生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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生長の家「今昔物語」・ 理性篇の再掲示 <第九話> (224) |
- 日時:2013年02月27日 (水) 13時26分
名前:信徒連合
生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇
第九話(通算第335話) 光明思想家とマルキストとの対話(8)
社会主義か資本主義か生長の家か<その五>
(『解放への二つの道』P.139−143)
客:
そういわれれば、別に社会主義の世界にならなくとも、労働者が伸びる機会は多いのですね。資本主義の世界では下済みの労働者が伸びる道が閉ざされていると云うのは宣伝に過ぎないですね。
主:
そうですよ。人間は自分が行き詰まれば、それを自分の努力や能力のたりないためにしないで、環境とか、周囲とか、制度とかいうものに罪を着せようとするのです。
そう云う気持のある間は他を責めるに急であって、自分の能力をみがくひまがない、つまり富める人を憎んで、餓鬼道の心境にいなければならぬ。私もその時分、紡績に於いて労働者として働いてそして資本家を憎んだ。そして資本主義経済組織の矛盾を感じて、その会社を飛び出したのです。
そして如何にこの世界を改造しようかと考えたけれども、その頃は日本共産党はまだ組織されていないし、そんな運動も何もない。人間でどうしたらこの世界機構を革命出来るかと考えている丁度その時に、大本教が「神がこの世の中を改造する」という宣伝をしていたので気を引かれて、そこへ身を投ずるということになったのです。
其の時に今まで工場にいながらでも勉強して来た勉強がはじめて役に立った。そして『綾部新聞』や『神霊界』の編集部長になり『皇道霊学講話』という単項本を書いて大本教の教えを、はじめて系統だったものに組織した。ところが私の組織した「皇道霊学」と大本教の当時の実際とが食いちがったところがあり、出口王仁三郎がキリストの再臨だとして世界を治めると言いだしたので、私は大本教をやめたのである。
そんなことは、今私が話そうとする主要な問題ではないが、能力のある者は資本主義制度でも、幾らでも昇進の道があると云うことだけ分かって頂けばよいのです。そういうわけで一労働者だった私が、今どこにでも到る所に別荘がある。日本中、いくらあるかハッキリしたことは判らぬけれども、八十幾つ位別荘があるのです。と云って、それらの別荘をいちいち私の名前にしているわけではない。それは実際に共産主義ですね。そこに住んでいる人の名前にしてあるから、その人のものであり、私がその家に行く時は、その家の私の泊まる部屋は自分のものである。私が留守の間留守番を置かねばならんですから、その家の名義をその留守を守ってくれる人の名前にして預けてある。
そうすると、名前即ちコトバの力によってその人がその家を自分のものだと思って、毎日一所懸命に掃除をして呉れているのであります。そして取得税でも家屋税でも皆払っていて呉れるのであります。一年に一回位その家に私が行きますと、たった二日しか泊まらぬ御主人がおいでなさいましたという訳で、一番良い蒲団を出して、一番良い食器を出して、一番良い御馳走を下さるというようなことになっているのでありまして、私の別荘であってその人の所有である。
こう云うのは資本主義制度の中にありながら共産主義でもあり、無所有主義でもあり、持ちながら持たない自由自在の境地なのであります。宗教的生活と云うのはこういう一面がある。
資本主義制度の中でも、ソ連の社会主義国家の中にも貧乏人はあるが、宗教的生活というものは、貧しくありながら富んでおり、富んでおりながら有っていないというようなところのあるものであります。私は五十銭の日給の労働者から上がってこのように日本全国到る処に別荘をもつような、又もたないような無限億萬長者になったのであります。
資本主義の世界に於いては、労働者は永久に虐げられていて上にあがれないというようなことはないのであって、それは自由競争の世界であるから到る処に常に機会がある。そのうちの或る人々が上に昇られないのは能力がない。能力がないのは、本当は能力がないのじゃない。自らの内に宿る能力を自己発見しないだけなのです。自らの内に宿る力を自己発見したならば、どんな制度の中におってでも、上昇の機会はある。
尤も私は今の資本主義制度が良いというのじゃない。併し、社会主義国家でも能力の高い者は能力の低い者より優遇されていることは前に言った通りです。我々の団体でも資本主義社会にいながら既に資本主義の制度ではない。資本主義の中におってでも自分で自分のうちにあるところの、無限の能力を自己発見したならば、その人はぐうっと伸びて、一介の労働者から、ヘンリー・フォードも出てくれば、吉川栄治も出て来る。
そう云う自由に自分の運命を努力で開拓することが出来る世界が、この自由主義の社会であり資本主義の世界である。だから、その社会制度を倒さなければ、人間は幸福になれないというようなものではない。ただ自由競争の世界では、弱肉強食的な面があるから、どんな人間でも其の最低限度の文化生活は保障されるような社会政策を加味すれば、この欠点は是正される。急激に社会革命を実行して、その過渡時代に悲惨な犠牲を出す必要はないのです。
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