生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
トップページへ戻る
↓↓↓ 訪問者数 ↓↓↓
生長の家「今昔物語」・ 理性篇の再掲示 <第十一話> (250) |
- 日時:2013年03月01日 (金) 10時18分
名前:信徒連合
生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇
第十一話(通算第337話) 光明思想家とマルキストとの対話(10)
歴史的存在としての日本<その一>
(『解放への二つの道』P.147−149)
客:
マルクスはこう云う風に言っているのです。「ヘーゲルにとっては思惟課程は内部現象に過ぎないのである。これに反して私の立場から見れば、観念世界なるものは、畢竟するに人類の脳髄の中で変更翻訳された物質世界にほかならないのである。
吾々の精神とか認識とか言うものは人類の脳髄の中で外界の物質世界を観念的に模写したものに外ならない」と言っているのです。即ち模写説と云うのを採用しているのです。
エンゲルスは更にこれを説明して言っています「吾々は観念というものを、実在物(註・彼の言う実在とは現象に対する実在ではなく、存在するものはすべて物質のみだと云う立場から、物質のことを実在物と言っているのである)の模像と解釈する。観念があって実在物(物質)が出来るのではなくて、実在物があってそれが吾々の方に写ったものが即ち観念と称するものである。これを本末顛倒してヘーゲルは、頭で立っている。つまり、我々は逆立ちしていたのをひっくり返して再び足で立った直立の地位に戻したのである。」つまり、人間の意識にコップと云う観念が出来るのは、コップと云う実在物があって、それが人間の脳髄に写ってコップと云う観念に翻訳される。人間の脳髄の中にコップと云う形が観念として描かれるのは外界のコップの実在物の模写であると言うのです。
主:
そう云うものの考え方が間違いであると云うことは、生理学や心理学が段々進歩して来た現在ではもうハッキリして来たことなのです。コップと云う外界のものが心で認められるのは、コップそのものの影が脳髄に写っているのではないのです。
人間の網膜は、丁度テレビのブラウン管に映っている姿のように、その姿そのものが映っているのではなくて、無数の濃淡ある点が写っているにすぎないのです。そこには色も何もない。ある周波数の電磁波の微小な強弱さまざまの刺激点が並んでいるだけである。その刺激を神経系統で脳髄中枢につたえられると、それが、ある色彩をもった或るかたちのものだ、と云う観念となって浮かび上がってくる。
これは決して外界の実物が映っているのではない。外界の実物はエネルギーの波動の集合体であり、そこから放射または反射されたエーテル波または電磁波が、それが、ただの「波動」として脳髄に映るのだったら、それは外界の実物を模写したことになるけれども、無数の波動の刺激点をそのまま「波動の刺激点」として模写せずに、ある観念としてそれが心に浮かび上がって来るのはその波動の刺戟を契機として人間の生命の内に内在する観念が内から浮び上がってくるのだと云うほかはない。
つまり人間の生命は、宇宙の普遍意識の一部がやどっているのだから、宇宙にある一切のものの観念を内に包蔵している。その内に包蔵する観念の中から、外界から来る刺激物の並び方に応じて、それに相応する観念を心に浮かび上がらせる。
そして、外界のその事物をそこに見たと云う風に感ずるのですよ。マルキシズムは人間をただの写真機械のように考えているが、それは大変な間違いですよ。
客:
マルキシズムは唯物論に属してはいますけれども、同じ唯物論でも古い唯物論と異なって人間を一個の機械としては観ないのですよ。
主:
それでは、どう云う風に観るのですか。
-
|
|