生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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勝負あった! 復興爺(G)さんの勝ち! そして、「身分いやしきマサノブ君」の完敗! (2749) |
- 日時:2013年12月21日 (土) 18時05分
名前:公平なる観察者
強風と降り積もる雪に外出もままならぬ「身分いやしきもの=マサノブ君」は、豪華な薪ストーブで温まりながら初老の身で、今日もパソコンを叩いて「本流」へのウップン晴らしを続けている。
「身分いやしきもの」の投稿文の中に「初心者」が使っていた珍しい言葉“二項対立”があった。(気がつかれた方もあったでしょう)。かくして、紛れもなく「初心者=身分いやしきもの=マサノブ君」と言う等式が成り立つことがバレバレバレになってしまった。これからは、「身分いやしきマサノブ君」と言って差し上げようでは無いか!
このところ、「トキ掲示板」に於いては、復興爺さまと「身分いやしきマサノブ君」とが哲学論争を丁々発止と繰り広げている。もともと「身分いやしきマサノブ君」の屁理屈議論は、『生命の實相』を批判とアラ探しの目で読んでいるだけであるから、古参信徒である元・本部講師の復興爺さまの真理理解の足許にも及んでいない全くレベルの低いものなのである。
復興爺さまは、マジメな求道者であるから、「身分いやしきマサノブ君」の本流批判の腹いせ投稿を“哲学論争”と受け取り、本来ならば無視して放っておいたらよいものを真正面から受け取って哲学論争を始めたのである。それを「身分いやしきマサノブ君」は本流批判へ利用した。議論の相手を得た「身分いやしきマサノブ君」は、これでもかコレデモカといわんばかりに復興爺様をダシにして本流批判を猛烈に展開しているのである。
そして早や勝負がついたのである。屁理屈の虚説を述べるだけの「身分いやしきマサノブ君」が完敗したのである。その部分を抜粋すると以下のごとくとなる。――
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「トキ掲示板」<實相哲学を論じる部屋> http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1387360729/l50
8 :復興G:2013/12/21(土) 10:57:08 ID:AB6RqYXc 私には体験があります。「ただ善のみ」 を全心身全霊で感得した体験です。 それは、高校2年生を終え、3年生になる前の春休み、ある病気でもう死ぬと覚悟したあと、回復して静養していた或る日のことです。それは、前にも書いたことがあると思いますが……。 突然、魂の底から、 「お前は生きているのだ! 生かされているのだ! すべては善のみだ! 人生のどんな困難と見えることも、魂にとって向上の機会とならないものはない。このことを忘れなければ、人生は、ただ喜びばかりだ! ただ前進あるのみだ!」 というような思いが、湧き上がってきたのです。それで、私の生き方が一変しました。劣等感と罪の意識、自己嫌悪で死にたいとすら思っていた人生が、希望と光明に輝く人生に。 後に、一年以上経ってから、『生命の實相』 を真剣に読むようになった時、 「これだ! 高校三年になる前の春休みに湧き上がってきた強烈な思いと、まさに一致して、自分の人生を導いてくださるものは、これだ!」 と魂が踊りました。 そうして、今の私があります。だから、「(実相世界は) 「善のみ」 というのもナンセンスということですね。無限定で無限に変化する世界が「善のみ」に限定されるはずがありませんものね」 なんて、屁理屈ではそう言えるかも知れないけれども、私は、「善一元」 が真理であると、固く信じています。悪いものは一つもない。ただ善が現れようとしている過程なのだ! と思います。
12 :復興G:2013/12/21(土) 12:18:36 ID:AB6RqYXc ――先生は、このようにして、思索によってではなく、天界からの啓示によって 「実相」 を悟られたのではありませんか。 だから、生長の家は 「唯神実相哲学」 であるとも言われるけれども、単なる哲学ではない。『叡智の断片』 に ○ 私を哲学者だと思っている人があるが、私は哲学者ではない。私は神の啓示を、取りついだものである。そして神の啓示にしたがって生きんことを希い、また努力しつつある者である。 ○ 哲学的の思索は間違うことがある。唯物論の次には唯心論が現れる。思索というものはより多く頭脳的なものであり、論理的なものである。それだけ人間には合理的に見えるけれども、哲学というものは、時代を超えることが出来ない。合理は時代に即して合理だと思われるのである。時代に即しない合理は人から不合理だと思われる。或る時代に合理的だと思われたものは、次の時代には不合理だと思われる。人間の作った合理などは決して当てにならないものである。 ○ と書かれています。ですから、身分いやしきもの様が >> 論理の進みゆきとしては、神と4次元時空連続体との関係において、4次元時空連続体が非在であるがゆえに 「神のみあり」 との結論がくだされたのであります。<< とおっしゃるのは、ちょっと違うのではないかと、私は思います。谷口雅春先生は、ご自分で思索なさった結果として、論理の進みゆきとして「神のみあり」 との結論がくだされたのではなく、神の啓示によってそれを悟られたのではありませんか。
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このように、自己の生命的直接体験を通して開祖・谷口雅春先生の「唯神實相哲学」の正しきことを自己証明された復興爺さまに対して、ボンボン育ちの宗教的直接体験を持たない「身分いやしきマサノブ君」など沈黙しなければならないのである。「身分いやしきマサノブ君」の屁理屈の出処は、彼の後に憑依している悪霊の念の翻訳に過ぎないのである。
復興爺さま、この様な「身分いやしきマサノブ君」の本流批判のレベルの低い哲学論争に付き合う必要など少しもありませんぞ。彼はヒキコ森の冬篭りで暇な時間があり過ぎ、本流側からの「マサノブ教」への虚説撃破の勢いに腹を立てて書きまくっているだけであります。
次に、「身分いやしきマサノブ君」へ・・・
『生命の實相』の次の文章を読み、感想を述べてみたまえ!
<< 人の生命の實相に穿ち入るにはこれを霊的に理会することが必要であります。頭で真理を理会するということは、真理の周囲を堂々巡りして真理の外的な姿を知るに過ぎませんが、霊的に真理を理会するということは、「生命の実相」そのものに全身全霊をもって貫き入り力の本源をつかむ事になります。全身全霊をもって、生命の實相につらぬき入るには、この書を頭で読もうとせず、全身全霊で読む、黙読する朗読する。目で読み、声で読み、声のリズムの中に自分を溶かし込んで読む、そして静かに端坐して「神想観」を行じ、行じ終わって動き出すとき神(愛)の生活を活きる、かくする時、知恵と愛とのそろった生活が実現するのであります。 >>(『生命の實相』第4巻P.2)
マサノブ君が「身分いやしきもの」の名前で『御教え』に対して、斯くも執拗にクレームを何故に書き連ねるのか? 「生長の家」の教えが間違っていて信ずるに当らない欠点だらけの教えと思うならば、とっとと自発的にやめて出て行けばいいのである。辞めずして、批判だけを書きまくるのは、結局「生長の家」を地上から抹殺したいがためである。「身分いやしきマサノブ君」の執拗な本流批判の目的はここにあるのである。
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