生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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マサノブ君の「生長の家」解体証明――「身分いやしきもの」君の所論から考える<第3弾> (3033) |
- 日時:2014年01月26日 (日) 11時09分
名前:怒れる信徒代表
[U] マサノブ君は、理屈だけは達者であるが、「理屈」では人は救えぬ! <その2>
5291 名前:身分いやしきもの 投稿日: 2014/01/03(金) 21:07:32 ID:iei0MD3c ソシュールは、客観の世界で飛びまわっている竜が、主観の世界ではころがる箸にみえてしまうことを証明した人です。あなたがみている箸は、ほんとうは竜であるやもしれません。
<一言コメント> ソシュールという学者は、学問の世界ではそれなりの人であろうが、所詮は人間知の世界の人である。人間知による学問の世界と人間知の極限から無の関門を超えて到達した悟りの世界とは、霊的観点から見れば全く別次元の世界である。「身分いやしきもの」君は、霊的次元の悟りの世界よりも人間知の学問の世界を上意に置いており、高次元の霊的悟りの世界を人間知の学問の世界で解明しようとしているのである。この“愚”に彼は気付いていないので、実際の救済力のない理屈を長々と繰り返すのみであるのである。
5320 名前:身分いやしきもの 投稿日: 2014/01/04(土) 23:37:23 ID:.YDN6pSA 「言葉には意味がない」ということ、実体は箱の外にあって、箱のなかからその実体を見ることはできない。リンゴという言葉がこの実体を名指さないかぎり、リンゴという言葉に意味があるとはいわない。リンゴという言葉は、箱の外のなにものをも名指してはいません。物体としてのリンゴは箱の外にはないからです。リンゴという言葉は箱のなかだけで通用するのであって、外の世界には通用しない、ということであります。箱のなかでしか通用しない言葉でもって外の世界を言い当てるのは不可能。「言葉に意味がない」とは、こういうことをいっているのであります。「言葉に意味がある」と思い込んでいる人たちとは、箱のなかでしか通用しない言葉でもって外の世界のなんたるかを言い当てていると思い込んでいる人たちです。
<一言コメント> 宗教的真理を求め、それによって自己人生の現下の現代科学では解決できない問題の解決を求めている人にとっては、心には何のヒビキも感じない議論理屈は必要ではないのである。心の問題解決のためには、心に感動を与え360度の価値観の転換(廻心)を可能ならしめる力ある言葉が必要なのである。だから、「学者と金持ち後回し」(天理教祖)なのだ。理屈屋「身分いやしきもの」君は此処のところが分かっていないのである。
5402 :身分いやしきもの:2014/01/06(月) 12:48:34 ID:iei0MD3c 「人間存在の最も根源的な次元」とはなんなのでしょう。それはたぶん「堪えがたい真理」の次元なのです。その次元にふれた人が心を病むのです。宗教的救済とは、心を病んだ人からその病いをとりのぞくことなのでしょう。しかしそれは、その人がふれている「人間存在の最も根源的な次元」からその人を引き離すことでもあるのです。ラカンは、臨床の経験から「神経症、精神病、倒錯といった病理的な形成物は、現実に対する根本的に哲学的な姿勢がもつ威厳をそなえている」と考えていたようです。愛を行ずるとはどういうことなのでしょう。幸福な人生を約束する同一化すべき深い真理を伝授することなのでしょうか。人々とともに、哲学的な威厳をそなえた堪えがたい真理を生きることなのでしょうか。同一化すべき深い真理が言葉によって執拗に語られつづけるのは、防御壁であるからなのです。
<一言コメント> 自らが、病悩苦からの救済の実際体験を持たない議論理屈好きな学者は、簡単なことでも難しく言い換え、間違ったことでも難しく言い変えることによって正論化して行こうとする者である。学者「身分いやしきもの」君、君の一番の居場所は森の中の象牙の塔の中である。間違っても宗教や信仰の世界へ足を踏み入れるべきではない。君の霊的年齢はまだまだ幼いことを自覚すべし! 「身分いやしきもの」君! 君は、法華経七つのたとえ話の一つである「三車火宅」をどうして思い出さないのだ?病気から何とかして解放されたいと願っている人を救うことを、君は「人間存在の最も根源的な次元」からその人を引き離すことでもある、と冷たく突き離し、救済不要論を主張する。このあたりの思考は、冷徹総裁・マサノブ君と全く同じ性格だ
5428 :アンドロイド:2014/01/07(火) 07:34:25 ID:wiK/MMSE 宗教団体が果たせる使命とはいかなるものか、中身のない煌びやかさ、衝撃的な感動による救済は、避けて通りたい手法です。いまだこの精霊の時代には首を突っ込んだぐらいの時期だと思われます。だからこそ、生長の家が先駆で、その精霊の時代の運動を展開すべきと私も思います。
<一言コメント> 宗教の使命は、此の世に生れてきた人の使命と目的を自覚させ、物心共にバランスある幸せな生活を地上で送れるようにする事である。同時に、根本真理を多くの人たちにお伝えする事にあるのである。病悩苦からの救済を放棄したり、机上の空論を振りかざしたり、言行不一致の説教をするのは間違いである。
5461 :身分いやしきもの:2014/01/08(水) 12:34:05 ID:iei0MD3c 問題は、宗教とはなにかということですね。わたしは、主観と客観は一致するとする立場にたつ思考方法が宗教であると考えます。主観と客観の一致を主張すれば、それはすべて宗教であるということです。「キリストは神である」が主観的事実だけでなく客観的事実でもあると考えるのが宗教です。主観と客観が一致するというのは思い込みでしかありません。こうした思い込みは、「言葉には意味がある」とする思い込みから必然的にでてくるものです。「言葉には意味がある」とする思い込みが宗教をつくりだします。仏教は「言葉には意味がない」と気づいていたのではないでしょうか。これはわたしの印象でしかないのかもしれませんが、仏教思想の底流に流れているのは主観と客観は一致しないとする一種のあきらめであるようにおもえるのです。「言葉には意味がない」とする仏教的諦念を究極のところまで追い詰めていったのが禅ではなかったとおもえるのです。はじめからロゴスをたてるとすれば、それは「言葉には意味がある」と思い込むものたちがおちいる言葉のワナなのだ。明徳をあきらかにしようとした盤珪禅師は、明徳というロゴスをたててそれを言葉で言い当てようとしていたのですね。さすがの盤珪禅師も言葉のワナにおちていた。進退きわまったところで万法がすすみでてきて、常人には理解しがたい境地と一体となった。ロゴスをたてたところに明徳の門があらわれたのです。門があるとみえるのは、ロゴスをたてている証拠なのです。すべては「言葉には意味がある」との思い込みの結果です。それでもロゴスをたてずにおれない。これが言葉を話す人間の悲しいサガなのですね。人間はロゴスと心中するしかないのかもしれません。文字どおりの不惜身命で明徳をとことん追い詰めた盤珪禅師は、ついに明徳との心中を果たしたのかもしれません。「万法すすみて」をたてているとすれば、万法をたてている自分がいる。その自分を万法と心中させてみよ、ってことですな。万法においてこそ主観と客観を一致させてみよ、ってことですな。
<一言コメント> この「身分いやしきもの」君は、理屈だけは達者過ぎるほど達者であるが、謙虚なる求道者の態度が見られないのである。「無の関門」を未だ超えていないにもかかわらず、高き悟りの境涯に達した真理の師をエラそうに批判している。尊敬できるのは、宗教の世界の“師”ではなく、ソシュールとかラカンとかいった人間知に秀でた理屈専門の学者とでも言いたげである。人間知中心の学者の言を四無量心の宗教の世界に入り込ませること自体が間違っているのである。
5515 :身分いやしきもの:2014/01/09(木) 11:18:53 ID:iei0MD3c 自分のなかに知識をひけらかしたいとする思いがある人だけが、相手のなかに知識をひけらかしたいとする思いをみてしまうということです。わたしはなにもかもわかっていると思い込んでいる人たちに、それは錯覚であってほんとうはなにもわかっていないのだということをわからせたい。こういうことを何度もいっております。そのための手段として知識をもちいているだけです。「感性」という言葉でごまかすことはできますけども、じっさいなにもわかっていない。わかってもいないのにわかった気になっている。これがみなさまの姿なのですよ。相手に「自分の姿がみえているか」というまえに、まずは自分の姿をご覧になられてはいかがでしょう。もちろん「なにもわかっていないのにわかっている気になっている」というのはわたしの姿でもあるのです。だからこそみなさま方にその姿を投影して、みなさま方を批判しつづけなければならないのです。
<一言コメント> この文章は、読んでわかるが如く、「身分いやしきもの」君の自己分析の告白文である。彼の霊的年齢が若く低いことを自己告白しているだけである。ただ、本人がその点に気付いていないだけである。
5519 :身分いやしきもの:2014/01/09(木) 12:54:31 ID:iei0MD3c 投影とはなにかをまったく理解しておられないようですね。「無我の生活を営むには」というようなことをいっているようでは、すでに無我をたてている自分がここにいる。「無我の生活を営むには」と考えることじたいが一念である。「無我といいながら無我をたてている『私』がそこにいるではないか」、「現象なしといいながら現象をたてている『私』がそこにいるではないか」というように「何処をどう読んでも『私は』が付いて回っています。
<一言コメント> この様な屁理屈論を書きたてて飽きないこと自体が、「身分いやしにもの」君が、『生命の實相』を素直に熟読していない証拠である。アラ探しの目で読んだに過ぎないからである。えらそうに『御教え』批判を書く資格はないのである。
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