生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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生長の家「今昔物語」・霊界篇の再掲示 <第七話> (269)
日時:2013年03月02日 (土) 10時51分
名前:信徒連合





生長の家「今昔物語」第五篇 霊界篇




第七話(通算第249話)地上に生きている人間の構造について(その三)



幽体の役目について

(『到彼岸の神示“神示講義・自覚の巻”』P.192−193)



<<幽体というのは、それは「想念感情の媒体」になっているところの体でありまして、感覚や知覚よりも一層複雑な「想念感情」の媒体であります。「想念」とは心に想う事であります。これは知性的なものであります。「感情」とは悲しい、口惜しい、残念だ、嬉しい、楽しい、なんていうようなのが、感情であります。腹が立つなんていうのも感情ですけど、それの「媒体」となり、それの「座」となり、「レコード」にもなって、それが其処に印象され、蓄積される「場」であります。色々の記憶などもこの「幽体」にちゃんと記憶されるのでありまして録音機のテープみたいなものであります。>>



五蘊(ごうん)の心霊学的解釈(P.199−200)

<<仏教で言いますと、『般若心経』にあるところの『五蘊』すなわち、色受想行識のうち、「色」というのは物質であります。「受」というのは「受けて感ずる」機関であって、それが「エーテル体」であります。何だか向こうから光が当って明るいとか、或いはゴツンとなぐられて痛いと感ずるとか、みんな「受けて感ずる」のであります。併し、受けて感じただけでは、それが何物かわからない。そのピカッと光った光を、「ああ、あれは太陽の光だな」とか、ゴツンと当ったのは、「ああ、これは棒があたったんだな」とか「何某がなぐりやがったのだ。腹が立つ」などと判断して思うのが“想”なのであります。

幽体はこの想念の「媒体」であり「座」でありまして、想ったり腹が立ったりするだけで、それを貯めていると膨れるのであります。「もの言わぬは腹ふくるる業なり」と兼好法師が『徒然草』に書いているように、想念感情を表現する事が出来ない場合は、幽体がふくれるのであります。心に想う姿の通りの形に幽体というものは直ぐ姿が変わるのであります。

エーテル体は物質の液体のようにはドッシリした重い波動の体じゃなくて、非常に軽い波動の体なのであります。だから「想い」を象徴したような象(かたち)に直ぐ変わり易いのです。肉体は「物質」という重い波動の体でありますから、今腹が立ったからとて、それをじっと押さえていると、直ぐそれが肉体に一遍にふくれて出はしないですけれども、併し、幽体の方は「軽い波動の体ですから」直ぐふくれるのであります。

例えば高慢の心を起こして天狗の心になりますと、直ぐズーと幽体の鼻が伸びて天狗の鼻のようになる。本当に幽体の鼻が高くなるのです。「あいつは天狗になっている」と高慢な人を評するのも、古人の霊眼のすぐれた人が、その人の幽体の鼻が高くなっている事を見て、そう言ったのだと思います。

或いは嫉妬心を起こしたのを見て、「角をはやす」と言いますが、あれはどういう訳で嫉妬心を起こす事を「角を生(は)やす」などと言い出したのかというと、それは決してでたらめじゃないのであって、霊眼で見ると、嫉妬心を起こすと幽体に角が出るのです。それで古来、女には「八本の角がある」と言いまして、お嫁に行く儀式の時には「角隠し」というものを用います。それは、どうも女というのは、嫉妬心が強い、それで霊眼で見ると、角をはやしているように見える事が度々ある。だからそれを隠して、「今後結婚した上は決して角を生やしません」という誓いを立てることを儀式にあらわすという事になっているのであります。

実際私は角の生えた心霊写真を見た事があります。心霊写真というのは、こんなことを申しますと迷信のように思う人があるかもしれませんが、決して迷信ではありません。科学にもいろいろありまして、物質科学に対して心霊科学があるのであります。霊魂の写真を撮ってみたりして研究するのは、心霊科学に入る訳です。>>



幽体と潜在意識との関係(P.215−216)

<<・・・我々の感情の媒体である所の幽体は、感情がふくれますと、ふくれますし、<いらいら>があると、<いらいら>したような炎症を起こしたような形になるのであります。それは一例でありまして、その人の感情の動きは千差万別で、いろいろの姿がありますが、直ぐその感情を転じないと、その幽体になった通りの形に、やがて肉体がその通りになる訳であります。

 さて、その悲しいとか口惜しいとか、腹立ちとかいう思いを起こしますと、必ずしも全部、それが具象化して形にあらわれる訳ではありません。懐中電灯の乾電池のエネルギーが全部「光」になってしまうわけではなくて、その中に蓄電されているように、私達の起こした想念感情のエネルギーは蓄音機のレコードに刻みつけられたように蓄積されて残っているのであります。これが仏教でいわゆる「業(ごう)」であります。

それではその業のレコードの蓄積されているところは何処であるかというと、その「場」を「体」としてみるとそれは「幽体」であります。その蓄積の「場」を心理学的に言いますと、「潜在意識」という事になる訳であります。

心霊学では、その「場」を具体的に「幽体」として認め、心理学では、その「場」を抽象的に「潜在意識」として認めたのであります。潜在意識の中に悲しみとか、苦しみとかいうものが蓄積されているのであります。

「意識」というと抽象的になってしまいます。では意識はどこにあるか、潜在意識の「座」は何者かということになると、それがすなわち「幽体」であって、幽体を「座」として潜在意識があり、その潜在意識に業(ごう)が記憶として蓄積されていると云う事になっているのであります。>>



人間は現実界と霊界とに二重に生活する(P.205−206)

<<・・・我々が住んでいるのは現実界に住んでいると同時に、そこの同じ領域(スペース)に重複してダブッてあるところの霊界にすんでいるのであります。我々自身の体が、霊界に属する霊と、物質界に属する肉体とがダブッているのですから、我々の霊(たましい)は、霊(たましい)の世界に住んでおり、肉体は物質の世界――この空気の世界に住んでおり、二重の生活をしているのであります。

我々の魂は「霊の世界」に住んでおりながら、霊の世界の知事さんや市長さんのことは知らない人がおおいのであります。肉眼で見える方の県知事だとか市長だとか区長とかは知っておって、その費用として、税金まで払っているのですけれども「霊の世界」の区長さんの方へは挨拶にも行かんひとが多いのですが、霊界の区長さんとか町長さんの位にあたるのが、産土(うぶすな)の神さまという事になるのであります。

現実界では引っ越してきたら、転入届けとか移転届けとかいうのを出す。現実界ではそういう習慣(ならい)があるのに、霊界のほうでは、その区長さんに何の挨拶も届けも出さないのは、礼儀に反する訳であります。・・・>>

(注)守護神や産土神(産土の神)については『神ひとに語り給う――神示講義<教の巻>』の「万教帰一の神示」も参照して下さい。但し、三代目・雅宣総裁はこの本を絶版処分とされました。理由は内容が現代には不適切と言う事のようであります。しかし、この理由は全く理解できません。




<注・コメント>

同書P.206には、<<・・・西洋の心霊研究はもっと科学的だから西洋の霊媒による心霊研究をしようと言う事になりました。西洋ではこれをスピリチュアリズムと云っているのであります。・・・外国の無数の心霊現象に関する著書などを集めました。私はその当時、浅野(和三郎)さんを中心に共同研究をしておりましたので、その時たくさん集まった西洋の心霊研究書を読んだのであります・・・当時のそういう方面の実地における霊媒の研究と、それから霊魂研究に関する無数の外国図書を読んだのが私の心霊方面に於ける知識の土台になっているのであります。>>と書かれております。

開祖・谷口雅春先生はこの様な土台の上に更に、他の心霊研究者の誰もが到達されなかった最高の宗教的悟道に達せられて私たちに「霊と霊界」について“迷信的・非科学的”な要素・部分を捨象されて、現代の知識社会に合致するように極めて論理的に説かれているのであります。

私達は、目には見えない霊界と目に見える三次元現実界の二つの複合した世界の中で毎日生活して居るわけですから、この世での病・悩・苦を解決し、物心両面にわたる幸福な生活を送る為にも、科学的かつ論理的な「霊と霊界」に関する知識を持って生活する必要が有り、学校教育においても一つの教科として扱われねばならないと思うのであります。

現段階では難しいのであれば、家庭内教育として生活と密着して開祖・谷口雅春先生の説かれる「霊と霊界」のことを学んで身につけ実践して行かなければと思うのであります。






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