諸国の民を医やすなり」とある。


その月毎に生ずる実とは、月毎に発行される生長の家の雑誌の象徴ですよ。その生長の家の雑誌から実って来たのが「生命の木の実」であり、略して「生命の実」――その生命の実の相(すがた)が聖典『生命の実相』であります。

 
その「生命の宿っている果実」が「桃の実」であってですね、それが生命の川を流れて来るんです。おばあさんがその「桃の実」を持って帰って、割ってみると、桃太郎が出て来たというのは「生命の実」の実相が出て来たことでありましてその桃太郎が鬼ヶ島を征伐するのです。

 
「桃の実」から出て来た桃太郎が征伐する鬼ヶ島というのは、「死の国」のことです。


吾々の生命を奪わんがために追っかけて来ているところの死の国「鬼ヶ島」の軍勢を征伐するのは、桃太郎即ち、「生命の実」から出て来た其の「実の相(じつのすがた)」は――生命は神から出ずるものであるから、永遠不死不滅であると云う真理のほかはないのであります。

 
「創世記」に、アダムとイブとが智慧のの樹の果(み)を食べて、「不死の世界」なるエデンの楽園から追放された。その楽園を奪還するには、「生命の樹の果」をたべなければならない。今がその時なのであります。>>






<お伽噺の秘義> 「マサノブ教」では説いていない「正統・生長の家」の『御教え』 A (1511)
日時:2013年07月13日 (土) 09時03分
名前:信徒連合




浦島太郎の龍宮と玉手箱の秘義


神の真義とその理解P.134−136(但し、現在は絶版)



<< 大体、生長の家の大神――生長の家の本尊――は、如何なる神であるかといいますと、本来は宇宙創造の神であります。――

宇宙創造の神で塩椎の神ともいわれている。

「シ」というのは「水」であり「ホ」というのは「火」であり「水」は陰であり「火」は陽であり、「ツ」は「繋ぐ」「続く」の「ツ」であって、「シホツチ」とは陰陽がつながりつづき、結ばれて一切のものを生み出すところの「チ」即ち霊をいうのであります。

ウマシアシカビヒコチの神の「チ」意富斗能地神(おおとのちのかみ)の「ち」は霊と云う意味の接尾語であります。

吾々の肉体を「チ」がめぐっているというのも、霊が具体化して肉体となり、その肉体に於いて「血」としてめぐっているので、「霊」がめぐっていることを「血」がめぐるというのであります。

だから「霊」がぬけたら「地」がめぐらなくなるし「血」があまり出て、出血多量であれば人間は死んでしまうのです。

 此のように解釈しますと、「シホツチ」という名称は、陰陽結び合わされて一切のものを生み出す「創造の霊」なる本源の神であるということがわかるのであります。



 このシオツチの神様は龍宮界の神様であります。

塩釜大神(しおがまのおおかみ)とも謂われます。

塩釜とは水火交(シホカ)み即ち陰陽交合により一切のものを生み出す意味であります。だから安産の神ともあがめられています。

この神は住吉の大神とも謂われ『古事記』では「すみのえの大神」と読むようなことになっているのであります。

イザナギの大神とイザナミの大神の他に、『古事記』に於いて「大神」と書かれているのはこの「すみのえの大神」即ち住吉の大神だけでありまして、これを見ましても、「すみのえの大神」――住吉の大神が如何に偉大なる神であるかと云うことがわかるのであります。

すなわち住吉大神は宇宙本源の神があらわれて宇宙を浄化し住み吉き世界にせられるお働きのときの名称であります。



 「実相の世界は創造の本源世界」であって、そこには一切の宝が充満しているのであります。

だから象徴的神話には、龍宮界には七宝充満している世界だという風に物語られているのであります。

この創造の本源世界なるところの実相の世界は時間空間以前の世界でありますから龍宮界へ行くと年が寄らないのであります。

ですから象徴的物語には浦島太郎が龍宮界へ行っている間は年が寄らないで、いつまでも若かった。

そして玉手箱を持って地上へ上がって来たとき始めて白髪になっているのであります。



 玉手箱というなは魂が現象界に出て来る箱であります。

「箱」というのはなにかといいますと、縦、横、厚みの寸法によって限られているものが「箱」であります。

即ち箱というのは縦、横、厚みの三次元空間の現象世界のことである。

魂が現象世界へ出て来た。そして現象世界の蓋を「開いて見れば煙が立ち浦島太郎が老人になった」というわけは、「煙」というのは迷いの暗幕であります。

現象世界に出てみると迷いの暗幕がかかって、本来永遠不死なるところの(人間浦島太郎)の生命が老い果てて「白髪爺」となって死ぬような姿にあらわれて来る――という物語になっているのであります。>>




即身成仏の真理P.98−111


 << 龍宮海というのは、創造の根底世界を神話的に象徴化してなずけた語であって、これは「久遠の実在」の世界であります。

浦島太郎の寓話を皆さんは御存知だと思うのですが、浦島太郎が亀をいじめている漁師の子供たちを戒めて、その亀を海中へ逃してやると、亀は無量寿を保つ龍宮の神様の化身であったのであって、それが現象界に出て神通力を失って子供たちにいじめられているのを救けて貰ったお礼のために、浦島太郎を龍宮海に案内するという物語でありますが、これは一般に童話の如くお伽噺の如く考えられていますけれども、実は、これは「神話」であります。


 「神話」というのはお伽噺とは違うのであります。

「神話」というのは、未だ科学的頭脳知識が発達していない古代の民族が、科学的な分析精神が発達していないものですから、そういう時には、却って直感の智慧というのが発達していまして、直観叉は直感によって、モノを知るのであります。

「直観の智慧」というのは、真理の“直接認識”といってもよいのであります。

直接認識というのは、直接に存在の実相に直下に自分の < いのち > がカチカチと、譬えば音が出るほどに、触れてその < 対象そのもの > 全体をズバリと把握することであります。

これが直接認識の智慧であります。< これ > を、仏教では「般若の智慧」と称うのであります。・・・



 「生長の家の歌」の第三番目“古事記讃歌”には

< 天津日子  火遠理の命  現象の 罠にかかりて  海幸を  我の力にて  釣りたまう

されど釣り針 失いて  まがれる鉤に 迷うとき  しおづちの神 あらわれて     めなしかつまの み船にて  龍宮海に導きぬ  龍宮城はいま此処ぞ  龍宮城はいま此処ぞ >

 と謳われているのであります。


この創生(うみ)の底なる龍宮城こそ創造の本源世界を象徴したのであります。

皆さんは、『古事記』をお読みになってその神話の説く深い意味を知らなければなりません。

『古事記』の“神代の神話”には日本古代の民族が如何に日本人を、日本民族を、そして日本国を、さらに宇宙の真理を、理解したのであるかということが書かれているのであります。

神話はその表面は童話のような装いをつけていますが実に深い真理が蔵されているのであります。>>





<お伽噺の秘義> 「マサノブ教」では説いていない「正統・生長の家」の『御教え』 B (1521)
日時:2013年07月14日 (日) 09時11分
名前:信徒連合




「筑紫の日向の橘の小門」の秘義

神の真義とその理解P.142−146(但し、現在は絶版)




『古事記』に「桃の実三つ取りて投げ撃ち給いしかば、悉に逃げ帰りき」とこういうようにかかれているのは「生命の実相」を悟ったならば「死の国」の軍勢は逃れ去る。

その「桃の実」三つと云うのは日本国家の実相、日本天皇の実相、人間生命の実相の三つであります。

それなんですよ。それを吾々が自覚したら「死の国」の軍勢は逃げて帰るのです。

けれども伊邪那岐神様は自分の妻神であった伊邪那美神様が火傷をして黄泉国(よもつくに)で寝ていられるのであるから、まだ、その物質文明に執着がある。

 そこで可哀相だと思って一体どういう状態であるか見舞ってやりたいと思ってそっとおいでになって、殿騰戸(とのど)といって御殿にたれてある帳(とばり)を引きあげて御覧になったら伊邪那美神様の容態は、『古事記』には「うじたかれとろろぎて」と書いてあり、「胸(みむね)には火雷(ほのいかずつ)居り-------」と云う風に体中に雷(いかずち)の神様がいっぱいたかっておって蛆(うじ)がいっぱいうじゃうじゃしていた。――

これは物質文明の終末の象徴で死体が腐って蛆がたかって、体中に雷が覆いかぶさっていたという。

 雷(いかづち)は原爆水爆の象徴でその爆撃で、そういう姿になっていられたのです。

伊邪那岐神様は「ああ、いやらしいな」とお思いになり、『古事記』では、「御身(おおみま)の禊(はらい)為(せ)名と宣(の)り給いて、筑紫の日向の橘の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら)に出でまして禊祓い給いき」とこう書かれている。

それはつまり、「物質文明だけの世界は、ああいやらしい世界だ」、「あんないやらしいあんなところへ行って、身体が穢れたから、身体を清めなければならない」ということです。

 そして筑紫(すなわち尽十方)の、日向というのは光明遍照です。

筑紫は「尽くし」で尽十方(じんじっぽう)ですね。日向(ひむか)は日向(ひゅうがのくに)ではないのです。

「日に向かう」というのは、光明遍照のと云う意味です。

尽十方光明遍照の、「橘の小門」というのは「言葉の力」のことであります。五十音をアイウエオ・アカサタナと配列しますと、竪(たて)の初(はな)に並ぶ音が、ア、イ、ウ、エ、オであって、このアイウエオの音霊が「、竪初(たちはな)の音」なんです。言葉は神であります。

言葉が完全な陰陽そろった言葉にならないと本当にこの世界が完全な世界にならないという訳なんです。



 外国の言葉に多いところの子音だけの言葉――例えばBOOKの最後のKのような言葉は不完全音である。

このKの発音はまるで犬がのどに骨をたててヘドを吐いているような不完全音であって決して「ク」でもなければ「ケ」でもない。

そのKの不完全音にア、イ、ウ、エ、オ(A,・I・U・E・O
)という竪(たて)の一番初(はな)にあるところのこの音を入れてやると、それが明瞭な発音の陰陽揃った完全音となってKA, KI, KU, KE, KO(カ、キ、ク、ケ、コ)と云う風に完全音になる。

此の言葉の力のよって宇宙を浄化せられたのが伊邪那岐の神様のミソギでこうして尽十方を光明遍照の世界の「光」をもって「闇」即ち黄泉国(よみのくに)の穢れをお浄めになったのであります。


 その宇宙浄化の御働きの最後の完成に生まれて来られたところの神様、それが上筒之男神、中筒之男神、底筒之男神であります。

そこでですね、伊邪那岐大神、即ち宇宙を創造せられたところの神様の宇宙浄化のお働きが人格化して表われて居られるのが住吉大神である。

この住吉大神は何時現れられたかと申しますと、之は天照大御神さまのお生まれになる直前に生まれて居られる。

天照大御神様が此の世にお生まれになる前に宇宙の浄化をしなければならないという順序になっていまして、そのため宇宙浄化の神様として住吉大神が生まれていられるわけであります。

 住吉大神は本来、宇宙の創造神たる伊邪那岐大神の創造の働きの一つの動き――浄化の働き――が現れられた神様でありまして、それは丁度阿弥陀仏の人類救済の働きが人格的に観世音菩薩と現れておられるように宇宙の大神の浄化のお働きが、住吉(すみのえ)大神として人格的に現われて来られたのであります。


 かくて住吉大神による宇宙浄化が終わりますと伊邪那岐の神様の左の目から天照大御神様がお生まれになり右の目からは月読(つくよみ)の神様がお生まれになって、それから、鼻(みはな)から須佐之男命がお生まれになりました。

そして伊邪那岐大神は「三はしらの貴子(うずのみこ)得たり」と非常にお喜びになったということが『古事記』に書かれているのであります。


 天照大御神様が左の目から生まれ給うたその意義は、左というのは「火足(ひた)り」であって、光の極点をあらわし、伊邪那岐神すなわち宇宙創造神の光の極点たる神様が天照大御神様であられる象徴であります。

伊邪那岐大神は伊邪那美神なる物質文明の神に対して、「霊」の分化の神様でありまして、両神で宇宙創造をせられたが、伊邪那美の文明は遂に原爆水爆で「うじたかれ轟きて」破壊してしまったので今は宇宙の創造の完成をするのは伊邪那岐神様で、その霊的ミソギのはたらきとして、いよいよ住吉大神がお生まれになりましたらその次に天照大御神様が今度は御誕生になる順序になっているのであります。


 生長の家に住吉大神が出現せられたことは非常に重大な出来事であります。

『古事記』に書かれているところの天照大御神様の御誕生は霊界に於ける第一次の御誕生で、いよいよ今度は現実界に天照大御神が御降誕になる「第二の天照大御神の御誕生」という順序になる訳でありますが、それがどう云う形で現われて来るかは誠に興味あることであります。・・・>>







<お伽噺の秘義> 「マサノブ教」では説いていない「正統・生長の家」の『御教え』 C (1531)
日時:2013年07月15日 (月) 13時40分
名前:信徒連合




「無目堅間の小船」の秘義(其の一)

「古事記と現代の預言」P.224−231(但し、現在は絶版)



 『古事記』に「无間勝間之小船」(まなしかつまのおぶね)とあるのは『日本書紀』には「無目堅間」(めなしかつま)と書かれてあります。

この彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)が無目堅間の小船にお乗りになって龍宮界にお渡りになったというところに、日本天皇の御天職であるところの“絶対無への還帰”ということが象徴されているのであります。

天皇といえども、現象界に肉体をもってお生まれあそばした限り、肉体的な生理作用もおありになれば、肉体的な五官の欲求もおありになるのは当然のことであります。

しかし国家の重要な問題に関して「海辺に立ちて泣き憂い給う」(『古事記』綿津見宮の段)ような問題に面せられますと、“絶対無”の小船(おぶね)にのって「龍宮海」即ち一切を「ウミ出す本源・実相の世界」に渡られまして、そこからその問題解決の「無限智」を導き出されるのであります。


「無目堅間の小船」の「目無し」ということは、時間の目盛りがないこと、即ち「無時間」を象徴しているのであり「堅間」ということは空間が堅く鎖(とざ)されて無空間であるということであります。

「小船」の「小」は無時間・無空間の縦横十字の交叉点の極微「無」の一点であり、未だ時間発せず空間生ぜざる「無」の一点であります。「小船」の船はそれに乗ると彼岸に渡ることができる「如来の願船」であり、それに乗るとは、絶対無の世界に還帰することであります。

 この“絶対無”の小船に乗るということを、ここでは「無目堅間の小船に乗せまつりて」という風に象徴的に表現されておりますが、具体的にかみくだいて解りやすく申しますと、

全然「我」というものも「我欲」というものも「我の所有」というものもなくなって「無」になり切ってしまう、あの大東亜戦争の終戦の時に「私の体はどうなってもよい、国民を救けたい、できるだけ多勢国民に生きておって貰いたい」と今上陛下が仰せられたその「天皇の生き方」そのものの中に示されているのであります。

こうして国家の重大事に際しては「無」になり切って龍宮海――即ち実相世界の智慧と結合せられる――この事を『古事記』には次の如く書かれているのであります。

(『古事記』の中の最も美しき文章――“爾(ここ)に海神(わだ)の女(みむすめ)・・・・・其の国に住み給いき”(綿津見宮の段)――

 こうして天皇は「絶対無」の世界に還帰せられまして、龍宮無限供給の世界と結婚せられること(火遠理命と豊玉姫)になったのであります。

無我になることが無限供給を受ける道であります。

龍宮海即ち「生ミの底」(創造の本源世界)には、失われたるものは少しもないのでありますから、『古事記』神話には一尾の鯛が喉にその鉤(釣り針)をもっているのを見つけて、それを吐き出させられたことになっているのであります。
                     



<お伽噺の秘義> 「マサノブ教」では説いていない「正統・生長の家」の『御教え』 D (1538)
日時:2013年07月16日 (火) 09時07分
名前:信徒連合




「無目堅間の小船」の秘義(其の二)

如意自在の生活365章(P.276−279)




住吉大神の御使命について


<< 蓮華蔵世界海(蓮華の実相を内に蔵する海の底)にまします竜王とでも譬うべきお方が、塩椎大神であり、綿津身神であり、住吉大神であり三神一体であらせられるのである。水火津霊神(しおつちのかみ)は水(陰)と火(陽)とを繋ぎ結びて一切を創造したまう場合のお名前であり、綿津身神(わだつみのかみ)は「海(わだ)の御身(おんみ)」(すなわち龍宮の御本体)を指す場合の御神名であり、住吉大神は宇宙を浄め給うて、天国浄土の住み吉き実相をあらわし給うお働きの場合の御神名なのである。

生長の家に住吉大神として出現せられたのは、今や世界秩序が混沌として乱れ狂うている状態であるから、この世界の混濁を浄化せんがために現われられたのである。それ故吾らその神意を体して住吉本宮に顕斎し奉るのである。>>




曲がれる鉤(はり)で釣ってはならない


<< 今や、この混沌たる世界は、互いに謀略を尽くして駆け引きによって権勢および利益の奪い合いをするのに一所懸命になっている状態である。これが『古事記』には、彦火々出見命(ひこほほでみのみこと)が釣り針をもって釣りに出かけられたが(相手を引っかけようとしたが)、一尾も得ずして逆に釣り針を失ったという神話で表現されているのである。

真直ぐな心で、真直に、正直に自分の心を正し、生命を匡(ただ)して誠をもって外交折衝に来る人々はすくないのである。

それは引っかけ合いの世界であり、正直な者が損する世界である。

それは波立つ世界であり、変化無常の世界である。

そのような世界から去ってわれわれは“常住の世界”・“掛け引きのない世界”・“譎詐(きっさ)のない世界”・“本源世界”・“実相世界(龍宮)”に帰還しなければならないのである。>>




“迷い”は本来ないのである


 << 龍宮・無限供給・常楽の世界に入るとき、損得の世界を超えるのである。そのためには現象界の事物に対する執着を捨てなければならないのである。

「迷いはどこから来たか」の問題は、「迷い」というものが外から訪問して来たというような意味ではないのである。

自分が現象界の事物をアリとして引っかかり執着する「心の状態」が“迷い”であり、どこから来るのでも、どこにあるのでもない、ある種の心の状態にすぎないので、「引っかかる念」を棄てたら「迷い」はないのである。

 現象界の事物をアリとし、それが失われたとして、心が煩労(はんろう)している限りは“迷い”という心の状態は消えないのである。>>




“如来の願船”に乗って彼岸に渡る


 << 現象界の事物に執着する心を、放ち去り棄て去った時、“迷い”は消える。“<消える>”というのは「本来ない」からである。

現象界の事物から心の執着を去ることを、神想観の実修の際には、「われ今、五官の世界を去って-------」と誦えるのである。

そして「-------実相世界に入る」というのは、龍宮海に入ることであり、既に“居る”ことでもある。

龍宮海とは、時間・空間いまだ生ぜざる超時空の創生(うみ)の本源世界(生ミの底の世界)である。

 その本源世界に入る道(修行)が神想観である。

それを古事記神話は「無目堅間の小船に乗る」と表現されているのである。

この小船に乗ることが、仏教的にいえば「如来の願船に乗って彼岸にわたる」ことになるのである。

「如来の願船にも大乗あり、小乗ありであるが、「信心歓喜、一向専心、至心廻向、唱命念仏、即得往生」となれば、それは「無目堅間の小船」に乗ったことになる。

行きつく先は、極楽浄土であり、住吉之世界であり、無量寿の世界であり、龍宮世界であり、それは浦島太郎の神話で年寄らぬ世界として表現されている。

無量寿の世界では年寄らぬのは当然である。>>




入龍宮不可思議境涯のこと


<< “年寄らぬ”のは時間を超越している世界であるから、時間がないから年寄らぬのである。

それは現象の尺度で“量(はか)”ることができ“ない”から“無量寿の世界”というのである。

「即得往生」というのは“そくざ”に<このまま>極楽浄土に“往(ゆ)”いて“生”まれていることである。

“即座”であるから“死んでからでない”、従って時間の否定であり、“今<このまま>”である。

“今このままで”<極楽に往く>というのは「往かずして往く」である。

『維摩経』にあるところの「不来の相にして来たる」であり、「去来なくして去来する」のであり、「場所の否定」であり、「空間の否定」である。

「時間の否定」と「空間の否定」という乗り物に乗ることによってのみ、超時空の実相の世界に入ることができるのである。

 「無目堅間の小船」というのは、「目無し」とは「時間の目盛り無し」ということ、「堅間」とは堅く空間が詰まりて、無空間であること、その無時間・無空間の極微の絶対無の一点が「小船」という語で象徴せられているのである。

すなわち“無時間無空間の絶対無”(相対の無に非ず)の関門を超えて私たちは龍宮に入るのである。これが入龍宮不可思議境涯である。>>




顚倒夢想を遠離すること


 すべて「迷い」は、執着より生じたる「心の痙攣状態」である。

「心の痙攣状態」が消えたら「迷い」はないのである。

「心の痙攣状態」は、「ないもの」を「ある」と思い、「本当にある実相」を「ない」と思い、「本来ない現象」に心が執着して引っかかるから起るのである。

「ないもの」を「ある」と思い、「本来ある完全な実相」を「ない」と思うのは、それはサカサマであり、「夢」のようなものであるから、『般若心経』では「迷い」のことを「顚動夢想」といっている。

わたしはおおむね「顚倒妄想」と称している。この顚動夢想を遠離したとき、三世の諸仏は、阿耨多羅三藐三菩提(無上の悟り)を得たまうたということが心経に書いてあるのである。つまり「本来ない現象」を「あり」と妄想して執着する心を捨離することによって、三世の諸仏は実相の彼岸に到達することができたというのである。




“迷い”を去るためには現象の大否定が必要である


 『般若心経』は、その顚動夢想を遠離するのに、観世音菩薩が深般若波羅密多の行を修せられたことが書かれてあるお経である。

深は深遠(じんおん)なる修行であるという意の形容詞である。

般若波羅密多とは、仏教では悟りに到る六つの道が示されていてそれを六波羅密多というのである。

布施、持戒、忍辱、精進、禅定、そしてその最後の深遠なるものが“般若”である。

般若とは“智慧の悟り”であって、それを瞑想するのが“般若波羅密多”の深遠なる修行である。

観世音菩薩はこの深遠なる修行において何を瞑想せられたかというと、「五蘊皆空」と瞑想し、「無 眼耳鼻舌身意」と瞑想せられたと書かかれている。

五蘊とは、五つの“蘊”すなわち“波動の集積的存在”である。

それは「色・受・想・行・識」の五つであり、「色」は“物質”のこと、あとの四つの「受想行識」は“心の働き”である。

それらの五つのものはアルかのごとく感じられるけれども「皆空」すなわち皆、空の空なる空しきものであると観じられたのである。

 さらにこれを人体についていえば、「眼耳鼻舌身」という物質的存在および「意」という精神的存在も、「無」であるとて「無 眼耳鼻舌身意」と観じられたのである。

この全的大否定によって「三世の諸仏」は迷いの根因なる現象的存在をアリと見る根本無明を断ち切り、仏陀たる悟りをひらかれたということが『般若心経』の大意である。>>







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