生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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体験談――(元)宝塚歌劇団男子部員・吉井裕海氏、「生長の家」真理で、理事長の重病を癒す。 (2815) |
- 日時:2013年12月29日 (日) 11時06分
名前:友人信徒
これは、長年に亘る熱心な信徒・吉井孝明氏(84歳)の貴重な記録であります。なお、吉井孝明氏は、元・宝塚男子部の部員で芸名は<吉井裕海>でした。
<体験記録談>
私が宝塚歌劇団の男子部に在籍していた頃、後に私は新芸座に出向移籍しましたが、その時の宝塚歌劇団理事長・引田一郎先生が病に臥し、大阪梅田の北野病院に入院療養と聞き、小生は生長の家入信したての頃で、宝塚のマッカーサーと言われたほどの先生の病室に単身お見舞いに参りました。
病名を奥様にお伺いすると、肝臓病で食事もほとんど摂れぬ状態まで弱っているとのこと。病床のご本人からは、怒髪天を突くような怒りようで、定年で理事長を交替したが、新しい理事長となったかつての部下から降格人事を言い渡された、とその詳細を話されたのでした。そこで私も「ごもっともです」と相槌を打ちながらお聞きしていました。
谷口雅春先生は「病人の言葉は、全部その人の気持になって聞きなさい」と仰っておられました。
そこで「先生のお怒りはよく分かりました。だけど、怒りは病気の原因(モト)ですから、怒るのをやめて許してあげたらどうでしょうか」と申し上げましたが、そんなことでは到底収まる心境ではありません。
続けて私は、谷口雅春先生が言われたたとえ話を語った。
「敵に怒りの大砲を撃って当たったら痛快であろうが、怒りの爆弾を飛ばすためには、先ずこちらが先に火薬を爆発させなければならない。怒りの弾を飛ばすたびに、先ず自分の砲身つまり自分の体が焼け爛れるんですよ。弾が相手に当る前に自分の体が傷ついてしまうんですよ」
引田一郎先生は黙して聞いておられた。
「愛が何もかも癒します。相手を拝みましょう」と申し上げると、
「憎い相手を拝むのか」
「そうです。少しも求めず愛せよ。それが愛の秘訣である、谷口雅春先生が仰いました」
そして、「七つの燈台の点灯者の神示」や「天地一切のものと和解せよ」の言葉、懺悔の祈り、三界唯心所現、などについて話をさせて頂きました。
三日ほどお見舞いに通い、十日ほど経って、引田先生が「吉井くん楽になったよ」と言われ、奥様も「きょう、十日も溜まっていた宿便が出たんですよ」と嬉しそうに言われました。
それは、若輩者の私の言葉を素直に聞かれ、谷口雅春先生の真理のお言葉の霊波がそのまま伝えられたから、引田理事長の魂に響いたのだと思います。
谷口雅春先生の教えは本当に凄いと思いました。「言葉は神なりき」の一つの実証を得させて頂きました。
それから引田理事長は昭和四十七年に退院され、ご自宅に招待されました。
そこでも谷口雅春先生のご講習会で述べられたお言葉をお伝えし、引田先生一家全員が聖使命会員になられました。
それから或る日、引田先生が宝塚の私の楽屋を訪ねてこられ、「吉井くん、君が言っていた、杖をついている人の杖を第三者が外したら倒れるが、自分の意思で外したら杖なしで歩けるの言葉通り、今日は三宮の生田神社まで杖なしで歩いてお参りしてきたよ」と嬉しそうなお顔で話されました。
この杖の話も谷口雅春先生のお言葉でした。その日は、一緒にご自宅までお送りし、その夜、奥様、長男(映画監督)、長女(声楽教師)、次女のご家族全員が輪になって手をつなぎ、和解の祈りをしました。
翌日、花登筐(はなとこばこ)さんのパーティに出席中、「昨夜引田先生が亡くなりました」の報が入り吃驚仰天(びっくりぎょうてん)しました。
最後の最後まで、引田理事長に谷口雅春先生のお話をさせて頂いたことを嬉しく思っています。
ご健在の折、「吉井くん、有難う。君は善い教えの宗教に入ってよかったね」の言葉が今も心に残っております。昭和四十八年四月十八日でした。
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