生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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真昼の夢をみている “純子・白鳩総裁”(国際教修会講話) (1890) |
- 日時:2013年09月02日 (月) 00時59分
名前:公平なる観察者
純子・白鳩総裁は、自身のブログ8月27日の「恵味な日々」に於いて、下記の如く今年の生長の家国際教修会で話した内容を発表しております。
これを読んだ私の感想は、
@ 苦労知らずに育った深窓のお嬢さんが、昼食後のひと時を安楽椅子にもたれてまどろむ夢の中で見たお姫様の楽しい夢の内容に等しいもの。
A その夢は、あまりにも結構づくめであり、セレブ階級にしてのみ実現できるところの大衆を眼中に入れていない、エエ恰好ばかりしている有閑マダムのお喋りタイムのように感じたのであります。
B 純子さんももう還暦近い年齢であろうと思われますが、生長の家白鳩総裁のそのオツムの程度がこの様なレベルのものかと思うと世間の失笑を買いはしないかと心配致します。原宿幼稚園・副園長の方がよっぽど似つかわしいと思われるのであります。
それでは、純子さんの個人的思想のお話の要旨を次に引用することにいたします。
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平成25年8月27日 「恵味な日々」 国際教修会講話
7月16日17日に行われた、生長の家国際教修会 なぜ、森の中なのかという話です。
<古くて新しい出発>
[ 1 ] 宗教運動は時代の要請に応えなければなりませんから、現代という時代がどんな時代であるかを冷静な目で見つめ、必要ならば、古い基準に縛られずに、新しい考え方や生き方を自ら開発し、それを人々に提案していかねばならないと思います。現代に生まれ、現代に生きる「生長の家」の運動が今、なぜ都会を離れ、森の中≠ヨ行かなければならないのか。生長の家の国際本部が、なぜ都会にあってはならず、自然の中へ移転しなければならないかという理由、その理由とは、次の五つです―― @ 都会では自然がわからない A 都会では人間中心主義から脱け出すのがむずかしい B 都会では、浪費と消費過多をやめられない。よって地球環境問題は解決しない。 C 都会での生活は宗教の目的と矛盾する D 都会では新しい生き方は生まれない
[ U ]
【都会で自然はわからない】
都会にも自然はあります。家庭の庭やベランダで花や野菜を育てている人もいます。私も自宅のささやかな庭で、ミニトマトやキュウリを植えています。公園にも自然はあります。けれどもそれらの自然は、人間が人間のために作った自然で、人間の害になる虫や動物は排除されます。人間によって意図的に作られた、人工物としての自然なのです。本物の自然は、人間に都合よい物ばかりではありません。人間にとって「善い」と感じられるものも「悪い」と感じられるものも含めた本物の自然≠知ることが必要です。それによって初めて自然との共存ができます。人間にとって都合の良い自然しか知らない都市生活者にとって、本物の自然との共存は簡単ではないでしょう。しかし、そのような本物の自然≠ニ向き合い、いかに共存していくかを考えない限り、本当の意味で「自然と共に伸びる」ことはできません。なぜなら、人間は自然の一部だからです。
【人間中心主義から脱け出そう】
エネルギーや資源を大量に消費する現在の文明の背後には、「人間至上主義」の考え方があります。これは、人間の幸福追求のためならば――人間が豊かで、快適に過ごせ、命を少しでも永らえることができるならば、他の動物や植物を犠牲にしてもいい、人間以外の地球のすべては、人間の道具にすぎない――という考え方です。世界の宗教には、自然を貴ぶ考えは存在します。ところが残念ながら、これらの宗教では、それぞれの教え全体の中で、その部分≠ェ強調されてきませんでした。特に、産業革命以降、二十世紀までの期間、宗教は人類が自然を守るよりも、自然を征服することに助力してきたと考えられます。その結果、人類は自然を破壊し、また手なずける技術を獲得し、都市を建設し、今や世界人口の半分が都市に住んでいます。そのため、自然とのかかわりが希薄になった人間は、自然の恩恵を忘れてしまい、自然が人間の生存にとって必要欠くべからざるものであるということを忘れてしまったかのようです。「人間至上主義」というのは、自然界がどんな状態であっても、それには関係なく、私たち人間は生きることができると考えます。人間は自然がなくては生きていけない存在ですから、自然破壊が進めば、人間にとって平安に生きることが難しい環境になっていくことは、当然です。その当然の結果が、現在私たちの目の前にあります。
【浪費と消費過多】
先ほども触れましたが、現代の文明は「産業革命」によってもたらされたものです。現在、人類は自分で自分の首を絞める愚を犯しているだけでなく、人類の生存の基盤である「自然界」を危機に陥れつつあると言わなければなりません。また都会の生活は、人間の欲望を喚起する広告物や目新しい商品に満ちていますから、都会で生きる人々の数が増えれば増えるほど、人間社会は欲望満足の方向に突き進んでいき、その結果として自然破壊はますます進行します。都会生活者にはその自覚がなく、他から奪う生活≠止めることはできません。
【都会と宗教の目的】
私たちが進めようとしている「自然と共に伸びる運動」は、二酸化炭素の排出を抑え、自然破壊を食い止め、自然を豊かにしようとするものですが、そのことと、宗教の教えとはどう関係しているのでしょうか。その答えとして総裁は、『森の中へ行く』の中で、人間は自然の一部であるから、自然を破壊することは、自分自身を破壊することに繋がる、と説いています。自然と人間は本来一体のものであるから、そのことを常に感じ、感謝する生活が必要であると説いています。神の無限の愛、仏の四無量心を、実際生活で実践する努力をすべきであり、それが人間がこの地上に生まれてきた使命であると言われました。自然の中の、人間にとって有利で、有効な部分、快楽を与え、欲望を満たしてくれる部分に執着して「他から奪う」のではなく、欲望や執着を放ち、「他に与える愛」を実践する。これが人間・神の子≠フ自覚であり、こうして魂を向上させることが人間の本来の生き方であるということでした。「他に与える」という時の「他」とは人間だけに限りません。他の生物に対しても、地上生活の仲間≠ニして考えるということです。自然と一体の自己を自覚し、あらゆる機会に四無量心を思い、人間本位の発想をしていないかを反省する。そのような宗教的境地を目指す運動は、自然を排除してつくられた「都会」にいてはできないということでした。宗教が伝える価値は、欲望からの解脱であり、人や命への思いやり、他から奪わず、与える生活を実践することなどですが、都会で生きる限り、これらの実践は大変難しいことなのです。
[ V ]
江戸時代に生きた有名な仏教の僧に、「良寛」という人がいます。もともと仏教では、僧は必ず里に出て人家の門に立ち、鉢を差し出して食を乞わなくてはなりませんでした。仏法を広める作法として、この托鉢こそは釈迦以来の伝統でした。そんな中、江戸時代になって徳川幕府は、キリスト教を排除するために、寺請檀家(てらうけだんか)制度をつくり仏教を保護しました。この制度は、それぞれの宗派の寺と、地域の人々とを結びつけ、寺が葬式や法事をする代わりに、人々が「お布施」として対価を支払う仕組みです。これに便乗して、寺での葬式や法事が利権化して、僧侶たちは托鉢しなくても食べていけるようになりました。(*檀家が払うのは喜捨、「お寺へのお布施」は間違い) このため仏教の伝統であった托鉢が行われなくなり、葬式仏教の色合いが濃くなり、宗教としての仏教は形骸化していきました。良寛はそんな風潮に反対して、無位無冠の生き方を自らに課したのでした。そのため広く人々の尊敬を集め、人気を博したと思われます。良寛は托鉢の傍ら進んで子供たちと遊ぶボランティアの先駆者でもありました。良寛にとっては子供と遊ぶことも仏道修行だったのです。毎日の生活が家々の門口に立ち、朗々とお経を唱え、その家の人から喜捨の心を呼びさまし、会う人ごとに和顔と愛語を振舞いました。昼間に家々を訪ねても、家人は野良仕事などしていて、残っているのは老人ばかりということもありました。手元の鉢にはお米の一粒も入らないことがあっても、そんなことには関係なく、老人の話を聞いてやり、介護が必要なら手を差し伸べて看病したり、もらってきたものを与えたりしたそうです。そして一日の托鉢を終えて山の庵に帰れば、体を休め、カエルの声を聞き、月を眺め、質素ではあるが心豊かな生活でした。自分の身の回りのことはすべて自分でして、和歌を作り、書を書き、座禅をし、勉強もしました。日常生活そのものが仏道を生きること、伝えることに徹底していました。だからと言って、堅苦しいことは無く、無邪気に子供と遊んだのです。宗教者は人々の尊敬を集める立場にあるので、余程自分を律しなければ、おごりと慢心の心が出てきます。良寛は、そこから宗教は腐敗するものだということを心底わきまえていたのでしょう。 [ W ]
【新しい生き方の提案】
そんな生き方は、良寛のような特別な仁徳者だからできること。普通の人には、都会の便利な生活が幸福をもたらすものだ――そう考える人がいるかもしれません。でも、人間は都会生活で本当に幸福になるのでしょうか?今日ご参加の方は、男性が多いですから、お料理をする方は少ないかもしれません。しかし家庭生活の中で、料理の役割は大変重要です。私の本、『四季の恵み弁当』にも書かせていただきましたが、私たちが、何を食べるか、どこから来たものを食べるか、どのように栽培されたものを食べるかは、世界の平和に関係します。また、人間はこの地上の生活においては、肉体を使って神の善を表現しますから、神の御心に叶った食事、それは人や動物を犠牲にせず、肉体を健康にして、十分に働きができるような食事を心がけることは大切です。そのような家庭料理の価値を、社会の構造を作っていく立場の大半を占める男性が良く理解すれば、女性の働く環境も変化していくでしょう。外食や中食の比率は減り、環境破壊や病気の発症率も下がっていくことと思います。豊かな生活を目指して、懸命に働いているのに、その結果として、自分で食事を作ることを捨てて、お惣菜にお金を使っているのです。先ほどからお話していますように、都会の生活は、欲望中心、効率優先で、物質的豊かさが人間の幸福につながるという考えに導かれます。そんな都会生活者に、私たちは都会生活に変わる代替生活を森≠ナ自ら開発し、伝えることが求められます。現代は通信技術などの発達のおかげでそれが可能となりました。「足るを知る」「不便」や「めんどくさい」生活の中でも、心豊かな生活があることを伝えるのです。私たちが森に移転し、二酸化炭素を出さないで、自然と共に豊かで楽しい生活ができれば、都会生活をしている人々に、都市とは違った生き方があることを示すことができます。そして、自分たちも本当はそんな生活がしたかったのだということに、気がつくきっかけになるのではないかと思います。人間の本性である神性、仏性を開顕することが本当の幸せにつながります。そこに辿りつくまでの道のりは人それぞれで、幾多の試練を超え、様々な習慣に振り回されながらも、すこしずつ内在の神の子≠ヘ目覚めていきます。私たち生長の家の幹部は、生長の家の真理を知ることにより、いかにすれば内在の神性、仏性を明らかに表現することができるかの道を教えていただきました。道は教えていただきましたが、それを日常生活に実践するのは、それほど簡単ではありません。けれども、強い決意を持って三正行を実践し、日時計主義の生活を送っていきたいと思います。強い意志で教えを生活の中に実践し、新しい文明を構築する体現者となっていきましょう。皆さまとともに、「自然と共に伸びる運動」を力強く進めてまいりたいと思います。ありがとうございます。
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< 講評 >
@ 純子白鳩総裁の挙げた5つの理由は、各項目一つ一つを見れば、現代常識的には説得力のある内容であります。一つ一つ検討してみますと、――
イ < 都会では自然がわからない >について言えば、人間は肉体の衣をまとってこの地上で生活する時は自然界からのいろいろな恩恵の下で生活していることはその通りであります。そしてまた、都会の中でのミニ菜園づくりや管理の行き届いた公園の自然などは、都会を離れた多様な生物の棲む本物の自然などには程遠い、従って、都会にいては本当の自然との共生の実感は理解不能である。全くその通りであります。
ロ < 都会では人間中心主義から脱け出すのがむずかしい >について言えば、現代文明は、人間中心主義の文明であり、人間至上主義の文明であるとはその通りであります。そして、その人間至上主義文明は、唯物的価値観から出て来たものである。唯物的価値観は肉体人間価値観であり、輪廻転生による霊魂(個生命)の進化向上などは考えず、ただ今生のみの物質的欲望の達成、社会的名誉欲の獲得を至上命題とする。その欲望達成の為に自然を破壊する方向へ走るのは当然となる。肉体人間観を持っている限り、特に、都会人はこの欲望がお互い同士の相乗効果の働きで増幅され、結果的には人間中心主義が益々強くなっていくのである。全くその通りであります。
ハ < 都会では、浪費と消費過多をやめられない。よって地球環境問題は解決しない >に関してもそのとおりであります。現代資本主義社会は私企業が中心であり、その私企業は常に黒字経営をしなければ倒産してしまいます。そこで、投入産出計数の極大を目指して効率経営、拡大経営を図るのが大抵の企業の経営原則であります。政府の経済政策もGDPの成長をめざす政策が採られます。その結果、必要量以上に生産し、販売し、消費者の購買意欲を必要以上に絶えず刺戟して需要拡大し、結果的には、浪費生活、消費過多となり、特に都会では「勿体ない」という観念が薄くなっていくばかり、自然破壊と資源の浪費は止らない・・・その通りであります。
ニ < 都会での生活は宗教の目的と矛盾する >についても一般大衆のレベルで考えればその通りであります。欲望刺戟と享楽的な誘惑の強い都会環境の中に放置された人間は、感謝する生活や与える愛によって魂を向上させようとせず、多くの一般大衆はそれで善しとする人の割合の方が多い。宗教の目指す境地とは、欲望からの解脱と定義するならば、この境地に達することが出来る人はごく限られた一部の人にかぎられるということになる。一般的観察としてはその通りであります。
ホ < 都会では新しい生き方は生まれない > 人工的に造られた不自然不完全な自然ではなく、他の生物に対しても、地上生活の仲間≠ニして考える本当の自然との共生生活を送り、肉体人間的欲望を解脱・昇華して人や命への思いやり、他から奪わず、与える生活を実践するという新しい生き方は、大自然の中でのみ実践できるものである。これが新人類の目指す「神・自然・人間の大調和」の理想的な「自然との共生生活」である。このように言われれば、まことにお説ご尤もと言わざるを得ないのであります。
A しかし、一寸待っていただきたい。五つの個々の項目については、成るほどお説ご尤もではありますが、この五つの項目を持って、宗教団体としての「生長の家」が、信徒の浄財を150億円をかけて「森の中」へ移転していくことと結びつける根拠と考えることは相当な無理があります。いや、結びつけること自体が間違っているのであります。その訳は――
イ 純子白鳩総裁は、宗教の目的について、<自然と一体の自己を自覚し、あらゆる機会に四無量心を思い、人間本位の発想をしていないかを反省する。そのような宗教的境地を目指す >、すなわち自己反省と < 欲望からの解脱・人や命への思いやり、他から奪わず、与える生活を実践する >、利他の実践であると解説されております。この様な大乗的救済を掲げる宗教本来の目的は、人里離れた森の中では実践不可能で、自己の悟り中心の小乗的宗教への後戻りであります。宗教としての「生長の家」の目的は、大乗仏教の“完成”でありまして、個人の救いにとどまらず、宗教的自覚をおし進めて、国家の成仏、人類全体の成仏、宇宙の成仏と云うところまで行かなければならないと言うことであります。ここまで到達するためにはやはり森へ引っ込まずに積極的に都会で宗教的真理を伝道しなければならないのであります。それとマサノブ・ジュンコ二人の人の言う四無量心の対象は人間以外の動植物に重点を置いているフシが感じられてならないのであります。この二人は人間不信・人間嫌悪感情を強く持っているのではないかと感じられるのであります。
ロ 人間至上主義の価値観であってはならず、と純子白鳩総裁は言いますが、「森のオフィス」は、人間至上主義価値観に基づいている資本主義産業社会の生産物と技術力で全てが作られたのです。そして、今後の「森のオフィス」の設備の修繕や更新と云った維持管理もそれぞれの分野の専門企業の手によって為されるのです。マサノブ・ジュンコ夫婦や職員自らが建物や設備の修繕を行うとでも言うのでしょうか?それが出来ないのであれば、純子白鳩総裁の考えはあまりにも綺麗事過ぎると思えます。この掲示板でも指摘があったように「他人には手を汚させて(企業には自然破壊の生産物を作らせ)、自分たちはこれこの通り綺麗な手をしております(自然破壊はしておりません)」と云っているのと同じで、この様な屁理屈は通用しないということに純子白鳩総裁は気が付いていないのであります。御立派なことを仰っていますが、影では識者の失笑を買っているのであります。
ハ 純子白鳩総裁は、人々の病悩苦からの救済という宗教本来の存在目的を軽視しすぎております。と同時に、地球という天体の本来の存在目的をも考慮していないのであります。地球という名の天体の存在目的は、個生命(個々の霊魂)の進化向上のための修練道場であるということであります。今生の霊魂進化のためには都会での魂修行の方が進化が早い霊魂もあれば、都会よりも田舎の自然の中の方が今生の霊魂進化のためには適している霊魂もあり、その霊魂の個性や進化程度により千差万別であります。純子白鳩総裁はこの様な個生命の進化段階(實相顕現度合い)の差という事を宗教家でありながら無視しているのであります。完全な宗教音痴と言われても仕方がありません。唯物論社会の中では手の届かない霊的な部分、人間の本質、輪廻転生人生の目的、地球という天体の霊的存在意義などを人々に理解を与えるのが宗教本来のあり方でありますから、このことは都会でも田舎でも人の住むところならどこでも出来ることであります。「森(自然)の中の生活」でしか人間の霊的進化は図れないとするならば、「マサノブ教」は唯物論的宗教といえるのであります。
B 純子白鳩総裁は、良寛和尚の事例を挙げて、現代社会での地位と名誉を求める生き方を戒め、さらに純真・無邪気な心の大切なこと、さらに亦、宗教者は人々の尊敬を集める立場にあるので、余程自分を律しなければ、おごりと慢心の心が出てくる、と誡めております。しかし、この様な心境になるには「森の中の生活」をしなければ到達できないことなのでしょうか? その人に求道心があるかぎり、都会で生活しようが、森の中で生活しようが本人の心がけ次第で到達できる心境であります。また、良寛和尚は山中の庵で坐禅だけをしていたのではなく、積極的に里(現代の言葉で言えば都会)へ出て、人々を積極的に救われていたのであります。良寛和尚の様な霊的に高い境地に、ただ単に、住むところを都会から田舎へ変えるだけで多くのひと達が到達できるという保障はどこにもありません。ジュンコさんという一人の有閑マダムの頭の中だけの観念遊戯であります。それよりも反省して貰わねばならないことは、マサノブ・ジュンコというお二人が、良寛和尚のごとき、< 地位と名誉を求めない生き方、純真・無邪気な心、おごりと慢心なき心 >とは全く反対の生き方をしていることに気付いて貰わねばならないのであります。貴方がた二人は、先ず「自分の説教に対して、自ら忠実であれ」でなければならないのであります。脚下照顧です。
C 最後に、< 新しい生き方の提案 >について申し上げます。純子白鳩総裁は、「神・自然・人間との大調和」を実現する為に、「自然との共生」のモデルケース作りを目指して“森に行く”と言われていますが、スタート時点から間違っています。すなわち――
イ 最初から「森のオフィス・国際本部」という大規模豪華な建物を建てたこと自体が、何が“モデルケース”なのでしょうか? 言わば、資産家セレブの豪華な別荘と同じものです。モデルケースなら庶民が手の届く範囲の建物とすべきでしょう! 一般企業・工場の「自然との共生」のモデルケースと言うなれば、多くの企業が森の中へ本社機能や工場を移すとなると、そのためのインフラ整備を含めて大規模な森林伐採をして自然破壊をする事になります。こんな簡単なことに気が付かないのでしょうか?
ロ 他から奪わない「自然との共生」生活をモットーとするならば、必要食糧の半分くらいは自給自足して然るべきです。そのための農園作り(土地の開墾)もCO2を排出する農業機械を使わずに行わなければ“言行不一致”と云う事になります。
ハ マサノブ君は、「森のオフィス」という「自然との共生生活」は、自給自足の原始生活に戻ることではないと言っています。現代の文化生活水準を維持した生活である、と言っております。この様な生活を自然環境豊かなところで維持できるのは、資産家セレブ族のひと達であって、彼らは既に実行していることであり、何も目新しいことではないのであります。何が“新しい生き方”・“新文明の創造”なのでしょうか? そしてまた、この“新しい生き方”は < 通信技術の発達 > の恩恵を受けて初めて可能と純子白鳩総裁は書かれています。ということは、通信技術設備や機器類は依然として主に都会中心の近代技術工場でつくられ、それを支える多くの下請け中小企業・町工場で作られているのであります。このように、表面の抽象的な綺麗事ではなく、具体的に検証していきますと、「森の中のオフィス」という「自然との共生」理論は最初から破綻しているのであります。まさに < “還暦・有閑セレブ・マダム”の昼食後のまどろみの中の白昼夢 >といえるのであります。このことを「森のオフィス」落慶式に出席した日本はじめ世界の幹部信徒の皆さんが直感的に感じ取ったが故に、誰の顔にも喜びの表情が出ていなかったのであります。
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その通りでございます。 (1897) |
- 日時:2013年09月02日 (月) 09時08分
名前:薔薇の花
本当に、セレブ奥様の白昼夢ですよね、信徒の浄財を湯水の如く使って、個人的目標達成のための理屈付けをしているだけですね。自力で生活している一般大衆のモデルケースとはなりません。セレブ階級にして出来る生活だと思います。
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