生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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復習: 聖経『甘露の法雨』の奇蹟 E (285)
日時:2013年03月03日 (日) 09時24分
名前:ハスの華




合掌、ありがとうございます。

< 小は個人の病を癒し、大は国家の病を癒す > といわれて数えきれないほどの奇蹟が生じた天来の聖経『甘露の法雨』も、今や三代目の雅宣総裁は捨て去り、自分の頭で考え出した人間罪の子意識による「大自然讃歌」・「観世音菩薩讃歌」に置き換えようとことを進めております。果たして雅宣総裁の新・聖経?は『甘露の法雨』を凌ぐ奇蹟を生じさせるでしょうか? この際、これまで生じてきた『甘露の法雨』の奇蹟の数々を復習する事は大変意義のあるところであり、ニュー信徒さんにも認識を新たにして頂きたいと思います。

なお、『甘露の法雨』がどうしても手に入らない方々は、(株)光明思想社 TEL: 03−5829−6581 へ申し込めば手に入ります。また、末端の誌友会では、まだまだ『甘露の法雨』による地方講師の指導が依然として自信を持って行われておりますので、奇跡的な結果も指導を受けた信徒さんの身の上には起っていることも沢山あります。其の際には、間違っても「大自然讃歌」・「観世音菩薩讃歌」による奇蹟だとすりかえられないようにご注意願います。



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 聖経『甘露の法雨』の奇蹟 E



“原子の火”も焼く能はざる聖経の奇蹟(そのニ)
         
『生長の家』四十年史(p.47−48)



<< ところが、まだ生長の家の幹部役員ではなかったが、熱心な生長の家信者で、毎日、祖先霊に供養のために聖経『甘露の法雨』を怠らず誦している天辰静雄さんという誌友があった。

この人は、原爆をB29が携えて空を飛んで来たとき、空襲のサイレンを聞いたので防空壕の中に身をひそめていたのであるが、日本の軍は原子爆弾の事は知らないので、襲って来たB29が東の空に姿を消し去ると、空襲は終わったものと見て「空襲解除」のサイレンを鳴らした。

 そのサイレンを聞いた天辰静雄さんは防空壕の外に出て「敵機はどこへ往っただろう?」と思いながら上空に眼をやると、落下傘にぶらさがって何か黒いものがフラフラしているのである。

「てっきり、あれは、敵の飛行機が日本の高射砲でやられたので、その飛行士が落下傘で逃げて降りるんだろう」と思って見ていると、そのぶらさがっている物は、敵の飛行士ではなくて原子爆弾であったのである。それは至近の距離で(四百メートルとも八百メートルともいう)突如ピカドンと爆発した。その一瞬、天辰さんは気を失って倒れた。


それから何時間経ったかよく分からないが、氏は眼を覚ましたのであった。意識を恢復して顔をさすり、全身を眺めてみるけれども、何処にもかすり傷も火傷もない。その付近には、黒焦げの屍体が五つ六つ転がっていた。

 当時、近い距離で原子爆発の洗礼を受けた「黒い物体」はみな火を発して燃えたので、全市が殆ど火事になったのも、そのためだそうだが、それは、天辰静雄氏同様に、爆発のショックで意識を失ったまま、黒い衣服を着ていた通行人が火を発して焼けて黒焦げの死体となっていたのであった。

 しかし、天辰氏自身はどんな被害も受けていなかった。彼が意識を恢復した時、聖経『甘露の法雨』の中身の経文の部分の紙がひらいて、氏の胸の上に斜めに、覆うようにかぶさっていたという。まったく氏が、そのような至近の距離で、裸の顔を上空に向けて原子爆弾を眺めながら、その爆発の直撃を受けながら、聖経が胸を覆うていたために何の被害も受けなかったのは、観世音菩薩(住吉大神)の降ろしたまえる『甘露の法雨』に護られていた功徳だというほかはないのである。


 その翌年、長崎市に講習があった際、天辰静雄さんは、私にお礼を言いたいと言って、帰りの汽車に私に同乗して来られて、その時の実情を詳しく話されたのであった。右に書いたのは、そのとき天辰氏自身から聞いた実話であるのである。

その時、私は、「そのあなたの胸に懸かっていた『甘露の法雨』は何処から来たのですか」と訊いた。すると、天辰さんは、「それは私の家の聖経です。私は毎夜、お仏壇の前で『甘露の法雨』を誦んで祖先を礼拝することにしているのです。その前の晩わたしは、誦み終わると、聖経をサックに入れないで、どうせまた披いて読むんだからと、ふと思ってサックの上に聖経の折本を重ねて置いたのでした。すると、それが原爆の爆風でわたしの胸の上に飛んで来てわたしを覆ってくれたのでした。」

 もし天辰さんが、先祖供養を怠って『甘露の法雨』を毎夜読まないでいたとしたら、氏の運命はどうなっていたか分からないのである。

天辰さんはその後、十五年間以上も健康で生きておられた。何でも愛知県の方に移転して来ておられたが、亡くなる時も原子関係の病気ではなかった。原子の“第三の火”も聖経に宿るところの“真理”につながる人々を傷つける事は出来ないのである。>>






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