生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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読むに耐えない、マサノブ偽・宗教家の11/19「唐松(枯れ松)模様」の投稿文! (2529) |
- 日時:2013年11月21日 (木) 19時38分
名前:信徒連合
マサノブ君は、またもや懲りずに < 自然界のムスビの働き >という一文を投稿しました。よくも、まあ、この様な誰が読んでも判るような、恥知らずの“言行不一致”の文章が書けたものと思います。
流石に今回の彼の投稿文に対しては、発表後2日目にいたってもコメントは<ゼロ>で、如何なマサノブ君狂信派信徒さんでも、開いた口が塞がらなかったものと見えます。
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[唐松模様]11月19日 = 自然界のムスビの働き = (要旨)
<< そもそも自然界とは、私たちの肉体も含めた地上のすべての存在のことを言う・・・私たちの肉体が自然の一部であり、また肉体の生存を保証する適切な量の酸素や水や温度も自然の一部であり、私たちの五官の感覚そのものも、実は自然と不可分の関係の中で形成されてきたことを思えば、私たち人間の地上生活のすべては「自然の恩恵」と言えるのである。だから私たちは、朝目覚めてから夜眠りにつくまでの四六時中、「自然よありがとう」と感謝し、その自然を与えてくださった神に対しては、言い尽くせぬ謝意を表するのが当然と言えば当然なのである。・・・多くの人々が日常の私的関心事に忙殺されて、自分が常に大いなる神の御手に抱かれていることに気づかない。それはちょうど雲に乗った孫悟空が、大得意で自分の力を示そうとして飛び回るように、自己顕示の欲望に目を眩ませているのである。そして行きついた先で、まだ仏の掌中から一歩も出ていないことを知る。そんな愚を繰り返さないためにも、「自然即我」「我即自然」を自覚する行事が食事以外にあってもいい−−否、食事以外にもあるべきだ、と私は考える。・・・私はこのたび、八ヶ岳南麓の大泉町に引っ越してきて秋を過ごしてみて、自然界は「与えること」で成り立ち、繁栄している、と強く感じた。「与える」ことができるのは「受ける」側がいるからで、この両者の関係がムスビである。・・・これらのムスビの働きが自然界の特徴だとすれば、それと同じ働きが私たち人間の中にもあることをしっかりと思い起こすべきだろう。自分と他人とを鋭く切り分けて、自分の利益のみ追求するという生き方も、確かにある。しかし、そういう生き方は「人間らしくない」というのが、先人たちの教えである。宗教や倫理の基本は、ここにある。「対称性の論理」と「非対称性の論理」という言葉を使って、私はこのことをすでに述べた。私たちが今、盛りたてていくべきなのは前者なのだから、そのことを常に意識し、かつ生活に実践していくためには、−−「自然即我」「我即自然」を自覚することが必要なのである。>> 谷口雅宣
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< 講評 >
[T] 信徒なら、一読して先ず気が付いた事柄は、マサノブ君の「言行不一致」である。これは、この投稿文(説教)のあらゆるところに書かれているのであります。
@ <朝目覚めてから夜眠りにつくまでの四六時中、「自然よありがとう」と感謝し、言い尽くせぬ謝意を表す>と、マサノブ君は説教するが、彼の言う“自然=地球上のすべての存在”の中には、御皇室の存在や自分の兄弟姉妹や実母・恵美子先生や諫言の士は含まない。すなわち彼は、「四六時中の感謝」・「言い尽くせぬ謝意」を実践していない、つまり「大調和の神示」を自己の生活においては実践できていないのであります。
A <雲に乗った孫悟空が、大得意で自分の力を示そうとして飛び回るように、自己顕示の欲望に目を眩ませている>と、マサノブ君は説教するが、一番の自己顕示欲強き人物は彼自身なのであります。
B <自分と他人とを鋭く切り分けて、自分の利益のみ追求するという生き方も、確かにある。しかし、そういう生き方は「人間らしくない」というのが、先人たちの教えである。宗教や倫理の基本は、ここにある。>と、宗教や倫理を説教しているが、最も“人間らしくない生き方”をしているのが、他ならぬマサノブ君自身なのであります。
C <自然界は「与えること」で成り立ち、繁栄している>と、マサノブ君は説教するが、彼は何も“与えていない”のであります。逆に、「生長の家」と言う看板を“金の成る樹・打出の小槌”として自分のために利用して、自分の個人的人生目標達成の為にのみ信徒から浄財を集めているのであります。信徒から“奪う”人物の第一人者であります。
[U] 理屈一点ばり(左脳思考)であって、霊的感動を与えることが出来ないマサノブ君!
@ 今回の投稿文で、マサノブ君は“ムスビ”をこのように定義している、すなわち < 自然界は「与えること」で成り立ち、繁栄している、と強く感じた。「与える」ことができるのは「受ける」側がいるからで、この両者の関係がムスビである。これらのムスビの働きが自然界の特徴だ >と。これを読むと「与える側と受ける側が結合する事がムスビ」であるといっているのであります。
しかし、よく考えて見ると、これは「ムスビ=結合」の現象論的観察でしかないのであります。“取り引き”関係論を講釈しているのであって、ムスビの本質については触れていないのであります。このように「マサノブ教」とは、“實相独在”ではなく、“現象独在”論であり、かつての「迷いは自由から来る」とか「地震や火山の爆発は(唯心所現)ではなく、自然現象」とか「人間は地球環境にとっては害虫的存在」或いは「天皇制は西欧の『王権親授』と同じ君主制」と云った低レベルの唯物論的観察にしか過ぎないのであります。
マサノブ君は、自分自身、物事を情動的に見れる“右脳型人間”と思っておりますが、事実は逆で、頑固なコチコチの自己顕示過多の“左脳型人間”でしか無いのであります。だから、彼の話は聞くのがイヤになって教勢が低下して行くのも仕方がないのです。
A 開祖・谷口雅春先生は、「ムスビの本質は、神様の愛である」と説かれています。信徒の多くはこの様な情動的説明の言葉の方が、マサノブ君の冷静的無味乾燥な学者的左脳言葉よりも心が揺り動かされるわけであります。情動的言葉によって真理が説かれるときには、批判的な現在意識の関門を通らずして、直接に潜在意識に直接届き、霊的感動を呼び起こし歓喜ある行動へと結びついて行くのであります。
B 先ず、「宇宙荘厳の歌」を歌って見ましょう――三番、四番、五番です。
* 不可思議不可知科学者も なにゆえ万有引力が あるかを知らず ただ神秘 万有結ぶは神の愛
* ああ神の愛かみの愛 宇宙にみちて万有を むすびあわせて荘厳の 宇宙いまここ顕現す
* もし愛なくば荘厳の 宇宙げんぜず美しき 人と人との むつまじき ムスビの世界あらわれず
C 開祖・谷口雅春先生の『限りなくの本を愛す』P.164〜165には、――
<< 實相世界の秩序は、男性原理は高く聳(そび)えて「凸」であり、女性原理は低く「凹」であります。この両原理が、どちらにも偏(かたよ)らない「中(みなか)」の神様から、陽と陰に分れてでたのが高御産巣日神(たかみむすびのかみ)と神産巣日神(かみむすびのかみ)であり、此の両原理が再び結合するのがムスビであります。
「ムスビ」という事が日本では非常に尊重せられたのであります。和解と云うことであり、愛と云うことであり、自他一体の再認識であります。日本では「愛」という言葉は久しく使わなかったので「ムスビ」と言ったものであります。「愛」といふ言葉よりももっと深い意味を持っているのであります。
<ムスビ>といふのはどういう意味かと言いますと、陰と陽と、左と右と、羽織(はおり)の紐(ひも)でもかう結ぶでせう。そして右と左とが一つに結ばれて、美しい形のものが生れて来る。だから「ムスビ」と云う語の中には「享楽的な愛」ではなくて、「生みだす愛」の意味が含まれているのです。皆さんが御飯(ごはん)を炊(た)いてそれを「にぎり飯」にする。左の手と右の手とで、ギュッとかうにぎりしめると、ニギリメシが出来る。あれを「オムスビ」といひますね。
オムスビ――新しき形と美なる味が生れて出たのです。バラバラに分れていたものが一つに纏(まと)められて、それが新(あら)たなるものの創造となって現れて出たのです。
ムスビとは単なる「愛」ではなくて産み出す働きをしているのであります。『日本書紀』ではムスビを「産巣日」(むすび)とかう書かないで「産霊」(むすび)と書いてある。産み出す「霊」――即ち「創造の原理」であります。
「ムス」っていうのは「生(む)す」であります。「君が代」の歌にも「苔(こけ)のむすまで」とありますが、ムスビと云うのは「産む」働きなのであります。陰と陽とがむすび合うことによって一切のものが生れて来る。『赤飯をムス』といふ。皆さんが御飯を炊きまして、そして沸騰して噴き出るやうになると、火を小さくして暫(しばら)く蒸(む)して置くでせう。あの「ムス」であります。すると「火」の温(ぬくも)りと「水」の潤(うるほ)ひとが、じっと一つにムスばれて来て、よい味が出て来るのです。火の方は陽で、水の方は陰である。そして、陽と陰とが仲よく<むす>ばれると、一家が整ひ、一國が正しくなり世界の平和といふものも其処から生れてくるのであります。これが「神の國の正しき秩序」であります。>>
この様に解説していただきますと、霊的に「ムスビ」というものが悟れるわけでありますが、マサノブ君は自分の“学”のあるところを披露しようとして、< 「与える」ことができるのは「受ける」側がいるからで、この両者の関係がムスビである。「自然即我」「我即自然」を自覚する行事 > と解説し、何でもかでも「自然・自然・自然・・・」にムリヤリ結びつけ、最期は <「対称性の論理」と「非対称性の論理」という言葉を使って、私はこのことをすでに述べた。> と難解なことばへと持って行くのが彼の常道であります。
マサノブ君のような学者的理屈だけの左脳知識だけの解説では、真理の霊的把握には程遠く、夫婦喧嘩の仲裁指導すら出来っこないのであります。
開祖・谷口雅春先生の御著書に基づいて説明すればよいのであって、これが出来なければ教えの継承者ではないのであります。実際の所、マサノブ君は自分自身、真理を霊的には何も把握していないのであって、『御教え』の真理を国語辞典としての知識として知っているだけで、応用実践を為すには程遠いのであります。
D 開祖・谷口雅春先生の御著書『日本を築くもの』第十三章<むすびの原理と日本の使命>に於いて、「言葉に宿る“生命の霊”」・「ムスビの自然発生的語源について」・「ムスビによる新価値の創造」・「文化の陰陽と、西洋と東洋」・「肉体は陰性、霊は陽性」・「陰陽の逆転について」・「物量の芸術と物量抑制の芸術」・「肉体露出の西洋式服装と肉体抑制の日本式服装」について説かれており、P.183〜185では < 最高度に醇化した日本民族精神による世界一国家(八紘為宇)の精神 >が次の如く説かれております。
<< 道徳の方面においても、日本人の道徳は、“かんながら”と称し、“まこと”と称して、道徳というような鹿爪(しかつめ)らしい理屈っぽいものはなかったのであります。・・・すべてが「まこと」の一語に霊的に統一せられているのが日本の道徳であります。・・・
日本においては、天皇に対しては“まこと”を尽せば「忠」であり、親に対して“まこと”をつくせば「孝」であり、隣人に対して“まこと”を尽せば「仁」であり、社会秩序に対して“まこと”を尽せば「義」であり、夫婦関係に“まこと”を尽せば「貞」であり、「まこと」ひとつの徳によって一切を統一するのが日本精神である。
東洋文化の特長は「一つに統一する」ところにあるが、西洋文明の特長は「細かく分化し分割して支配する」ところにある。科学は「分類分割の学」であります。
西洋に科学文明が東洋よりも先に発達したのは、古事記神話におけるが如く最初は「イザナミ分化先立ち」の順序に従って当然であり、これは東洋民族と西洋民族とは使命が異なる・・・
物質文明はどこまでも霊的文化の其の上に茂り出ずるための基盤としての役割であります。
東洋民族の使命はイザナギ文化の開発にありますから、もっと霊的なものであり、霊は分割し得べからざるものであるから、<分かれたものを一つに貫いて>それに生命を与える陽性文化である。・・・「分れたるもの」をそのまま「分れたまま」に放置すれば何者をも産み出すことが出来ず、・・・
物質文明なる分割文化によってバラバラに人類及び民族を分裂せしめ、原水爆によって子孫までも不毛の状態に陥れようとする現代科学文明に対して、今こそ霊的文化により、そのバラバラになろうとする人類の文化を<一つに貫いて>、「人類は一つだ」「世界は一つだ」という真理に目覚めしめるのが東洋精神特に東洋精神のうちでも東洋の指導者としても最高度に醇化せる東洋文化を掌中に握っている――日本民族の精神であり、「まこと」であらねばならないのであります。
今や人類は分割文化たる物質文明(イザナミ文化)の頂点に立ってこれ以上進めば、人類は死の灰にまで分割爆破されて全滅しなければならない危機に立っているのであります。
この危機を救うものは日本文化のイザナギ精神――どんなにバラバラに分れているように見えても、“人類は一つだ”という宗教精神――『日本書紀』によれば神武天皇が「八紘(はっこう)を掩(おお)いて宇(いえ)と為さん」と宣言された世界一国家の精神より他にはないのであります。
今後の日本の使命はまことに重大であり、尊いのでありますが、この日本の使命を、やがて来る未来において完成する使命を有(も)つのは何と言っても、今、少年または青年である諸君であるのであります。>>
[V] どう考えても、「総裁辞去・大政奉還・教団退去」が最高の“善”
「生長の家」立教の使命の目的は、「個人の成仏」(救済という形の實相顕現)と「国家の成仏」(天皇国日本の實相顕現・真理国家の建設)にあります。
マサノブ君が『御教え』の継承者であるならばここまで「むすび」の働きを深めて説かなければならない、“新価値の創造”というところまで深めて説かなければならないのであります。
それを、目に見える現象界の“自然”にムリヤリむすびつけて、<「自然即我」「我即自然」を自覚することが必要>などと極めて低レベルのことを懲りもせずにいい続けている。
まことにも彼は、『御教え』の継承者と自称してはいるが、『御教え』そのものの神髄の把握には程遠く、戦後教育に基づいて現代という時代の“環境問題”についての個人的な考えを発表しているに過ぎないのであります。
マサノブ君は霊的にはまだまだ幼い段階の霊魂なのであります。だからからこそ、霊的進化の先を行っている信徒さん達は、マサノブ君の話や文章には辟易して離れていくのは当然のことであります。
ここまで「生長の家」の霊的存在価値を落としてしまったマサノブ君は自発的に総裁の椅子を返上するのが彼の今後の為にもこの上なく“善”なることと云えるのであります。
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