生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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生長の家「今昔物語」・霊界篇の再掲示<第五話> (237)
日時:2013年02月28日 (木) 09時20分
名前:信徒連合




生長の家「今昔物語」第五篇 霊界篇



第五話(通算第247話)

地上に生きている人間の構造について(その一)



帰幽の神示(『到彼岸の神示“神示講義・自覚の巻”』P.185−186』

<<汝の肉体は汝の<念絃(ねんげん)>の弾奏する曲譜である。生命が肉体に宿ると云うのは二元的な考え方であって真理ではない。正しく云えば生命はその念絃の弾ずる曲譜に従って肉体を現すのである。肉体と云い、複体と云い、幽体と云い、霊体と云うはこれ悉く念の映像に過ぎない、汝の念譜の種類に従って或いは肉体を現じ、或いは複体を現じ、或いは幽体を現じ、或いは霊体を現ずる。すべての人はいつかは肉体を失うであろうが死ぬのではない。人は神の子であるから不死である。念譜の形式が変わるに従って汝の仮有(けう)の形式が変わるのである。すべての人の仮有は念の異なるに従って、その顕現を異(こと)にする。念の形式に大変動を生ずれば、汝の仮有は他界に顕現し、今までの念の顕現たる肉体は速やかに自壊自消する。これを人々は死と呼ぶが死ではない。それは『生命』が念の絃(げん)をもって一曲を弾じ終わってそれを止め、他の奏曲に移らんとするに等しい。『生命』の弾ずる念の曲譜の形式に大変動を生ぜず、その念絃の律動にただ調和を欠きたるのみなるを病と云う。かくの如き病は、念絃の律動の調子を直せば治るのである。併し如何にその念絃の律動正しくとも初歩の一曲は必ず終わって一層高き形式の曲譜を学ばねばならない。吾が云う意味は、地上の生活は必ず終わらねばならないと云うことである。地上の生活は汝の初歩の一曲である。速やかにこれを終わるものは、初歩の教本を速やかにおえたものである。一曲を終わらんとするを悲しむな。それはなお高き一曲に進まんがためである。その前に調律者が来て汝の念絃の調子得を正すであろう。この調律のため一時汝の仮有は調子ならぬ調子を奏でるであろう。此の世の一曲が終わる前に肉体の調子が乱れたように見えるのは此の調律のためであって真に調子が乱れたのではない。汝らかくの如くして次第に高き曲譜に進み行け。一曲は終わるとも弾き手はおわるのではない、弾き手は神の子であって不死であるぞ。(昭和六年六月二十六日神示)



生命の振動の具象化としての体(P.187−191)

<<・・・『甘露の法雨』には「心の糸を組み合わせて、肉体の繭(まゆ)を作り」と書かれている・・・

「生命」というものは我々に見えるところの、縦・横・厚みの三次元世界には無い訳であります。「生命」は空間的広がりの世界には無いのであって、その空間的広がりの無い世界から“コトバ”即ち「生命の波」を起こすのであります。・・・

目に見えない世界にある「無」の一点から「生命」の振動が起こって、それが空間的に広がって、波ができます。

「無」即「無限」なるものが「生命」の本体、・・・一切を自己に包容する「絶対無」であります。・・・

そして、波長が一万分の3.7ミリ位から8ミリ位のところが、我々の肉眼に見えている肉体の範囲であるという事であります。・・・生命の振動が中央部から外へひろがりまして、(実は三次元以上の世界から、縦横厚みの三次元世界に広がり出まして)それが肉体であります。

もう一つその内部にあるところの振動の部分は普通見えない。これは肉体ではなく、「エーテル体」という所であります。

それから更に内部の波長の短い所は「幽体」であります。

更にこの幽体の内部の所は霊体であります。

それからその霊体の内部に広がりを超越した所の本体があります。・・・「無にして無限相」であります。

「人間とは如何なるものか」というと、此の本体が人間でありまして、此の本体がピアノの絃(いと)でも弾奏するように「振動」を起こしてその「振動」によって現している所のものが肉眼で見える世界であり、人間であるという訳であります。・・・

「無空間の世界」にある所の本体の「生命」が振動を起こすと、その振動の範囲が空間として我々に認識され、その振動の持続が時間として認識されると云う事になっているのであります。>>



<注・コメント>

(1)開祖・谷口雅春先生の上記の御文章を読んで感じますことは、その内容がきわめて論理的であるということであります。不合理性を伴う、いわゆる迷信的要素はないのであります。現代科学の合理主義教育を受けた人でも充分に理解できる内容であります。たとえ疑問点が出てきましても、その次を読んでいきますとその疑問点は一つ一つ氷解して行くのであります。従って、生長の家の御教えは、現代社会の科学的合理性や論理的思考に充分に適応できる現代の唯一の宗教であります。


(2)三代目・雅宣総裁の「今の教え」は、開祖・谷口雅春先生の「本来の御教え」と比較してこの点が間違っている、この点が換骨奪胎されて全く“似て非なる”いわば「雅宣教」に衣替えしていると、<本当の「生長の家」を伝え遺す信徒連合>が信徒の皆さんに申し上げますと、それに対して抽象的に反論する人が有りますが、一人として具体的に「この点は、こうである」と論理的に理路整然と究極の所まで反論を展開してきた人は一人もありません。

これからの宗教に求められる一側面は科学的合理性と論理性であります。開祖・谷口雅春先生の御教えは、立教当初からこの側面を伴っていたのであります。従って、立教当初から、高等教育を受けた信徒の人も抜群に多く(戦前ではインテリ向けの宗教とも一般に評価されていた)、一流の人々のなかには、敢えて信徒とは言わずに『生命の實相』全巻を購入・精読されていた人々も多いわけであります。

開祖・谷口雅春先生の御教えは一分の隙もない完璧な教えであり、その完璧さの理解出来る人、出来ない人の差は全くその人の霊性開発度に比例するのであります。

兎に角も、宗教界の大学院としての開祖・谷口雅春先生の『唯神實相・生命の實相哲学を今人生最大の学びとして行きましょう!


(3)吾々生長の家信徒の中には、霊界を實相世界と間違って理解して居る人達がおられます。霊界は現象世界の一部でありまして、次元が違っているだけであります。

また、「實相」という言葉は、哲学用語では「実在」と表現されます。従って、実在世界=實相世界となります。

注意しなければならないことは、「幸福の科学」の大川隆法師の使われている「実在・実在世界」と云う言葉は、「霊界・高級神霊界」という意味の内容で使われていますので、此の区別を明確に理解した上で本を読まなければ現象と實相とを混同してしまいます。くれぐれもご注意下さい。






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