生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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「君民同治の神示」=“合わせ鏡”で、「蒙古襲来」を見るとどうなるか? マサノブ擁護軍団の誤謬・・・ (2140) |
- 日時:2013年10月01日 (火) 09時18分
名前:画龍点睛
合掌、ありがとうございます。 今、「トキ掲示板」に於いて、「合わせ鏡」の議論がなされておりますが、私の思うところを述べさせていただきます。
議論提起の元は、「君民同治の神示」で示されている内容で、現教団(マサノブ教団)とマサノブ(自称)総裁の相を解釈しているところからスタートしているようであります。次のように書かれています。
<< 「天皇の神聖性は人民自身の神聖性より反映するのである。されば民が主であり、君は客である。」これは、生長の家において、「総裁の神聖性は信徒自身の神聖性より反映するのである。されば信徒が主であり、総裁は客である。」と置き換えることもできるでしょう。・・・生長の家教団における総裁先生の行状は、信徒の心の反映であります。法灯を正しく継承しない総裁は、信徒自身が法灯を正しく継承しないことから来ている。また、愛国書を絶版にされていることは、信徒が愛国的な真理を理解しないか、そういう愛国の思いが希薄になってきたことの心の反映なのである。・・・現象を見る心の影として総裁が、皆様の云うような姿であるとすれば、なすべきは己の神の子の自覚の無さへの反省のみでありましょう。天地がひっくり返ろうとも、神の子の自覚に超入すること以外求めるものは無い、外に求めるものは何もない、上の神示は神の子であれという厳しい宣告であります。>>
@ 「トキ掲示板」の上記のような投稿者たちの、現マサノブ教団とマサノブ(自称)総裁の姿についての見方を簡単に纏めると――
イ すべては信徒の人達の心の映しである。
ロ 反省すべきは信徒の側であり、信徒側の神の子の自覚の不徹底さに因がある。
ハ お気の毒なのは、マサノブさんの方である。信徒たちよ、徹底して神の子の自覚に超入せよ!
ニ 信徒の神の子の自覚意識が徹底して高まってこそ、脱線している現マサノブ教団は、本来の開祖・谷口雅春先生御創始の「生長の家」教団にもどり、マサノブ君も開祖・谷口雅春先生の『御教え』の全相継承者としての姿に立ち戻るであろう。
このように纏められるのであります。このように纏めれば、どのように考えてもこの様な考え方が<完全に間違った考え方である>と明確に断言できるのであります。マサノブ君擁護のための詭弁中の詭弁だといえるのであります。
A この様な詭弁を弄するに至った原因は、「君民同治の神示」に書かれている内容で、マサノブ問題を論じたところにあるのであります。スタート時点から間違っていたのであります。解り易い実例を引いて説明いたします。
鎌倉時代の「蒙古襲来」のことを考えれば一目瞭然であります。あの時、執権・北条時宗以下の為政者や国民が、「蒙古が攻めて来たことは、われわれ日本人が彼らを領土を奪いに来る侵略者だと思っていた心の反映だから、彼らを侵略者と観ないで、善良な人たちだと見て、大調和の心で迎え入れてあげればよい。争わず平和に仲良く暮らしましょう」と、フビライ皇帝に申し出て、彼ら・蒙古軍と戦わずに迎え入れた、としたならば、どうなったか?
説明するまでもありません。日本民族は彼らとの混血民族となり、世界地図から消えていたでしょう。今日ある日本民族の伝統と文化は北条時宗を中心に当時の日本人が一致して蒙古軍を完全撃退する決意を固め、一歩たりとも引かなかったからで、その決意が「神風」と呼ばれた巨大台風を九州の地に呼び寄せたと解釈されるのであります。
これに反して、古代ヨーロッパに於いては、弱小国は誤てる大調和精神で国と民族を滅ぼされた実例があるのであります。また、もっとも近い例では韓国による「竹島」の一方的占領の事例が挙げられるのであります。
B < 尖閣諸島奪取を狙う共産中国の習近平主席や、日本の属国化を狙ったフビライ皇帝の相は、われわれ日本人の心の映しであり、われわれ日本人の意識を徹底的に“本来敵なし”という大調和の心に変えたときに習近平やフビライの他国征服心は消えて彼らも神の子の實相が顕われる。>とマサノブ擁護論者は言うでありましょう。真理から見れば正しいように見えます。
しかしその“真理”は机上の真理であって、現実処理の問題としての實相顕現を目指す“本当の真理”ではないのであります。
C なぜ、“机上の真理”なのか?と申しますと、現実の問題として、全日本人(少なくとも80%以上)が、習近平やフビライの侵略心を自分たちの心の反映だと納得して彼らの神の子の實相を徹底的に観ることが果たして出来るでしょうか? 答えは、言わずもがな『否』であります。現教団やマサノブ君に対しても同じであります。
D 以上の様に考えますと、「合わせ鏡」の原理、平易に言えば「立ち向かう、人の姿は鏡なり、己が心を写してや見ん」という事は、例えば、嫁姑の問題や親子兄弟の間の問題のように自分を中心とする極めて小範囲の問題解決の鍵として用うべき原理であります。
これを拡大適応して、団体や国家の問題解決に適応すべき原理と考えることは明らかに間違っているのであります。従って、冒頭に申し上げた如く、「君民同治の神示」をもって、現教団とマサノブ君の問題解決の真理とする考え方は間違いであるといえるのであります。
E 私は次のように考えております。唯一の絶対的真理は、「唯一の実在は神のみである」・「(實相の)人間は神の最高の自己実現である」・「真理への道はただ一つ、人間は神の子であると云う事である」。
そして、この絶対的真理が、「一即多」にケース・バイ・ケースに展開されて、「多即一」に収斂して行っているのである、と理解させて頂いております。
「一即多」として展開されている真理の中から、どのような問題にはどのような真理で以って正しく対処すべきか? この答えは、『生命の實相』の熟読と、神想観の継続による「正思惟」思考によって答が導き出されるのであると思うのであります。
このように考えますと、「天皇の神聖性は人民自身の神聖性より反映するのである。されば民が主であり、君は客である。」は、「君民同治の神示」の中の言葉であり、これをそのまま言葉だけを代えて「総裁の神聖性は信徒自身の神聖性より反映するのである。されば信徒が主であり、総裁は客である。」と置き換えることは間違いであります。理由は前述のとおりであります。
言葉の置き換えは正当な場合もあれば不当な場合もあります。この場合は明らかにマサノブ君擁護の目的のためでありますので不当な置き換え(詭弁)であります。
F では、現教団問題、マサノブ君問題はどのような観点から考えなければならないかと申しますと、『生命の實相』の倫理偏に書かれております「神性隠蔽」の真理からであります。
問題点は突き詰めると、マサノブ君が自己の「神の子」としての自覚に達していないで、彼の「神性」が完全に隠蔽されている状態にあると云う事であります。
このマサノブ君の非常に部厚き「神性隠蔽」は、信徒の人達の心の反映ではありません。彼自身の求道心の未熟さのためであります。彼自身の「至上者の自覚」の欠如(取り違え)であります。すべて、マサノブ君自身の自覚の問題なのであります。
現教団在籍者の少なくとも80%以上の組織信徒さんが心を一つにしてマサノブ君の實相顕現を祈る行動に出ることなどはあり得ないのであります。
また今まで少ないながらでも、マサノブ君の實相顕現を祈り続けた熱心な信徒のひと達がおられましたが、マサノブ君の暴走は止りません。
現実問題としましては、マサノブ君の實相顕現を祈りながら、「神性隠蔽」の指摘と諫言が大切であります。これを間違って「批判」と解する人も大勢おられますが、「批判」ではなくして、マサノブ君の「神性隠蔽」の具体的指摘であります。換言すれば祈りの行動化であります。このように考えて私も行動いたしている一人であります。 再合掌
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