生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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<転載> 尊師の高弟に学び、後に続こう!! ――三大弟子・服部仁郎、吉田國太郎、山口悌治師を語る――「谷口雅春先生を学ぶ会」代表 中島省治 <第七回>・<第八回>・<第九回> (2653) |
- 日時:2013年12月09日 (月) 14時28分
名前:信徒連合
● 故・山口悌治前理事長の追善供養鎮魂祭の荘厳と清浄さ
『生長の家』誌昭和五十三年十月号八十二頁の「明窓浄机」の見出し第一行であり、以下八十八頁中段半ばまで十三段近く(約七千字)尊師の追悼(ついとう)の辞がつづく、極めて異例のことであり、私共にとっても貴重な文章である。埋没するに忍びず、長文となるが参考のため要点を中心に紹介します。(<< >> は小生の文章)
わたしはこれほど清浄なそして荘厳で、而(しか)もゆたかな装飾のある葬儀場を生まれて初めて見たのだった。それは生長の家理事長の山口悌治氏の追善供養鎮魂祭が七月二十二日、神宮前の生長の家本部講堂で行われた式場の雰囲気のことである。人はその最期を飾る儀式にその人の生前の徳行があらわれるものだそうだが、この追善供養鎮魂祭には山口悌治氏の魂の人柄の清潔さと、その気高さとが実際あらわれていたと思う。
<< この葬儀場の模様については、本誌前号の連載六の冒頭(10ページの上段5〜9行)に「聖使命」紙の紹介として記した。当時の鮮明な写真があれば掲載したいと希望したが、諸事情で断念。尊師が今ここにその荘厳さを――これ程に、「故人の魂・人柄・気高さとの顕れ」と書かれたことは「弟子を世間一般の目下の者として視(み)ることなく“自らの片腕”――聖なる運動の大事な同志として心底から感得されたご文章として、尊師の深く篤(あつ)い思いやり・偉大さを今更のように感服させられるのである。会場の“聖なる清潔な雰囲気”については次号掲載の本稿後段に具体的に描写されている>>
わたしは七月十五日の午後一時半――八月は酷暑であるし、白鳩会の集まりも、實相研鑽会も東京本部では催されないので、上京するとすれば、唯、首脳者会議に出席するだけの事であるので、私が上京するとすれば家内も同伴であるし、そのほかに随員もつくので相当公費の費用がかかるし、大抵の重要な問題の決定は私が九州に移転してから後は、皆副総裁に代行して貰うことになっているので、多分八月には山口氏に会う機会がないであろう。(こう考えた私の潜在意識には山口君の死の予感があったとも言える)そうすると、七月に東京を立ち去るまでに是非一度は山口君に会って置きたいと思って――七月十五日の午後一時半に訪問したのであった。玄関から直ぐあがる階段があって、会談の右側が書棚であって書籍が一ぱい列(なら)んでいた。
わたしがあがると山口君(青年時代から呼び慣れた名前で、わたしにはピッタリするので、このへんで敬称を省(はぶ)くことにする)は、病床から身を起こして感謝の挨拶をされたが、長い病気で疲れていると思うので直ぐまた仰臥(ぎょうが)して貰った。
わたしは、今度上京してお山に落ちつくと、直ぐ娘の恵美子(清超先生夫人)に山口君の奥さん宛、電話して貰って、「三十分間でもよいから首脳者会義に顔を見せて貰ったら皆が喜ぶから」と伝えて貰ったのだった。その時電話口に出られた山口君の奥さんの語調が非常に悲観的で、悲しい口調で本人は殆(ほとん)ど歩けないような衰弱状態で、最高血圧が僅か七十だということであった。「百七十とちがうのか」わたしは恵美子に聞き直したが、やはり唯(ただ)の七十しかないのだということを恵美子は答えた。
わたしは、その話を聞いて、その様子ではよっぽど衰弱しているのだとその時思った。「来て見ると、非常に元気じゃないか」と私は奥さんにいった。
奥さんは「あの時、三日間ほど黒い胎便(たいべん)の排泄が続いて、血圧が急降下して、医者が非常に心配していた時、恵美子奥様から電話がかかったのでした。今は血圧がもう百二十に回復しています」と言われた。
山口君は元気を回復して、これなら私の話を聴いても体力に差支(さしつか)えはないと思って、最期の別れに是非話しておきたい事だと、次のような話をした。<< 次の見出しは「明窓浄机」82頁枠内の見出し>>
● 誰も皆ある年齢に達したら蚕(かいこ)が蛹(さなぎ)になるが如くに成る
「先日、ある人から投書が来て,“一体生長の家の本部の人たちは何をしているんだ、理事長は癌で寝ているし、副理事長の清都理之氏は訳のわからぬ病気に罹(かか)って入院している。・・・もっと幹部は真理を自覚せよ”」というような深切な忠告がそれには書いてあった。その投書は悪意で書いているのではない。大金を住吉本宮造営費に献金している人である。その人にわたしはこう返事を書いたのですよ。
文殊菩薩が釈尊の代理として維摩居士(ゆいまこじ)を病間の使いとして訪問して『あなたのような悟りを開いた菩薩が何故病気をしたりするんですか』と尋ねると維摩は『菩薩の病は大悲より生ず、衆生病むが故にわれ病む』と答えたことを知っているでしょう。山口先生の病も何か欠点でもあるので病気していると考えないで、維摩と同じように、『衆生病むが故に山口先生病む』と考えてはどうですか。本部の理事長も今入院中の副理事長もいずれも七十歳を超えた人である。肉体の人間には地上生命を生きるのに限度がある。七十歳は古希(こき)の年齢だといわれている。
わたしのように八十六歳になっても元気で仕事を続けていられるのは、私にはまだ為さなければならない使命が残っているからである。もし私が生長の家の本部職員の停年を満七十歳を限度として、定めておいたならば、両氏とも今のように病気をあらわさずに健康のままで年齢故に退職したことになって、君のように“理事長、副理事長ともある者が病気するとは何事だ”と批評されずに済んだのである。私は生長の家本部員の停年を満七十二歳に定めた。
ところが前に、東山半之助(とうやまはんのすけ)さんが七十歳を超えて白内障を手術したが、完全に視力を回復し得ないで朦朧(もうろう)と見える視力を意志の力で克服しつつ机上の文書仕事はできないので、個人指導のために毎日本部の個人指導室に通って人々を真理に導いていた、その熱意と努力との私は感動した。その努力の途中に東山半之助さんはいつのまにか停年の満七十二歳を過ぎていた。御本人はそれには気がつかなかったが、係りの人がそれを知って私に報告して来た。眼の手術の薄明(はくめい)の世界に住んで、それでも人々を救う悦びのために生き甲斐を見出していられる東山さんに、私は、あなたは、もう停年だから仕事をやめなさいと言って東山さんから生き甲斐を奪うことはできないと思った。それで係りの人に『東山さんは、もう一年停年をのばして満七十三歳停年にしてあげて下さい』といった。それが本部員全体に伝わって、いつの間にか生長の家の停年は満七十三歳だと、皆が思い込んで、その方が御本人には都合がよいらしいので、それを実行している。皆が悦ぶのなら、そのままほっておこうという私の半ばルーズな寛大な心から、そのままになっていた。
近頃、清超副総裁が総裁の事務的方面の一切を代行するようになってから清超副総裁は、自分の責任として規則は励行しなければならないと考えられて、七十二歳を超えた人々は、健康上その他の理由で欠勤数が多いのである。やっぱり満七十二歳停年とわたしが定めたのは間違いがなかったと思う・・・こんな返事をその投書して来た人に書きましてね」と私は山口君に言った。
<< 尊師ご夫妻が山口氏を見舞われたことは前より承知していたが、当日の模様――維摩詰(ゆいまきつ)を引用してのお言葉に具(つぶさ)に接し「皆が悦ぶのなら・・・私の半ばルーズな寛大の心」と言われる何事にも行き届いた宗教家としての卓越(たくえつ)した慈愛に唯々(ただただ)ひれ伏す思いである。>> 以下次号
( 「谷口雅春先生を学ぶ」誌 平成25年9月号より)
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<転載> 尊師の高弟に学び、後に続こう!! ――三大弟子・服部仁郎、吉田國太郎、山口悌治師を語る――「谷口雅春先生を学ぶ会」代表 中島省治 <第八回> (2719) |
- 日時:2013年12月18日 (水) 14時11分
名前:信徒連合
● 尊師の師弟愛溢(あふ)れるお手紙
本連載の前号で、尊師が山口悌治氏の昇天24時間まえに、輝子先生とご一緒に氏を目黒の自宅に訪ねられ、親しく見舞われたときの模様を、リアルに、前後の経緯(いきさつ)から懇切丁寧にお書き頂いた。小子(しょうし)は「その卓越した慈愛に唯々ひれ伏す思い」と前号を結んだが、その前段とも申すべき事柄に、光栄ながら小子も直接かかわらせて頂いた。それは尊師が「自文の代りに(中島が)自発的に、山口氏を見舞い、その病状を報(しら)せて欲しい」との師弟愛溢るる、行き届いた弟子思いの結晶のようなお手紙である。
「拝啓 中島省治さんにお願いがあります。それは一度山口悌治先生の自宅へあなた自身でお見舞いに往(い)って頂いて、その後の御容態の御様子知らしていただきたいのです。私から頼まれたと云(い)われないで自発的見舞いお伺いの形にしていただかないと、私へ詳(くわ)しく手紙を山口先生自身で書かねばならぬと、病中苦慮(くりょ)せられるといけないからです。○○○○(筆者註・判読不能)総合病院の永田静一博士がセラピ(アトムの改称)の大量飲用を勧めて行かれたそうで、その結果も知りたいのです。 敬具」
“自発的に”と言われるが会社の勤務時間中に責任ある公務に就(つ)く私がいくら縁戚(えんせき)とは言え、勝手に社を抜けて来たのでは(小生の性格を十二分に承知の氏として特に神経が鋭(するど)くなっているとき)承知されなかったろう、とは後になって気付いたが、恰度(ちょうど)、体調も良かったのか、何かと精(くわ)しく現状を話された。前から懸案(けんあん)の出版の話(日本教文社発行『中のこころ』)まで、かなり長く語りあった。
帰社して清都松夫社長にも要点を報告。師のお手紙に応えて詳細を綴(つづ)った。折り返し当時連載中の「光の泉」誌「放送人生読本」の原稿を同封した三枚のお手紙(簡易書留)を頂いた。七月六日付で、昇天八日前の八日に受信した。
「中島省治様 先日は山口理事長を、小生の代理として病気見舞にお出で下さいまして詳しい報告を下さいまして、一応病状の落ちつきの御容子(ごようす)を承(うけたまわ)り、半ば安堵(あんど)いたしましたが、その報告の中に、住吉本宮落慶式に出席できるかの問に対して、山口先生は何とも明言せられず、自信のない御容子のように承りました。山口先生は随分、自力的に實相円満の症状に近づくべく努力していられる御容子ですが、今ひとつ病気を放ち得ないで、放つべく努力していられる、そのため『奇蹟の時は今』のその“今”の中に挑入(ちょうにゅう)出来ないらしいのです。ところが別紙『光の泉』九月号『放送人生読本』の原稿を制作中、まことに最近住吉本宮別格本山で起った膀胱癌(ぼうこうがん)の突然の消滅の記事(礼状)もあり、その前には、癌のために腹水が溜(たま)っていたのが消えた実例もあり、ぜひ山口先生に読んで頂いて、今までの精進努力の善行(ぜんこう)の蓄積を“今”の瞬間に顕在にする奇蹟をあらわして頂きたく、この『光の泉』原稿を九月号の『光の泉』では、遅すぎるので、編集部に廻すまでに、一応山口先生に読んで頂き、“今”一切の『病気無』の心境に入り、秋の住吉本宮落慶式には是非出席する――断々乎(だんだんこ)と断言する自信を得て頂きたいと思います。
それで、あなた様に、御依頼申し上げたいのは、この『光の泉』原稿を、先ず山口先生に持参して読んで頂き、その後、この原稿を持ち帰り、第一編集部の別府さんに御渡し願いたいのであります。昭和五十三年七月六日 谷口雅春」
私は又その御指導に従い目黒に駆けつけ、尊師の御文章を代読した。病床に坐った氏は聖僧のような透徹した面持(おももち)でじっと聴き入っておられた。私の声を通して、尊師の御声(みこえ)を直(じか)に心の耳で聴いておられたと思う。その時が氏との訣(わか)れであった。
前便につづく、何とも表現の辞(ことば)も持ち合わせぬ、尊師の心の底からの切なる、何とかして元気に“今の瞬間に奇蹟を”との祈りをこめられたお手紙である。公の場、講演、執筆では窺(うかが)い得ない大聖師の真実の一面として、敢(あ)えて私信を公開しました。お二方ともお宥(ゆる)し下さると思って、合掌
● 併(しか)し蛹(さなぎ)になって動かなくなった蚕(かいこ)は死んだのではない
次は前号につづく「明窓浄机」の四頁目、85頁上段6行からの御文章です。
「『そしてその返事のつづきに私はその投書者に、君も度々(たびたび)読んだと思うが、“久遠生命の神示”に『正しく言えば生命はその念絃(ねんげん)の弾ずる曲譜に従って肉体を現わすのである。・・・すべての人はいつかは肉体を失うであろうが死ぬのではない。・・・これを人々は死と呼ぶが死ではない。それは“生命”が念の絃(げん)をもって一曲を断じ終ってそれを止(や)め、他の奏曲に移らんとするにも等しい。・・・如何にその念絃の律動正しくとも初歩の一曲は必ず終って一層高き形式の曲譜を学ばねばならない・・・一曲が終らんとするのを悲しむな。それはなお高き一曲が進まんがためである。その前に調律者が来て汝の念絃の調子を正すであろう。この調律のために一時汝の仮有(けう)は調子ならぬ調子を奏(かな)でるであろう。この世の一曲が終る前に肉体の調子が乱れたように見えるのは此の調律のためであって真に調子が乱れたのではない。汝らかくの如くして次第に高き曲譜に進み行け。一曲が終るとも弾(ひ)き手は終るのではない。弾き手は神の子であって、不死であるぞ』(昭和六年六月二十六日、神示)という神示通りに、山口先生の生理作用の調律が乱れて病気のような状態をあらわしても、これは生涯の一曲を終ろうとするときに高級霊が調律師として来て念絃を浄化するために仮有(けう)が調子ならぬ調子を奏でているのだとわたしは考えているのです。あなたもそのように考えて頂けませんか、とその投書者の返事に書き加えておいたのですよ』
こんな話をして、わたしは予(あらかじ)め容易して往(い)った『甘露の法雨』と『天使の言葉』の聖経合本をとり出して、その『久遠生命の神示』を静かに朗読していた。家内も聖経のそこを開いて朗読していた。あとで気がついてみると、それが恰度(ちょうど)『一曲が終るとも弾き手は終るのではない。弾き手は神の子であって、不死であるぞ』と引導を渡していたのであった。
それが済むと、山口君は非常に元気な声でアメリカの人に起った奇蹟的体験のような話を昂奮(こおうふん)した語調で稍々(やや)長く話し出した。『あまり話しては、疲れるといけないから』と私はそれを押し留(とど)めて、『これから夫婦で『甘露の法雨』を読んであげましょう』と言って、家内とふたりで聖経を読むことにした。
私は左の手を山口君の額(ひたい)の上に軽く按(お)いて、『人間神の子・不滅』の真理が山口君の全存在に貫き通るように精神を集中して聖経を読誦(とくじゅ)した。読誦を終って見れば山口君は安らかな表情で、静かな呼吸をしながら眠っていた。わたしたちは奥さんに『起こさないで、静かに眠らせてあげなさい』といって、二階から降りた。これが肉体の世界での山口君との最後の別れであった。
翌十六日、本部での白鳩会を終ってわたしら夫婦が門を出て自動車に乗ると、誰だか『山口先生は本日午後一時四十五分昇天されました』と自動車の外から叫ぶ人があった。
“やっぱり私は神に導かれて昨日(きのう)山口君を訪問したのだった。昨日でなければ、あんなに長時間ゆっくり話すことは出来なかった。肉体を脱して昇華された清浄な身をもって昇天されるための真理のコトバはすでに悉(ことごと)く話し終った。あれで好かった”と思った。こうしてあげればよかったのにと、心引かれる何事もなかった。
やや後で山口君の奥様から良人(おっと)の訃(ふ)を電話してこられた、電話には家内が出た。その電話の中で、昨日私たちが訪問したとき御見舞にと持参した西瓜(すいか)を二切れ『美味(おい)しい』といって食べた話をなさった。二切れというから、一切れを嫌々(いやいや)ながらお喫(あが)りになったのではなく、本当に美味しかったにちがいない。本当によかったと思った」 (続く)
( 「谷口雅春先生を学ぶ」誌 平静25年10月号 )
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<転載> 尊師の高弟に学び、後に続こう!! ――三大弟子・服部仁郎、吉田國太郎、山口悌治師を語る――「谷口雅春先生を学ぶ会」代表 中島省治 <第九回> (2780) |
- 日時:2013年12月25日 (水) 13時40分
名前:信徒連合
● 服部仁郎、吉田國太郎、山口悌治三高弟それぞれの生きざまを、資料により記してきた。この七月十六日が山口氏の昇天三十五年だったので、それ以前に帰幽(きゆう)の二氏とも、本誌読者の大半は殆んど御存知ないと察する。三者三様、尊師に生命がけで事(つか)え、仰慕し、生涯を通じてひたむきに、一歩でも半歩でも、師の全相に近づかんと求道精進された。その業績は限りなく純一である。
一方、弟子をして、それ程までに純一ならしめ、奮(フル)い起たせた尊師の宗教的崇高さ、山よりも高く、海よりも深いとされる、譬(たと)えようもない師の魅力、その真の偉大さ、それらを骨の髄まで弟子に感得せしめた師の感化力――教化力。歴史に遺(のこ)る聖者は全て、かくの如きであったと、間近(双方)に接し得た法悦・機縁を感得するのみである。
ある方は招神歌(かみよびうた)の一節に翻然(ほんぜん)と目覚め、瀕死(ひんし)の床を蹴って起ち上がり、以後その悟得(ごとく)を一生保ちつづけ、数えきれぬ奇蹟的体験を続出された。ある方は全身病に侵されながら「膿滴適地(のうてきてきち)・・・」の境涯に達し、尊師から宗教的天才と称された。弟子の師尊崇が昂(たか)まる程に、師の権威も弥々(いよいよ)高まる。師の比類なき包容力により弟子が増えるにつれ、教えの裾野(すその)も広がり、自(おの)ずと山は高く聳(そび)える。両々相(あい)まって師弟一如、余人には窺(うかが)知れぬ魂と魂とのふれ合い、信仰の世界独自の妙(たえ)なる実態である。
そのような、それぞれの面で秀でたでしを三氏に止(とど)まらず次々と育て導かれた谷口雅春大聖師の存在感を想い、連載を記しつつ想うこと。それは、師に学ぶ者、後を継ぐ者は如何にあるべきか、これで良いのか、と。山口氏をめぐる記述がバランスを欠いて多いやも知れぬ。氏の年齢、勤務期間、担当分野、師との接触のあり方、永遠のロマンチスト、そして氏の人格が、自ずと多くの資料となった故か。もちろんそれらにより、尊師の“全相”が<ゆるりなくも>明白にされた面も、私共には得難い悦びである。
● 荘厳なる山口悌治氏の追善供養鎮魂祭
前回につづき、「明窓浄机」昭和53年10月号86頁につづける。
「山口君の昇天は本部の人たち皆なに哀悼(あいとう)の心を起こさせた。誰言うとなく『教団葬にせよ』といっているという報告が副総裁から私に伝えられた。
『教団葬にも色々のやり方があると思うが、葬式の費用を全部教団で受持つというだけの教団葬もある。私は葬式は自宅でなさって、教団としては八月に宇治別格本山で盂蘭盆(うらぼん)の盛大な例祭が行われる――あの時に一般の方々の霊祭の先頭に、山口君の霊を宝蔵神社の紫雲殿に祭祀(さいし)して差上げる儀式をして、盂蘭盆会(うらぼんえ)に参集した信徒全部で拝んであげることをしたら、生前の徳行を多勢で顕彰してあげることになってよいと思う』と返事をしておいた。
ところが私が九州に帰って来ると、東京の生長の家本部から電話がかかって来た。どうしても七月二十二日に生長の家本部道場で教団葬を執行したいと“皆なが”言いますので、そのように致しますが、総裁に再び上京して頂くのは大変でございますから、“頌徳の祝詞”(しょうとくののりと)を書いて送って頂きたいというのであった。
わたしは此の『皆なが』という語(ことば)には抵抗できないのである。しかし山口君の経歴や生長の家に入信して以来の色々の業績を文章に綴(つづ)ることは私としては迚(とて)も大変で三日間はかかるから、それなら夫婦で上京して式に参列させて頂きます、と返事をした。そしてその式には竿(さお)の先に造花の丸い花輪などを列(なら)べないで、祭壇には本当に生きた自然の花を供えるのがよいと書いた。“頌徳の祝詞”(しょうとくののりと)は色々記録等をしらべて秘書としての伊藤陽夫(いとうはるお)さんに書いて貰って、山口君が生長の家に入るまでの事績に関しては私が書いて全文を修正して筆を入れることにした。
東京に着くと新任の教団理事長和田秀雄さんから教団葬の式次第を書いた封書を渡されて、それを適当に修正せられたい旨が書いてあった。
わたしは思った――本部で執行する式は『教団葬』と名づけてはいかぬ。葬式は既に済んでいるのである。自宅からご遺体がわかれる儀式が『告別式』であり、埋葬又は火葬によって現世的な一切のものを“葬(ほうむ)り去る”時の式が『葬式』である。既に葬式が済んで葬り去っている者を再び掘り起こして葬ることはできないから二度そうしきをすることは、それが教団葬であろうと連合会葬であろうと無理である、と。
それで和田秀雄理事長から渡された式次第の“教団葬”という儀式の名称を、私は僭越(せんえつ)であるが“追善供養鎮魂祭”と改称した。山口先生生前の善行(ぜんぎょう)を追憶し真理の法要を供養して魂を鎮(しず)め奉る会式(えしき)としたのである。
その会場に漲(みなぎ)る荘厳さと“聖”と形容するほかはない清潔な雰囲気は、舞台を飾る黄色と紫の菊花と緑色の榊(さかき)のほかすべてが白色の清らかな蘭(らん)の花で飾られていた。生前の御写真を全紙の印画紙にひきのばして額縁(がくぶち)に入れた肖像の背景を成す絨毯(じゅうたん)のように見える垂れ幕は、よくよく見ると織物ではなく、白蘭の花を綴り合わせたものであった。
二階の三方にひろがる欄干(らんかん)は世界各国から贈られた白色の供花をそれぞれに下り藤の紋様の形に綴り合わせて、その中央に世界各国の生長の家教化部・誌友会・信徒会等々、供花の贈り主の名が書かれてあった。」(以下略)
● 師弟一如・師の胸に山口氏の顔
このあと、本部の宗務部長に届けられた東京都葛飾区の豊岡貞子さんからの手紙(鎮魂式における相馬幸江さんが体験した心霊現象)が原文のまま(約1800字)掲載されている。紙数の都合で要約する。
「それは、式の最後に近く、祭主・尊師のお言葉のとき、尊師の右のお胸のあたりに白い真綿(まわた)のようなものが見え、やがて直径3センチほどの丸い三つの輪のような形に変化し、そのまま目・鼻・口となって出来あがり、祭壇の山口氏の写真そのままの顔が鮮明に浮き彫りにされた。そのとき尊師は、“今ここに山口先生はいらっしゃって、皆さんに御礼を申し上げていられると思うのであります。私からも代って皆さんに御礼を申し上げたいと思うのであります”とおっしゃいました。本当にそうだ、谷口雅春先生の御胸(みむね)の中に山口先生は生きていらっしゃる、と強い感動を抑(おさ)えかねた。仰慕(ぎょうぼ)してやまない尊師の御胸に、しかと抱かれた山口先生の霊魂の安息、愛する高弟の魂と一如(いちにょ)となられた尊師の御心を憶(おも)うと、勿体(もったい)なさと有り難さに涙が溢れた」とある。
豊岡さんの手紙は、山口氏との飛鳥(あすか)・奈良を巡る万葉の旅路、御陵(ごりょう)参拝の想い出から、あの日の鎮魂祭は、肉体なしのみ教えを受けている参列者のみたま鎮めの儀式であった、との魂の悦び、感謝で結ばれている。
( 「谷口雅春先生を学ぶ」誌 平成25年11月号 )
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