生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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復習: 聖経『甘露の法雨』の奇蹟 D (274)
日時:2013年03月02日 (土) 14時41分
名前:ハスの華




合掌、ありがとうございます。

< 小は個人の病を癒し、大は国家の病を癒す > といわれて数えきれないほどの奇蹟が生じた天来の聖経『甘露の法雨』も、今や三代目の雅宣総裁は捨て去り、自分の頭で考え出した人間罪の子意識による「大自然讃歌」・「観世音菩薩讃歌」に置き換えようとことを進めております。果たして雅宣総裁の新・聖経?は『甘露の法雨』を凌ぐ奇蹟を生じさせるでしょうか? この際、これまで生じてきた『甘露の法雨』の奇蹟の数々を復習する事は大変意義のあるところであり、ニュー信徒さんにも認識を新たにして頂きたいと思います。

なお、『甘露の法雨』がどうしても手に入らない方々は、(株)光明思想社 TEL: 03−5829−6581 へ申し込めば手に入ります。また、末端の誌友会では、まだまだ『甘露の法雨』による地方講師の指導が依然として自信を持って行われておりますので、奇跡的な結果も指導を受けた信徒さんの身の上には起っていることも沢山あります。其の際には、間違っても「大自然讃歌」・「観世音菩薩讃歌」による奇蹟だとすりかえられないようにご注意願います。



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 聖経『甘露の法雨』の奇蹟 D



“原子の火”も焼く能はざる聖経の奇蹟(その一)

 『生長の家』四十年史(p.45−47)



<<「生命の実相を悟る者は火に焼けず、水に溺れず」と言う事に連関して、『甘露の法雨』の聖経が、「第三の火」と言われる“原子の火”(原子爆弾)に対して如何に対抗する事ができたかを書いて置く事は『生長の家四十年史』上に是非看のがしてはならないことだと思うのである。

 それは昭和二十年八月九日、アメリカ空軍機B29が長崎を「原子の火」をもって攻撃した時のことであった。B29機は長崎市の中央にあらわれて、そこに落下傘にぶらさげた原子爆弾(それは後に明らかにされた所によると、広島を襲った原子爆弾よりも二倍の爆発力をもったプルトニューム爆弾であった)を投下すると、そのまま西の空に消え去ったのであった。

 丁度その時、長崎の東端にある町、浦上にある有名なカトリック教会では、その信者の九十パーセントの人々が集まって熱心な祈りを捧げていたのである。それはカトリックのことであるから「主イエス・キリストの受け給いし苦しみを我にも受けせしめ給いて、自分たちを代贖者としてこの戦争を終結せしめ給へ」というような意味の敬虔な祈りであったと思われる。

そのとき落下傘によって空中に浮かんでいた原子爆弾は恰もその祈りに応えるかの如く、風に吹かれて、その熱禱を捧げている最中の、教会の真上まで来ると、ピカドンと爆発したのであった。そしてその熱禱を捧げている最も敬虔なキリスト信者たちは一瞬のうちに霊界に移行したのである。


 その教会の隣に、長崎医大及びその付属病院があった。病院勤務の臨床を担任している博士たちは一瞬のうち全部息の根が絶えた。病院全部を暖房するための煙突は“く”の字にひんまがり、付近の山王神社の御影石の鳥居はその一方の柱が無残にもへし折れて飛んだ。

 それは八月の事であったから大学は休暇であったから学生には被害がなかったが、学科を担任している教授たちは、頻々として長崎を襲ってくる空襲のために、もしか大学校舎に爆弾が命中して火を発したら、防火に従事する必要のために出勤して、泊り込んで当直する事になっていたのであった。当直に当たっていた教授は皆無慚な死をとげた。

その日出勤していなかった教授だけが救かったのである。精神科の科長をしていられた高瀬清博士は(その夫人が長崎の生長の家白鳩会長であった)・・・その休暇を無駄に過ごさないで有益に利用しょうと思って八月一日から七日までの一週間、歯科医を集めて精神医学の講座を開いて、毎日数時間の連続講義をすることにせられたのであった。

 一週間連続の講座が終わると、教授の一人が、高瀬博士に「先生は御老体でもあるのに一週間も連続の御講義では、お疲れでしょうから、三日間位は公休をお貰いになって自宅で静養して下さい」と勧めるものであるから、八月八日、九日、十日と三日間、長崎市から汽車で一時間半の距離にある疎開先の自宅に帰って休養しておられたのであった。そのために八月九日に長崎市を襲った原爆から自然に身をかわして無事なるを得たのであった。

 当時の生長の家幹部の人たちは、あの原爆の当日、あの時間に、不思議にも何かの用向きで長崎市にいないで、原爆とスレ違って救かっているのである。どんな災害も、心がそれに波長があわねば近づくことが出来ないと言う真理の実証と見ることが出来るのである。>>






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