生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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「脱・宗教」、「脱・信仰」へ誘導するマサノブ君、――2・1「枯れ松模様」=大自然讃歌の解説@=を講評する! (3107) |
- 日時:2014年02月04日 (火) 18時01分
名前:怒れる信徒代表
マサノブ君は、まるで悪霊が乗り移ったような恐〜い形相で信徒を睨みつけながら、2月1日からブログ「唐松(枯れ松)模様」で「大自然讃歌」経の解説を書き始めた。このシリーズを書き始めた事情を察すれば、「トキ掲示板」で「反・『御教え』」の本音の議論が出来なくなってしまった。(「身分いやしきもの」君がマサノブ君に謝罪した。)しかし、まだ「曳馬野」君がチョロチョロうろついているが、あまり書きすぎると又、「身分いやしきもの」君と同じく謝罪しなければならなくから、目下のところ「曳馬野」君は大顔して書けないらしい。「トキ掲示板」では書きたくても書けなくなったマサノブ君にしたら、一日9時間もパソコンで遊んでいるのだから何か書きたくてウズウズしておる。この気持の吐けどころは「トキ掲示板」では書けないので結局のところブログ「枯れ松模様」で、という事になったらしいのが一つの理由。
第二の理由は、とにかく「大自然讃歌」=「大自然惨禍」経であると言う事が、広く信徒に浸透して来て評判が芳しくない。そこで、総裁という“沽券(こけん=体面)”に掛けて何とか名誉挽回を図っておかねばなるまいという気持が底にあるため、この解説シリーズを書き始めたのが第二の理由とも受け止められるのである。
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2月 1日 「唐松模様」 =『大自然讃歌』解説 (1) = (要旨)
<< 経本型の『大自然讃歌』の冒頭には、「円満具足微妙」の揮毫を入れさせていただいた。この言葉は、谷口雅春先生の聖経「天使の言葉」の詩文の終りに近い部分に書かれた、次の一節に呼応するものである−− 神の創造である実相世界を表現する言葉に、一定のものはない。・・・実相を観ずることができる者にとっては、言葉によらずともそれを指し示すことができる。ただし、受け手の側に、ある程度の素養がなければ間違った理解が生じる可能性は十分にある。・・・ 微妙(ミミョウ)の意味は、『広辞苑』には、次の2つの意味が掲げられている−− @何ともいえないほどすぐれていること。 A仏法とそれを悟る智慧の深遠ですぐれたさま。・・・この経本の題名は「大自然讃歌」であるから、揮毫する目的も大自然を讃えるためである。大自然を前にして、「円満具足微妙」の言葉を捧げよう、ということだ。「清浄」(しょうじょう)の二文字が抜けているのは、意識して除外したのではなく、揮毫するスペースとの関係上、やむを得ず省略したと理解していただきたい。「円満具足」の意味は、・・・「完全で、完璧であること」である。この評価は、『創世記』の第1章で神が天地創造の後に宣言された「はなはだ良い」という評価とも一致する。『大自然讃歌』の扉を飾る言葉として、私は結局、「神の創造された実相世界は完全円満である」という生長の家の根本教義を、「天使の言葉」の詩文を生かして別の言葉で表現させていただいたわけである。「微妙」の意味についてさらに補足すれば、「天使の言葉」だけでなく「甘露の法雨」の詩文の最終部にも、この「微妙」という言葉は出てくる−−・・・「音楽」に喩えられている点を私は重要だと考える。なぜなら、自然界では、鉱物や生物や数々の法則など無数の存在が観察されると同時に、それらが全体として「1つ」のものとして包括して感じられるだけでなく、その全体を構成する無数の部分が互いに調和して心地よく感じられるからである。そのような全体と部分との不可分・不可欠な調和を表すものとして、「音楽」はとてもわかりやすい。 政治の世界では、「国が先か個人が先か?」とか「社会の利益か個人の利益か?」などと言って、全体と部分は常に矛盾対立するかのような印象をもつ我々であるが、・・・全体は部分のためにあり、部分は全体のためにある。それを理論や理屈で説明する必要はなく、聴いただけで納得し、疑問の余地なく感動する。それが芸術というものの力だ。このような全体と部分との複雑で微妙な一体性の理解が、音楽の領域を超えて、すべての生物と事象と存在とを覆い包む悟りに至るとき、これを得た感動はきっと「天楽」のハーモニーに喩えることができるだろう。「大自然讃歌」はその目的に向かい、自然界とそれを構成する生物や鉱物と、それらの背後にある法則などを言葉によって紡ぎ出し、整列させ、あるべき角度を与えて、大調和の感得へと導こうとしている。 谷口雅宣 >>
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大自然讃歌・抄
A, 或る日天使(てんのつかい)虚空の水晶宮より出でて緑の森へ降り立ち給う。森には朝霧たち込め、差し込む朝日光の帯を幾筋も拡げ、鳥たちの囀(さえず)る声高く低く辺りに響きたり。
B, 天使、自然界を讃えて歌い給う――神は唯一の存在なれどかくの如く多種、多様、無限豊穣を生み出し給う。・・・多様なる生命共存の場、相互向上の舞台なり。生物種互いに与え合い、支え合い、共に競いつつ厳しい中にも動きと変化に富む美しき調和到るところに充満せり。・・・これら生態系はすべての生命の共栄圏にして、個性保ちつつ無数に集まり地球の表面を覆い尽くせり。
C, 生物は殺し合いではなく、生かし合いと棲み分けによって多様な生態系を築き上げしこと、生物学者も認むるところなり。生かし合いと棲み分けこそ、神の愛と無限の表現なり。すべての生命互いに兄弟姉妹なりと知れば、地球生命の繁栄の過程は神の知恵と愛と生命の表現なること自ずから明らかとならん。
D, 神の創造世界では「善のみ唯一の力、善のみ唯一の生命、善のみ唯一の実在」と説かれたり。生物相食(あいは)む姿見ゆるは、神の創造と汝らの信念整合せざる結果なり。「生かし合い」の心汝らの内に拡がり、汝らの生活に反映さるるとき、生物界にも「生かし合い」の姿拡大せん。
E, 人間は未だ意識拡がる途上にありて、自然即我∞我即自然≠フ実相に眼(まなこ)開かず。個にこだわり全を見渡し得ざる故に、自然と戦い、自然から奪うことにより自己の価値増すと錯覚せり。また、欲望肥大し、制御しがたき人未だ多き故なり。
F, 汝、神は自らの似姿≠ニして人を創り給いしこと忘るべからず。神は全ての総てなるが故に、似姿≠ネる人にすべてを与え、人をしてすべてを正しき位置に納めしめ、大調和の秩序を地上に顕現せしめんとす。されば個の意識は人間に於いて最高度に発達せん。汝、人間最勝の特長忘るべからず。人間は他者を思いはかること地上の生物随一なり。されば仏道にて「四無量心これ菩薩の浄土なり」と説くに非ずや。イエス・キリストも「いと小さき者の一人に為したるは、即ち我に為したるなり」と教え給う。この自他一体の想いこそ人の人たる所以なり。四無量心は神の愛にして、人間・神の子≠フ証なり。
G, 個の意識の目的は自らの意(こころ)をよく識(し)ることなり。自らの神の子≠スる本性に気づくことなり。多くの人々自ら本心を欺き、他者の告ぐるままに自ら欲し、自ら動き、自ら倦怠す。自らを正しく知らぬ者、定まらぬ心を他者に映して自らの責任を回避せん。されど自らの意(こころ)をよく識る者は、自己の内に神の声を聴き、神に於いて他者≠ネきこと知るがゆえに、自己の如く他者も想わんと思いはかることを得。即ち彼は、神に於いて自と他との合一を意識せん。
H, 欲望は肉体維持発展のための動力にして、生物共通の炎≠ネり、生命の炎≠ネり。これなくして生物地上にて生活すること能わず。欲望もまた神性表現の目的にかなう限り、神の栄光支える生命の炎≠ネり。欲望の正しき制御を忘るべからず。欲望を神性表現の目的に従属させよ。欲望を自己の本心と錯覚すべからず。欲望燃え上がるは、自己に足らざるものありと想い、その欠乏感を埋めんとするが故なり。即ち、欲望は自己の神の子≠ネる本性を知らざる迷いより生ず。汝らは神の子なり、仏子なり。生命の炎℃ゥ在に統御し、自己の内なる神の目的に活用せよ。しかして内部理想の実現に邁進せよ。そのとき、自己内奥の本心$[く満ち足りて、「善き哉、善き哉」と神の御声汝らに囁かん。かくの如く人間の意識高まりて自己内奥の神を我なり≠ニ観ずるに到らば、自然と人間との戦いは消え、大調和の秩序地上に顕現せん。
I, ――かく天使語り給うとき、森を覆う霧の帳(とばり)静かに上がり輝く陽を浴びて木々の葉一斉に光を宿し、鳥たち空に舞い上がりて色とりどりの衣裳きらめかせ、仲間と呼び交わす声低く緩く虚空へと遠ざかりたり。かくの如く森の満ち足りたる姿は、神の御国の平和と繁栄を現じたりき。 (讃歌終)
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<講評>
@ まず、マサノブ君は、「円満具足微妙」の揮毫を入れたことを、『広辞苑』の語句解説を引用して説明している。辞書による語句解説は彼のいつものパターンである。次に「円満具足清浄微妙」を「円満具足微妙」と“清浄”を省いた理由は単にスペースがなかっただけだ、と言う。しかし、マサノブ君をして“清浄”を省かしめた心理を考えると、彼は自分自身を宗教家と称しているが、決して自分は“清浄”には値しない人間であると自己評価していた為に省略したのであると思われるのである。彼のこれまでの言行不一致の所業の数々から判断すれば、極めて妥当な判断だと思われるのである。
A <<神の創造である実相世界を表現する言葉に、一定のものはない。・・・実相を観ずることができる者にとっては、言葉によらずともそれを指し示すことができる。ただし、受け手の側に、ある程度の素養がなければ間違った理解が生じる可能性は十分にある。>>とマサノブ君は書いている。この文中の<実相を観ずることができる者>とはマサノブ君自身である、と思っているようである。つまり、<自分は實相を悟っている>と自負し、<實相を悟る素養を持たない信徒の皆さんは實相世界についての理解を間違う可能性がありますよ>と云っているのであります。総裁とは“仰ぎ見られる立場”で、信徒は“下層に位置するもの”というマサノブ君の傲慢性が如実に現われているのである。さらに、――
マサノブ君は“素養”という言葉を使っている。この言葉の使い方はマチガイである。「實相を観ずる“素養”」ではない。この場合は「實相を直感悟得する“境涯”」でなければならないのではないか? 此処に置いても、「實相世界」を肉体頭脳だけで理論的に理解できるのだと云うマサノブ君の傲慢な性格が現われているのである。明らかに、開祖・谷口雅春先生と信徒に対する挑戦的傲慢な書き方である。彼の傲慢さは“揮毫”という行為にも現われている。文字の劣悪な人は“揮毫”を頼まれても辞退するのが普通である。然るに、マサノブ君の文字は決して上手と言えた代物(しろもの)ではない。むしろ“悪筆”の類である。普通なら恥かしくて書けないものなのである。それを無理に書いて、自分から“揮毫した!”などとよくも言えたものである。
B マサノブ君は、自作の「大自然讃歌」について、これは“天楽”ともいえる“芸術作品”であると次のように自画自賛しているのである。曰く、<<それが芸術というものの力だ。このような全体と部分との複雑で微妙な一体性の理解が、音楽の領域を超えて、すべての生物と事象と存在とを覆い包む悟りに至るとき、これを得た感動はきっと「天楽」のハーモニーに喩えることができるだろう。「大自然讃歌」はその目的に向かい、自然界とそれを構成する生物や鉱物と、それらの背後にある法則などを言葉によって紡ぎ出し、整列させ、あるべき角度を与えて、大調和の感得へと導こうとしている。>>と。
然し、この「大自然讃歌」が発表されたとき、「これは、聖経『天使の言葉』の文体を借用して、人間罪の子の意識を強調し、自然崇拝教にしていく言わば“パクリ”だ」と評価されたのである。信徒全部ではないがこのように感じ取った信徒の人たちも多く、特に篤信者においては圧倒的に多かったのである。一般の自然主義者や『御教え』を深く研鑽していない現象=実在と理解している信徒さんであれば、その詩的リズムによって高い評価点を与えた人も多いものと思われる。
C そこで、次に「大自然讃歌」の要点を抜粋すれば、上記の「大自然讃歌」抄のごとくなる。そこから「大自然讃歌」の特徴がわかってくるのである。
イ、 「大自然讃歌」の冒頭部分(A)と末尾部分(I)は、聖経『天使の言葉』のそれと比べれば、同じリズム感を取り入れ、冒頭と末尾の間にマサノブ思想を入れて書き替えたものであり、その書き替え文は、明らかにマサノブ君の肉体頭脳という<人間知による創作=芸術作品>である。
ロ、「大自然讃歌」においてマサノブ君が言わんとしていることは、次の3点に集約される。
1、創造神としての神は、地球の自然界を“多様性”という特徴を与えて創造された。そして、地球生命の繁栄は棲み分けと生かし合いを通じて全体的な調和を図ることによって実現される。
2、地球上に住む(肉体)人間は、人間中心至上主義を取らず、欲望を自己制御し、他者を思いやる四無量心を持つこと、これが人間本来の姿であり、人間神の子という事である。
3、この内部理想実現に向かって邁進せよ。さすれば、人間の意識高まり、「自然即我・我即自然」と観ずるに到り、自然と人間との戦いは消え、大調和の秩序が地上に顕現するのである。
ハ、 「大自然讃歌」は、現象地球の自然界の詩的表現文章であるといえる。内容は、地球上に住む人間は、地球自然界の一部分を構成している生物である。今後の人類という生物の進む道は、地球上の自然界と共生調和していくことが神の御心に沿う生き方である、このようなマサノブ君の人間観、自然観、理想実現論を表現したものである。
D ここで、われわれ信徒は、自分たちの入信当時に立ち返って考えてみる必要がある。殆んど100%近き信徒の入信の動機は、病苦、生活苦、家庭苦、人生苦に対する根本的解決を求めて「生長の家」という宗教の信仰へと入信して来たのである。『生命の實相』やそれを縮約した聖経『甘露の法雨』や『天使の言葉』には、それら悩みを解決する為の根元の問題点、――神とは?、霊魂とは?、生命とは?、病とは?、叡智とは?、迷いとは?、罪とは?、人間の本質とは?、宇宙の法則とは?、人生の目的とは?、人間地上誕生の意義とは?、・・・こう言ったことが書かれていたがために「自分の本当に求めていたことの回答が此処にあった」と魂の波長が共鳴し、あらゆる人生苦解決の道が開け、奇蹟的体験を生じた人も数限りなく出て来たのである。
E マサノブ君の「大自然讃歌」を彼は「お経」と称し、『甘露の法雨』が無くなった今、格上げして「聖経」となったのであるが、「お経」である「大自然讃歌」は、果たしてわれわれ信徒の入信時の“悩み・苦しみ”を救う力があるのだろうか? われわれ信徒のかつての入信の動機となった当時の悩み苦しみは「大自然讃歌」では救われなかったことは確かなことである。『生命の實相』や聖経『甘露の法雨』は人間の頭の思索の芸術作品ではなく、人間の悩み苦しみを解決する為に、開祖・谷口雅春先生を通してこの現象世界に降ろされた神の啓示であるから、本当の現実的な偉大な救済力があるのである。
F 「大自然讃歌」は、マサノブ君の肉体頭脳の人間知で書かれたものであるから、「お経」とか「聖経」と名前をつけてはいけないのである。「大自然讃歌」は、宗教や信仰の領域に属するものには非ず、“芸術”分野の中の“創作詩”の分野に属するものである。ここに於いて「マサノブ教」は既に「脱・宗教」、「脱・信仰」を宣言したといえるのである。真理に対する謙虚さのないマサノブ君、科学的合理性(理性)を優先させるマサノブ君、霊的なことを信じず議論と評論好きなマサノブ君、信仰の世界よりも芸術の世界を好むマサノブ君・・・は、本当は宗教家とは言えないのである。求道者・信仰者にもとめられるべき“清浄心”なきマサノブ君の最適の居場所は“評論家”の世界、ジャーナリストの世界であるといえよう。それを敢えて宗教界に留まっている理由はただ一つあるのみ、それは、独裁者となって独裁権力を振り回してその快感を味わいたい欲望が極めて強く、そして「生長の家」の看板を“金の成る樹・打ち出の小槌”と認識している為、この認識は“清浄”という言葉とは程遠いものである。
G 「大自然讃歌」を読むと、本当に“ご立派”お説教が書かれているのであるが、その“ご立派”なことをマサノブ君がどれ程実践しているかといえば、殆んどないのではなかろうか? 御兄弟を「原理主義者」の烙印を押して冷酷に追放したり、実母の恵美子先生まで軟禁状態の生活をさせたり・・・普通の常識人以下ではないのか? この様な“言行不一致”の人間が、自らを脚下照顧せず、「大自然讃歌」の解説をして、四無量心や大調和の実現をシャーシャーと説教すること自体が間違っているのである。今後引き続いてマサノブ君がどのような“解説”を続けて行くか? 注目に値するものであります。
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感想 (3110) |
- 日時:2014年02月04日 (火) 19時05分
名前:本流復活を望む者
大変興味深く読ませていただきました。本当に、「脱・宗教」「脱・信仰」ですね。続篇を期待しております。ありがとうございました。
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