生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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「脱・宗教」、「脱・信仰」へ誘導するマサノブ君、――2・6「枯れ松模様」=大自然讃歌の解説B=を講評する! (3160) |
- 日時:2014年02月11日 (火) 13時59分
名前:怒れる信徒代表
2月 6日 『大自然讃歌』解説 (3) <要旨>
「自然と人間の大調和を観ずる祈り」の第3段落目は、次の言葉で始まる−−「その実相を見ず、“個”が実在であり、世界の中心であると見るのは迷妄である、“個人の損得”を中心にすえるとき、人間は自然との大調和を見失うのである。」ここにある「その実相」とは、「すべての存在が渾然と調和し、支え合っている」という世界の姿を指す。・・・肉体が未発達の段階にある人が、「“個”が実在であり、世界の中心であると見る」のはやむをえない。が、成人した人間がこれと同じ価値観をもって生きようとするならば、その人はあらゆる場面で、他の人や社会とぶつかり合うことになる。こういう人物は「エゴイスト」とか「自己中心的」と呼ばれ、人から避けられ、さらには嫌われ、まともな恋愛もできないだろう。だから、その人物が「社会との調和」を失うことは容易に想像できる。しかし、この祈りは、それを言うのではなく「自然との大調和を見失う」と言っている。これははぜか? その理由は、エゴイストが社会との調和を失うことは自明でも、その人が自然界と衝突するということは、それほど自明でないからだ。前者はここで強調しておかなくても、後者についてはきちんと言おうとしているのだ。・・・『創世記』の“楽園追放”の物語の中にきちんと書かれているのである。ここに描かれているのは、どういうことだろうか? 私は、これらは結局、「人間は自然の中で苦しみながら生き、そして死ぬ」ということだと思う。農産物を作ろうとしても雑草が生い茂る。一切れのパンを得るにも、厳しい労働が必要である。そうして生き存えてきた肉体も、ついには失い無に帰するのである。これを言い換えれば、人間が「自然との大調和を見失う」ということではないか。では、イブとアダムは禁忌を冒してまで、何を求めたのか? それは、「神のように善悪を知る者」になりたいと思ったからだ。また、神からその理由を質されても、このことを正直に答えず、「ヘビが悪い」とか「女が悪い」と言って、責任を回避しようとしたからだ。このような無責任さと弁解の仕方は、エゴイストに特徴的なものではないか。このように、アダムとイブが“楽園”から追放された理由をここでまとめると、次の2つになる−−@神のように善悪を知りたいと思った、A責任を回避しようとした。このうちAは比較的わかりやすいが、@は深い意味を含んでいて、正しい理解が必要だ。・・・人間は一般に肉体的本能とは別に「理性」というものをもち、その理性が善悪を判断することで本能を制御することが求められているからだ。そしてこの理性は、神から人間に与えられた“賜”だと考えられてきた。ところが、人間は判断に際し、この理性が必ずしも常には働かない。その結果、人間の行為には「善」も「悪」も生じることになる。だから、人間が常に善悪の判断を過たずに下して生きていけば、神のような完璧な生を送れるに違いない−−こういう考え方である。これに対して、「善悪を知る木」とは、実は「神の創造世界には善もあれば悪もある」という考え方そのものを象徴しているとする解釈がある。これが『生命の實相』で説かれている谷口雅春先生の解釈であり、生長の家の解釈だ。これによると、「神のように善悪を知りたい」と願うこと自体が、「神の創造世界には善悪いずれも存在する」という前提にもとづくという点に注目する。これを言い換えれば、人間を含め、大自然には善も悪もあるということだ。同じことを「個人」の立場に引き寄せて表現すれば、人間は生老病死を経験し、悩み苦しむ肉体的存在だということである。このように自分は不完全で欠陥だらけだという「迷い」が多くの人間にあるために、何かの知識や技術を獲得して自分を補う必要があると考え、外から「善悪を知る木の実」を食べたいなどの欲求が起こってくる、と生長の家では考える−−今日のような資源・エネルギーの消費と技術社会発展の根源に、この2つの人間の「迷い」があると私は考えるのである。1つは、大自然そのものが善悪混交の不完全な状態であるとする見方であり、さらに2つ目は、我々人間自身も肉体的存在であるから不完全であり、外から何かを付け加えることによってのみ幸福になるという人間観・幸福観である−−このような大前提のもとに、数多くの人々は自然改変と、資源・エネルギーの浪費、物質的繁栄の拡大に突き進んでいるのではないか。そのことを、祈りの言葉は次のように表現している−−「自然界に不足を見出し、自然界を障害と見なし、自然界を自己の支配下に置こうとして、自然界の機構を自己目的に改変し利用することは、愚かなことである。自然の一部を敵視して破壊することは、恥ずべきことである。それによって人間は自然との一体感を失い、自然治癒力を含めた自然の恩恵を自ら減衰させ、 生き甲斐さえも失うのである。」谷口雅宣
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< 講評 >
@ マサノブ君の今回の「大自然讃歌」解説(3)は非常に長文であるがその要旨は上記の如きものである。先ず、注目すべきは、彼は今回の解説と称する文章の中で、「これが雅春先生の解釈であり、生長の家の解釈である」、「と、生長の家では考える」と書いていることである。正しくは、「マサノブ君の個人的解釈」、「マサノブ教ではこう解釈するのである」と言う言い方が正しいのである。
A 具体的に指摘すれば、<「善悪を知る木」とは、実は「神の創造世界には善もあれば悪もある」という考え方そのものを象徴しているとする解釈がある。これが『生命の實相』で説かれている谷口雅春先生の解釈であり、生長の家の解釈だ。>の部分である。マサノブ君は<「神のように善悪を知りたい」と願うこと自体が、「神の創造世界には善悪いずれも存在する」という前提にもとづくという>説を唱える誰か他の聖書学者の説に共鳴して<「神の創造世界には善もあれば悪もある」>とマサノブ君は言うのである。このマサノブ君の個人的解釈を<谷口雅春先生の解釈であり、生長の家の解釈だ>としている。このマサノブ君の解釈は本来の開祖・谷口雅春先生の『御教え』から観れば完全に間違っているのである。
B 開祖・谷口雅春先生の『御教え』によれば、「神の創造世界は善のみ」であり、「實相世界とは、一切皆善の世界」である。『生命の實相』第11巻の「創世記」解釈に於いて、<< すべての創造は「大生命」すなわち宇宙の唯一根元神から放射される霊的観念によって造られる。したがってこれは善なることのほかはできないものであります。悪なる存在があるように見えるならばそれは本当の実在ではない。存在するものらしく見えるものにも、本物と偽せ物とがある。この本物と偽せ物とがあるということを「夕あり、朝ありき」と象徴的に書いてあるのであります。>>(P.10)と書かれているのである。この部分をマサノブ君は無視しているのである。
C さらに、<< 「生長の家」では、神を「ただ信ぜよ」とはいわない、實相覚(本当の真理を知る智慧)によって神と神の真創造とを区別せよ、無暗なものを信じてはならぬ、本当のもの、永遠のもの、実在のものを、よく偽創造(ニセモノ)から識別(みわ)けて、その本当のものを知れ、その本当のものを知ることが、真の信仰である。本当のものを知らない信仰は迷信である。迷信は禍いを招くが、真の信仰は幸福を招くほかに成りようのないものであるというのであります。なぜなら真の信仰は、愛の神ならびに愛の神が真に創造(つく)り給いて、「はなはだ善し」と認め給いし完全な世界のみを実在と認める信仰であるからであります。>>(P.63)と『生命の實相』には書かれているのでありますが、マサノブ君は無視するのであります。
D 「善悪を知る木」について開祖・谷口雅春先生はどのように書かれているか、――
『生命の實相』第11巻P.63に於いて、<<さて、この一節には「生命の樹」と「善悪を知る知恵の樹」とが対立させてあります。前者は真理の啓示のみを受ける樹であって、「生長の家」の所説のような「真存在はすべて神によって造られたものであるから生命であり完全である」とする真智慧を象徴化してあるのであります。後者は「これは悪い、これは善い」と人間知にとらわれてかれこれ分析し、したがって「悪も存在し、不完全も存在する。したがって、病気も不幸も実在する」と信ずる物質的知恵を象徴化したのであります。神は愛であり真の智慧でありますから、それを食べたら、罪人になってエデンの楽園から人間が追放されねばならぬような「善悪を知る知恵の樹」を造り給うはずはないのでありますから、そんな樹が実際あるのではない、この樹をもって無明(迷い)を象徴せしめ、真知(生命の樹)に対立させたのであります。>>と書かれているのである。
E 以上の如く、マサノブ君は開祖・谷口雅春先生の『御教え』よりも他の未だ真実の悟りの智慧に達していない人間知(理屈の世界)による聖書学者の考えを上位に置いて論じているのである。もっとハッキリ言えば、マサノブ君は「唯神實相哲学」を懐疑的にしか理解できないので、唯物論的解釈の方へ傾いていっているのである。ということは、彼が「これが生長の家の解釈である」と云っていることはマチガイであり、「マサノブ教の解釈である」というべきものである。
F その他、今回のマサノブ君の見解で後、問題になる事はといえば、――
イ、 <「その実相」とは、「すべての存在が渾然と調和し、支え合っている」という世界の姿>と書いているが、自分の意に沿わぬ御兄弟の人たちを追放した事実を如何に説明するのか?
ロ、 <肉体が未発達の段階にある人が、「“個”が実在であり、世界の中心であると見る」のはやむをえない。が、成人した人間がこれと同じ価値観をもって生きようとするならば、その人はあらゆる場面で、他の人や社会とぶつかり合うことになる。>と書いているが、マサノブ君事態が、<現象の“個”が実在であり、世界の中心である>と見る典型的人物であり、<精神的に未成熟な成人した人間がこれと同じ価値観をもって生きようとするならば、その人はあらゆる場面で、他の人や社会とぶつかり合うことになる。>これもまた、マサノブ君事態ではないのか?
ハ、 マサノブ君は、人間は<自然との大調和を見失って>いると力説するが、彼は、「自然よりも身近で大切な御兄弟との調和>を失っているではないのか? こんな人間に<自然との大調和>を力説する資格があるのか? 彼の言う<このような無責任さと弁解の仕方は、エゴイストに特徴的なもの>、――この第一人者はマサノブ君そのもの者である。
ニ、 < 数多くの人々は自然改変と、資源・エネルギーの浪費、物質的繁栄の拡大に突き進んでいるのではないか。>と、マサノブ君は説教するが、彼の造った「森のオフイス」とマサノブ流の「自然との共生」は、自然改変と、資源・エネルギーの浪費、物質的繁栄の拡大に突き進んでいる近代工業社会の生産物に依存して成り立っているではないのか?マサノブ君!この矛盾をいかに説明するつもりなのか?
ホ、 <自然界を障害と見なし、自然界を自己の支配下に置こうとして、自然界の機構を自己目的に改変し利用することは、愚かなことである。自然の一部を敵視して破壊することは、恥ずべきことである。それによって人間は自然との一体感を失い、自然治癒力を含めた自然の恩恵を自ら減衰させ、 生き甲斐さえも失うのである。> この一文も、マサノブ君にそのまま当てはまるのである。すなわち、「開祖・谷口雅春先生の本来の『御教え』を障害と見なし、「生長の家」教団を自己の支配下に置こうとして、「生長の家」教団の機構を自己目的に改変し利用することは、愚かなことである。本来の『御教え』を敵視して破壊することは、恥ずべきことである。それによってマサノブ君は信徒との一体感を失い、開祖・谷口雅春先生と先達信徒のみなさんの物心両面の遺産を自ら減衰させ、純朴にして『御教え』に従順な信徒のみなさんの生き甲斐さえも奪っているのである。」
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