生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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“公人”の思想や振る舞いを批評する事と、“私人”のそれとを同一線上にて考えてはならない。 (1848)
日時:2013年08月27日 (火) 00時47分
名前:公平なる観察者



本流関連の掲示板において、雅宣(自称)総裁の「今の教え」の内容や、総裁という肩書きの下で発表するブログやフェースブック上の見解、更に“言行不一致”の具体的な事柄について、その非真理性や総裁としての不適格性について述べることを、一部の信徒のひと達は、依然として“悪口・光明思想に反すること”と捉えておられます。


最近においても、開祖・谷口雅春先生の御著書「幸福を招く365章」の<悪しき噂話をやめよ>を引用しながら<人のアラさがしや、悪口や、同情のない冷酷な噂話(ゴシップ)などは相手の人を傷つける以上に自分自身を傷つける>のであるから、雅宣(自称)総裁批判はやめるべし!と掲示板に投稿されておられる信徒さんの意見が目に入りました。


私は、「幸福を招く365章」の<悪しき噂話をやめよ>という事は、「私人」の立場にいるひと達に対する誡めであると思います。しかし、「公人」の立場に居る人の思想言動はその社会的影響度は非常に大きいわけです。故に「公人」の思想言動の間違いに対しては社会的な観点から云っても、その間違いや問題点の指摘や諫言的意見は積極的に表明する事は問題なしと考えます。


生長の家総裁や理事・参議そして教化部長のひと達は明らかに「公人」です。したがって、これ等のひと達の間違った思想や思考、言動の指摘は、<悪しき批判、噂話>には当らないのす。なぜならば、これまでも多くの方々が指摘されてこられたように、『生命の實相』にはその対処の仕方が明確に述べられているからです。


『生命の實相』第14巻・倫理篇下巻、第4章・和解の倫理

<< われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、虚説に対して和解してはならないのであります。虚説に和解したら実相をくらますことになります。実相をくらませば、みずから迷うことになるのであります。異端・盲説・妄念・妄想は、<本来無い説>―虚説―でありますから、その実相をみれば「本来ない」ことが判るわけでありますから、本来ないもの「虚説」に和解することは絶対に出来ないのであります。光は闇と和解することは出来ない。光が近ずけば闇は消えるほかはない。それと同じく、真説は虚説に近ずけば虚説を消す働きをする。虚説を許さないことをもって、和解と寛容の徳が無いように思うのは間違いであります。また、虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。要は、<天地一切のものと和解せよ>との生長の家の第一最大の誡命(いましめ)は、「天地一切のものの実相と和解せよ」ということであって、仮想や虚説にたいしては「サタンよ去れ!」と排撃すべきなのであります。釈迦もキリストも同じような態度で虚説を駁撃せられたのであります。虚説に対してはあくまでも戦い、人に対してはどこまでも実相を見て許す。どうか皆さんも虚説に対しては和解することなく、どこまでも「サタンよ去れ!」の態度で進んでいただきたく、人間に対してはその表面の<包み>(罪)をみないで、その罪なき完全な実相を見てその罪を赦す(その罪を見て<無い>と見て捨てる)ことにしたいのであります。>>






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