生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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「脱・宗教」、「脱・信仰」へ誘導するマサノブ君、――2・3「枯れ松模様」=大自然讃歌の解説A=を講評する! (3119) |
- 日時:2014年02月05日 (水) 21時02分
名前:怒れる信徒代表
「唐松(枯れ松)模様」2月 3日 = 『大自然讃歌』解説 (2) = (要旨)
<< 讃歌本文の解説に入る前に、揮毫に続いて収録されている「自然と人間の大調和を観ずる祈り」について、少し書こう。この祈りの言葉は、2011年3月17日に書かれた。東日本大震災が日本を襲った日から6日目である。多くの人々が内部から湧き上がる切実な疑問に答えようとしたに違いない−−「なぜ地震が起こるのか?」「なぜ津波を人間は防げないのか?」「なぜこんな事態になったのか?」「自然は人間の敵なのか、味方なのか?」。1人の人間にとって、最も不合理・不条理に感じられることの1つは、自分が生まれ育った土地や町から、自分の意思によらずに引き離されることである。「故郷」こそ幼い頃の自分の生存の基盤であり、この世で生きる一個の人間の自己同一性の根拠であるからだ。このように人間というものは、洋の東西を問わず、故郷の自然と人間関係を心の基盤として人生を送るものである。その故郷が、放射能汚染とその影響のために人が住めなくなり、自然も荒れ果てて、自分の生存中に戻ることができないというのでは、故郷が失われたに等しい。これほど、人の心に不合理で不条理な感覚を起こさせるものはないと私は思う。国破れて山河在り 城春にして草木深し……人間の営みの“頂点”にある国が破壊されても、以前と変わらぬ自然がそこにあったことの感動を、杜甫(712〜770年)は詩に残した。人間心理のこういう基本を振り返れば、私たちはいやおうなく「自然と人間は本来一体である」という事実を確認するはずである。自然は人間を水や食べ物や酸素などで物質的に支えているだけでなく、精神的、心理的にもしっかりと支えている。植物の緑、空や海の青、水の流れる音、鳥のさえずり、花の香りなどが、人間の疲れた心をどれほど癒やしてくれるかは、説明の必要はないだろう。そのことをきちんと理解し、常に感じている人々は、自然に感謝の想いが生まれるし、自分を支えてくれる自然を破壊せずに、養い育てることに何の疑問も抱かないどころか、それは義務だとさえ感じるはずだ。これが自然と人間との本来の姿である。だから、この段落の最後にはこう書いてある−−「両者のあいだに断絶はなく、両者のあいだに争いはなく、両者のあいだには区別さえもないのである」。人間の肉体は原子・分子で構成されていて、肉体の営みと活動にともない、それらの原子や分子が肉体の内部に入って、また外へ出るという「新陳代謝」。が、体の内外を往き来する原子・分子の流れが、1人の人間だけで生じているのでなく、すべての人間と生物との間で起こっている事実をよく考えてみれば、このようにきわめて複雑で、厖大な与え合い、支え合いの仕組みがなぜできているのか、という疑問に行き着くはずである。そこに「神の知恵と愛と生命を観ずる」ことを、この祈りは薦めている。・・・「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第6日である。」神は天地創造を6日間で行われ、その最終日にすべての創造物を見て、神御自身が「はなはだ良かった」と宣言されたのが大自然なのだから、私たちも自然を愛し、尊重し、その実相をもっと凝視しなければ申し訳が立たないのである。谷口雅宣 >>
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<講評>
マサノブ君の「大自然讃歌」解説シリーズの2回目は、「自然と人間の大調和を観ずる祈り」の解説となっている。その解説文の要旨は上記のごとくであるが、開祖・谷口雅春先生の『御教え』を学んだ者からすれば、マサノブ君の解説には、直観的に違和感を感じるのである。なぜ違和感を感じるのであろうか、と云う事を考えて見ると、結局のところ目に見える「自然」というものをマサノブ君は知的な分析知(人間知)によって捉えようとしているのである。しかし、人間知だけでは解決できない根本的な人生問題に逢着して『生命の實相』哲学によって現象知(人間知)を透過して根本的な解決を見出す事が出来た求道者は、生命的智慧(神の叡智)によって、目に見える自然をも捉えるのである。この差が“違和感”として感じられるのである。このように考えるとマサノブ君が如何に巧みに解説しようとも所詮は唯物論の範疇での解説の域を出るものではないと言う事が判るのである。以下、詳述する。
@ マサノブ君は、「なぜ地震が起こるのか?」「なぜ津波を人間は防げないのか?」「なぜこんな事態になったのか?」「自然は人間の敵なのか、味方なのか?」と自ら問題提起をしているにも拘わらず、的確な答を書いていない。その理由は、マサノブ君は「小閑雑感」にも書いていた如く、地震・津波・火山の噴火の如きものは、“自然現象”であって人間にとっては“起って当たりまえ”のことと見ている、人間にとっては防ぎようのないことであると考えているから的確な回答は出来ないのである。彼は講習会では「三界唯心の理」の説明をするが、その説明はあくまでも言葉の意味の辞書的な説明であって、それを真理などとは彼自身信じていないのである事が判るのである。
A マサノブ君は、「自然と人間は本来一体である」と常に主張する。何故本来一体なのか?の説明を彼は「人間及びその生活は、自然によって支えられているから」・「自然は人間に精神的癒しを与えてくれるから」・「新陳代謝現象も分析すれば分子や原子の流れのことであって、この流れは人間と他の総ての生物間で行われているから」と、説明しているのである。この考え方は全くの唯物論的分析であって、生命的観点(霊的観点)からのものではないのである。お世辞にも宗教家の解説ではないのである。
然らば、生命的・霊的観点からの解説とは如何なるものなりや?
イ、 お釈迦様は、成道の暁に「有情非情同時成道・山川草木国土悉皆成仏」と、御自分の直接的生命体験として、「総ての生きと生けるもの、総ての在りとし在らゆるもの」の實相を“成れる仏”の姿として悟られたのである。
ロ、 開祖・谷口雅春先生は、大悟徹底されて次のように記されている。(『生命の實相』第20巻P.139〜140)
<< 朝 東方に面して 合掌礼拝して 霊々妙々 円満の大生命を観ずれば 心身清浄 微妙の大生命は 雰囲気となって 我が身 我が心をひたす。 吾れと その雰囲気と 一体にして境なし ああ讃うべきかな生命 われが生命である歓びよ 生かされている! 生かされている! 生かされている! 生かされているこの歓びを 心にみたして眼をひらけば 眼前に 朝の太陽は微妙の光をはなち 庭の木の若葉に生命が照り輝く 若葉の生命の中を 別にまた一つの生命が躍っている 雀が金色に輝いて枝から枝へ飛びうつる。 空気が躍っている、 内も外も 燦然たる生命の大光明世界だった。>>
ハ、 昭和の哲人・橋本徹馬師の「宇宙生命と自己との全面的感応」の生命的直接体験
<< (断食)四日目の朝、生の歓喜を感じつつ戸外に出たが、久々に地上を踏むことの嬉しさに心が躍った。そうして眼にふれる一切の物に対して好感を持つ、優しい愛情、――断食以前の私にはなかった種類の普遍の愛情――が私の心身に満ちていた。折りしも六月の末であり、万地の草木が生命力一杯に繁茂しつつある時であった。私は河原の辺に生えている雑草を愛撫しつつ、なんともいえぬ親愛の念を感じ、古の「傷める葦をも折らざりし」聖者の気持を、いまこそ理解しうると思った。つまり心から万物を愛し、万物と一体の感じが、私の人格となって現われてきたのである。昔親鸞上人は、同じ求道のための自分の弟子達のことを呼ぶのに、御同輩御同行という言葉を以ってしたが、今の私の心情からすれば、同じ志の人間ばかりか、そこらの草木雑草さえも、皆等しく宇宙大生命の作用によって生じ、その摂理のもとに日々の営みを続けている意味において、御同輩御同行であると思われた。私はこうして悟りの一端に触れたのである。・・・<万物は生命の流れである>――(断食六日目の朝)窓をはね上げて東天を見た時の私の心境は、昨日までの心境とは全く違っていた。昨日までの私はそこらの山川草木を見る時、それを大体物質的存在と見ていた。が、今見る山川草木の姿は悉くこれ大生命という一より出でて、多に分かれている生命そのものであり、この現象界そのものも、大きな一連の生命の流れであると感じ、そうして私自身も、その大きな流れに連らなる存在の一つであることを感じた。それゆえ「われと大地有情と同時に成道す」とは、釈迦が悟りを開いてみたならば、自分ばかりか一切の人間、一切の存在は、皆そのまま成仏成道の境涯であるという、大生命の真姿、宇宙の實相を知ったと云う事である。>>(橋本徹馬著「霊感と奇蹟の話」P.35〜41)
ニ、 黒住教開祖・黒住宗忠師の大悟徹底
<< それは今を去る141年前(昭和31年基準)、彼のスティーブンソンが始めて蒸気機関車を走らせた年、正確にいえば、文化11年の庚戌の旧暦11月11日の冬至一陽来復の朝のことであった。宗忠は、早起きして浄衣を着し、含漱潔斎して、心も清々しく日輪を礼拝したのである。未明に起きいでた宗忠は、操山の南端のあたりをさしのぼる真紅の大日輪を拝して、常にもまさる感動に打たれた。紫雲の厚い襖の底から、ゆらゆらと揺れのぼる太陽ほど、この世にありて、崇高なものはあるまい。それは彼にとりては、単なる自然の一情景ではなかった。それはこの世に於ける奇蹟の中の最高の奇蹟というべきものである。「ありがとうござります!」と、宗忠は思わず叫んだのである。次の瞬間、彼は無意識のうちに、アッパと口をあいた。すると、団々たる紅輪は、無限の天空を一気に馳せ来って、彼の胸中にとびこんで来たのである。彼は思わずハッとして眼をとじた刹那、彼の全身は、大光耀の中に完全に融合した。それは、時間にすれば、一秒か二秒にすぎなかったかも知れない。しかし、彼は、その短い時間の中に、『永遠の自己』、『本来の自己』に面接したのであった。『永遠の自己』それはまさしく、真の大父母であった。真の大父母には、生まれることもなく死ぬこともなく、いわゆる喜びもなければ悲しみもなかった。それはただ、限りなき豊富であり、充実であって、自他の区別はなく、善悪の差別もなかった。それは相対的な認識の世界ではなかった。認識できるものは、みな有限のものにすぎなかった。言葉にすることも筆にすることもできないものに、彼が吸収された。かくいうても、もとより画餅にすぎない。宗忠自身の口を以ってしても元より表現出来ることではない。高弟・星島良平は、これを、「天地生々の霊機を自得し給えり」(御小伝)といっている。比較的真に近い表現であろうが、霊機とは、普通の語句にない。霊とは眼に見えない神秘の気であり、機とは「はたらき」と読む。星島氏は、この一行に振仮名して、「天地生々の霊機(いきもの)を自得(つかまえ)し給えり」という。天地宇宙を生々発動せしめている所の目に見えない活物に感じて、これを自らのものとなし得たとするのである。>>(「真人宗忠」延原大川著P.31−34)
** マサノブ君の「自然と人間は本来一体である」、「自然即我・我即自然」の解説は、唯物論的分析知によるものであるから読者に霊的感銘を与えることが出来ないのである。たとえ、彼自身に宗教的霊的直接体験がなくとも、偉大なる先達諸師の悟道の直接体験によって解説するのが宗教家と称するものの踏むべき道である。間違っても未だ悟りの境に達せぬ人間知による霊的レベルの低い、唯物論的分析解説などは為すべきではないのである。
B マサノブ君は、<神は天地創造を6日間で行われ、その最終日にすべての創造物を見て、神御自身が「はなはだ良かった」と宣言されたのが大自然なのだから、私たちも自然を愛し、尊重し、その実相をもっと凝視しなければ申し訳が立たないのである。>と解説しているのであるが、これは、『御教え』に反する彼の個人的な間違った解釈である。マサノブ君は、<神の天地創造は6日間で完了した>と解釈し、無理矢理“自然”保護に結びつけて行くところに違和感を感ずるのである。<神の天地創造は6日間で完了した>などと文字通りの浅はかな解釈はすべきではない。『生命の實相』第11巻P.49〜53によれば、――
<< 神は第一章にありますように霊を材料とし、言葉を創造力としてそのすべてのものを造り給うたのでありまして、その創造は第七日に完成したのであります。「七日」というのはわれわれの暦日(こよみ)の七日のことではありません。「七つ」とはこれを「言霊学」(ことだまがく)で解しますと、「成々続」(ななつ)であって<成り成り続く>ということ、すなわち「無始無終を包容したすべて」のことであります。・・・「七つ」はすなわち、成り成り続くという意味でありますから、永遠に創造の聖業(みわざ)は成り成り続いているという意味であります。・・・七日にして天地およびいっさいのものの創造がことごとく終ったということは、神の天地創造の大音楽が永遠につづくということである・・・七日に安息(やす)むということは決して、創造の神業が終ったときに、「ァ疲れた!やれやれ」と思って休むと云う事ではない・・・天地創造の大音楽は、その一音符から次の音符にいたる間の旋律(リズム)の変化に、いうにいわれぬ平和と安息と調和とがある。創造の大音楽の七日(注・永遠)を通じて、それは神聖なもの、汚れ(気枯れ)すなわち「生命の消耗」のないもの、休息なき生命の営みのうちに、いうにいわれぬ安息がともなっているのが本来われわれの生命の實相(ほんとのすがた)なのであります。>>
** 「生命の實相」を人類に宣布する事こそが宗教の担当分野である。所謂、生命的霊的生活価値観の伝道である。これを為さずして、行政と同じ唯物的対策による自然保護運動をしているのがマサノブ君である。彼は何としてでも「脱・宗教」、「脱・信仰」を目指したいのである。 以上の如くマサノブ君の解説は本来の『御教え』に従った解説をしていない。だから、違和感を感じ、我々の魂に響いてくるものがないのである。どう考えてもマサノブ君は『御教え』の継承者ではない。「生長の家」の看板を掲げる資格も資質もないのである。
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