生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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反・『御教え』・・・雅宣総裁語録と講評 <第六話> (158)
日時:2013年02月24日 (日) 08時34分
名前:信徒連合



< 第六話 >人間と“死”について(「小閑雑感」平成21年6月9日)


<<生長の家では“脳死は人の死”とは認めないどころか“心臓死は人の死”ともみとめない。・・・“人間は不死である”というのが生長の家の教えである。・・・つまり、“肉体の死”は“人間の死”を意味しない。>>




(講評)

三代目・雅宣総裁の上記の文章の中には、論理の混濁があるのであります。即ち實相と現象との混同であります。現代医学で論議されている“死”とは肉体の機能の全体的停止である“死”を判定するのに<脳機能の停止>の時とするのか、<心臓活動の機能停止>の時とするのか、と云う問題であります。

生長の家では(=宗教では)脳死・心臓死のいずれをも認めない。しからば生長の家では(=宗教では)何を以って“肉体人間(現象生命)の死”とするのか? 此の答えを三代目・雅宣総裁は提示していない。正確な宗教上の答えを出さないで、一足飛びに實相人間は不死であります。と云う。

開祖・谷口雅春先生はその御著書の中で、肉体人間の死について心霊学上から明確に説いて頂いております。即ち、肉体人間が死ぬ時には、霊魂が肉体から抜け出し霊魂と肉体とを繋いでいる“霊線”(霊視可能)が完全に切れて、霊魂が肉体に再び帰還できる可能性がゼロになった時が“肉体人間の死”であるのであります。

そして、肉体を離れた本当の自分である霊魂は、無限の實相顕現を目指して次なる霊魂進化の世界へと進んでゆくのであります。三代目・雅宣総裁は宗教者としての此の部分の大切な説明を落としているのであります。(本当は、雅宣総裁は霊的音痴でありますから、霊的なことは理解できないのであります。)






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