生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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3・1 マサノブ君は<「生長の家」の運動は変化したが、「教え」は変化していない>というが、「教え」自体も“唯神實相論”から“左翼唯物論”へと逆転しているのであります。ゆめゆめ騙されることなかれ!! <第一回>・<第二回>・<第三回> (3357) |
- 日時:2014年03月03日 (月) 13時54分
名前:画龍点睛
合掌、ありがとうございます。 マサノブ君は、3月1日の「立教85年記念式典」に於いて、「生長の家」の運動は変化したが、「教え」は変化していない、と堂々と言ってのけたのでありますが、これは開祖・谷口雅春先生の『御教え』に余り詳しくはない信徒さんを騙すための彼独特の言い回しに過ぎないのであります。
このまま見過ごしたままにして置きますと、マサノブ君の“説”がそのまま本来の「生長の家」の教えであると信じてしまう信徒さんも大勢いらっしゃいますので、どうしても「マサノブ教」は本来の『御教え』に非ずという事を申し上げておかなければならないと思った次第でございます。そこで、浅学菲才を顧みず、マサノブ君の誤りを正すために私の理解しているところを申し述べさせて頂きます。彼、マサノブ君は次のように語っているのであります。
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「唐松(枯れ松)模様」3月 1日 (土) = 真理宣布に自信をもって邁進しよう = (抜粋)
<<・・・このように、私たちの運動の仕方は変化しつつありますが、これは「教え」が変化しているのではないということを、私はずっと以前からいろいろな所で申し上げているところです。物事には、容れ物と中身があるのと同じように、宗教の教えにも形式と内容があります。それは、コメを食べるにもいろいろの方法があるのと同じです。日本ではそのままご飯として茶碗に入れて食べる。それも白飯で食べる時もあれば、玄米で食べたり、お茶漬けにしたり、おかゆにしたりします。また、寿司で食べたり、丼にしたり、お握りにしたりします。どれもコメを食べていることに変わりありません。ただ、食事をする時の状況に合わせて外観や容器を変えるのです。容器や形式は違っても、提供されるものは同じです。海外ではこれがさらに変化して、ドリアやピラフにしたり。パエリヤに使われたりします。宗教の外面的違いに左右されてはいけません。これは、私たち人間に「肉体」と「心」があるのと同じで、肉体的違いで人間を差別してはいけないのと同じです。このことは実に明白な事実なのですが、なぜかよく理解できずに、私たちの運動を批判する人がいるのは残念なことです。・・・>>
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[T] マサノブ君は、「人間神の子」から「人間罪の子」へ「教え」の根本を逆転させた。
@ マサノブ君の絶えず使う言葉に「人間至上主義」と言う言葉があります。マサノブ君の「人間至上主義」と言う言葉の意味は、人間とは自己の物質的幸福(満足)達成のために地球上の有情非情の存在のすべてを破壊して利用する生き物(地球自然界の一部)である。宗教的に言えば「罪深き存在」=「人間罪の子」である、と云うことであります。彼、マサノブ君のこの説明(マサノブ教の教義)は、「實相論」ではなく「現象論」であり、更に正確に表現すれば「唯物現象論」であります。
開祖・谷口雅春先生の本来の『御教え』は、「實相論」であります。すなわち、「人間神の子」である、正確に言えば「人間は神の最高の自己実現である」というのが開祖・谷口雅春先生の『御教え』であります。では、何故に完全円満にして善そのものなる「神の子人間」が、マサノブ君のいうような地球の自然を利己目的のために破壊して物質的満足を求める行動に走ってきたかと言えば、人間の幸福は所有する物質の量によって決まると言う錯覚(真理を知らざる迷妄)に陥ったからであります。真理を知らざるこの迷妄から、人間は地球上の全てのものを物質的幸福追求のために活用する権利を持っていると思って結果的には現在見るような自然破壊を為してきたのであります。こういう「人間至上主義」の価値観が地球人類世界を覆ってしまっていることは現象としてはその通りであります。
この様な「人間至上主義」というものは、「神の子」と言う「神性」が迷いによって覆われている状態であります。これが「神性隠蔽」でありますが、「マサノブ教」に於いてはこのことが説かれていないのであります。マサノブ君は、「實相」の立場に立って物事を見ず、「現象」の立場に立って現象を見ておりますので「神性隠蔽」の言葉が出て来ないのであります。本来の『御教え』は「實相独在」論でありますが、「マサノブ」教は「現象独在」論であります。もっと突っこんで言うならば、彼自身が「神性隠蔽」の状態にあるのでありますから、下手にその言葉を使えば薮蛇(やぶへび)になるわけであります。
A 上記の如く、開祖・谷口雅春先生の本来の『御教え』は“實相論”であります。これに反し、マサノブ君の「マサノブ教の教え」は“唯物現象論”であります。この違いは、現象処理の方法論に於いても明確な差となって現れてまいります。「マサノブ教の教え」は“唯物現象論”でありますから「神性隠蔽」と云う事を考えません。この「神性隠蔽」を考慮外において、物質的手段によって「人間至上主義」の弊害を解決しようとするのであります。かくして出て来たのが、「炭素ゼロ」であり、「太陽光発電」の奨励、「電気自動車」への切り替え、「森の中への移住」と言う環境対策であります。
しかし考えて見ますと、マサノブ君の環境対策は、環境省の物質的環境改善対策と同じでありまして宗教団体の第一優先活動ではないのであります。環境省と同じ事を一宗教団体がなしたにしても、その資金的規模・人的規模の面から云ってもその効果は極めて微少であります。マサノブ君が環境省と同じ物的手段による環境対策をどうしてもやりたいのであれば、宗教法人「生長の家」の看板を捨て、NPO環境法人を作って「生長の家」を離れて活動をすべきであります。
宗教面からの環境対策は、根本的第一原因からの解消である筈であります。すなわち、「人間至上主義」の依って来たる第一原因たる「神性隠蔽」の解消を第一とすべきで、真理の宣布が最優先されるべきであります。具体的手段としては「森のオフィス」の建設ではなく、「生長の家学園」の建設であります。「生命の實相哲学」を身につけた人財を輩出して各界に送り出し長期的に効果を拡大していく方策の方を選ぶべきであります。
< ひとことで纏めれば、「マサノブ教」の教えは“唯物現象論”であり、開祖・谷口雅春先生の本来の『御教え』は“唯神實相論”であって、完全に対極の位置にあるのであります。ここに於いて本来の『御教え』は全くあらぬ方向へ変化してしまっており、その基本的価値観に基づく現実的運動方向も全く違った方向を目指しているのであります。>
<補足>
@ マサノブ君は、開祖・谷口雅春先生の『生命の實相』その他の御著書から自分にとって都合の良いところだけを引用して自説を述べ、それをもって時代即応の「生長の家」の教え(「今の教え」)と説いておりますが、彼の巧みなこの論理構成にだまされてはならないのであります。
A この様なわけでありますので、聖典『生命の實相』や聖経『甘露の法雨』を破棄したマサノブ君は、本当の「生長の家」とは何かを全く判らなくしてしまっているのであります。彼がよく使う言葉「生長の家ではカクカクシカジカと考えるのであります」は、正確にいえば「マサノブ教ではカクカクシカジカと考えるのである」と云う事であり、彼、マサノブ君の個人的見解(左翼唯物論)であるのであります。わたしたちは『生命の實相』・『甘露の法雨』その他の開祖・谷口雅春先生の御著書を熟読し、「神想観」を実修して、本物の『生長の家』の教えの何たるかを悟らなければならないのであります。
(つづく)
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<第二回> (3367) |
- 日時:2014年03月03日 (月) 23時51分
名前:画龍点睛
[ U ] 「マサノブ教」の教えは斯くのごとく変化した! = 「迷いは何処から?」=
@ 平成19年7月15日・埼玉県講習会においてマサノブ君は、信徒からの「迷い」に関する質問に次のように答えているのであります。また、平成19年9月の「小閑雑感」の中で5回にわたってこの事を採り上げて説明しているのであります。要点は、――
イ、 「迷い」とは、選択・判断を決め兼ねることを言う。 ロ、 「迷い」は、自由から来る。さらに詳しく言うと「迷い」は、欲望追求のために自由を行使せんとするところから来る。ちょうど、食堂へ入って沢山のメニューの中から自由にひとつの好きなメニューを選ぶときには、どれにしようかしら?と「迷う」。従って「迷い」は選択の自由から来る。
A 「本来の正しい生長の家の御教え」では、開祖・谷口雅春先生は、「迷い」に関しては「生命の実相」第21巻・経典篇第3章<知恵と無明と罪>、「生命の実相」第24巻・質疑篇<人間・神の子の完全さについて>の中で極めて端的に説かれています。即ち、――
イ、無明(まよい)は、あらざるものをありと想像するが故に無明なり。 ロ、真相を知らざるを迷いという。 ハ、転倒妄想を迷いという。 ニ、われとわが生命の完全円満なる実相を悟ることを得ざるを迷いという。 ホ、「迷いは本来無い」わけでありますから、「無いところの迷い」は何処から?――というその「何処から」も無いわけであります。「迷い」が非実在だと言うことが判ったら、その「迷い」が何処から来るかというような疑問も無くなるわけです。
B 「迷いとは無の別名である」、従って「本来無きものの出所を求めることは出来ない」。この教えは谷口雅春先生の唯神実相・実相独在の深遠なお悟り(大悟徹底・絶対実在の絶対認識)から来ているのであります。信徒としては「只、ハイ!」とそのまま受ける事によって迷い無き世界へ出れるのであります。
C 宗教の世界においては、実際の現実生活を送っている人々の迷いや悩み自体を現実に救ってあげなければなりません。学者や評論家の世界の解説は、宗教の世界の解説ではありませんから現実的救済力は持たないのであります。かと言って、いきなり「迷いは無い」と一喝しても理解できる人は少ないから、食堂のメニューの選択の自由を、迷いの例として説明するほうが分りやすいとマサノブ君は考えたかも知れませんが、開祖・谷口雅春先生の時代には「迷いは本来無い、無の別名である」と実相直視の説法で救われた人は実に沢山おられたのであります。沢山の体験談があります。この説法で生長の家の教えは広く広がっていった事実を無視することはできないのであります。生長の家へ入信してくる人々は、「宗教的機縁」の熟した人々であります。「霊的機縁」の熟した人々には、霊的感動あるコトバが魂に響いてゆくのです。従って「迷いは自由から来る」といった説明は、「霊的機縁」の熟した人々には、霊的感動あるコトバとなっては何も響かないのです。逆に本当に迷ってしまう事になります。
D 食堂のメニューの選択を人生問題の深刻な病・悩・苦の迷いと同じレベルで考えることは、如何にわかりやすい方便とは言え軽率であります。食堂のメニューの選択は単なる<思案>であります。本当は、マサノブ君自身が自分の人生において本当に迷いの岐路に立ち解決の道の探究に思い悩んだ体験が一度もなかったためで、そのため講習会で信徒から「迷い」についての本質的説明を求める質問に生命の實相から発する答が分からなかったのであります。そこで、食堂のメニューからどれを食べようかと誰でも思案する事を思い付き「迷い」の説明としてマサノブ君はこれがウッテツケだと考えたに過ぎなかったのであります。
E このようにマサノブ君は、人間の本質の探究とか人生とかに関する“迷い”、人生の岐路に於ける決断を下し難い“迷い”に関して「實相」(悟り)の観点から答えることが出来ず、したがって彼の肉体頭脳知を使って絞りだしたのが「選択の自由」と言う解釈であったのであります。ここに於いて、マサノブ君は決定的誤りを犯しているのでありますが彼は気付いてはおらない。即ち、開祖・谷口雅春先生の本来の『御教え』では、「迷いは非実在」が正解であるのに、「マサノブ教」では「迷いは実在する」と前提しているわけであります。“非実在である”と“実在する”、全く正反対の教えであります。この前提から次の答が出てまいります。本来の『御教え』によれば“迷いの出所ナシ”でありますのに、「マサノブ教」では“迷いの出所は<自由>というもの”となるのであります。もうこうなるとマサノブ君の解説は支離滅裂となって来るのであります。<迷いは実在である> → <迷いは自由から来る> → <自由を無くせば迷いナシ> → <自由のない共産中国や北朝鮮は迷いの無い天国極楽>という論理が展開して来て実にオカシナ教えとなってしまうのであります。
F 斯くの如くにして、マサノブ君は宗教的悟り(絶対実在の絶対認識)の分野でこそ正解が見出せない「迷い」を、悟りの次元とは遥かに下位の学問的理屈の左脳世界の分野の問題へと引き下げてしまい、真剣に求道する信徒の皆さんを却って迷いの深淵へと誤導して行っているのであります。「マサノブ教」に於いては求道する人々、実人生に於いて真剣に悩み迷っている人たちに的確な解決の道を与えることはできないのであります。ましてや、昨今においては「マサノブ教」自体が、人間救済を放棄したと宣言し、地球の生命を救済するのが第一と、誰が考えても実におかしなことを生々堂々というようになっているのですからマサノブ君のいう「教えの中身は何も変ってはいない」などとは全くの世迷いごとでしかありません。「マサノブ教」の講習やマサノブ君の著書だけを読んでいては、日教祖の左翼唯物論戦後教育を受け信じ込んでいる人にとっては、同じ左翼唯物現象論の立場からの巧みなマサノブ君の説法にはたやすく同調を感ずるのでありますから、『生命の實相』を深く読んで本当の『御教え』を深く理会していなければウッカリとマサノブ君に騙されることになるのであります。
(つづく)
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<第三回> (3379) |
- 日時:2014年03月04日 (火) 13時45分
名前:画龍点睛
[ V ] 「マサノブ教」の教えは斯くのごとく変化した! = 「災害」について =
@ 「マサノブ教」では、地震・風水害・火山の爆発などは<自然現象>だと説かれています。そしてこの事は人間の外側でおきた自然の出来事で、地球上で起きるのは<当たり前な自然的なこと>なのである。言い換えれば、「マサノブ教」では「三界唯心所現の理」を否定しているのであります。それ(当たり前な自然的なこと)を特異な目で見て、好ましくない現象<災害>と言っている。しかし、自然なことであっても人間としては物質的対策を立てねばならぬ。この物質的対策を立てない人は危険に会うことになり、この意味において災害に遭うことは<人災>である。このような論理の筋道が「マサノブ教」の<災害>についての説明であります。
A 開祖・谷口雅春先生の「生命の実相」その他の御著書を見ますと、現象界の出来事はすべて「三界唯心所現の原理」によって起こるものである。人間の外側で起こる自然現象もすべて<念の世界>において作られた人間の心の中の想い(個人および集団の想い)の具象化されたもので、この意味ですべて人が招き寄せた<人災>といえる。このように同じ<人災>という言葉でも「マサノブ教」では中身が完全に違っているのであります。
B このように、「マサノブ教」の教えは唯物論思考なのであります。何故にその<自然現象>が起きたのかの<なぜ>をとことん突き詰めていない。そして災害(個人の受ける災害・集団で受ける災害)という自然現象を避ける方法も物理的手段で避けるべきで、物理的手段をもってしても避けられない時はその人の運・不運が別れ道となる。このように結論づけられますが、その運・不運が別れる根本原因については説明しないのであります。少なくとも唯物論学者マサノブ君の左脳思考力では分からないし、又こんなものは宗教の説く教えではないのであります。
C 「本当の生長の家の御教え」においては、
イ、すべて地上の災害や事件は、物質世界に現れる以前に<念の世界>で作られて、それがある程度の時間を経て、三次元の目に見える世界へ形となって現れてくる。
ロ、地震・風水害等の大災害は、多くの人々の「念の集積」によって作られて行く。
ハ、「念の集積」が一定限度に達すると<念が、本来の無である事>を暴露して自己崩壊を遂げる現象、これが現実的災害や事件である。
ニ、事件・災害に巻き込まれないためにはその「念」の内容に同調する「念」を自分の心にもたないことであります。
D 更に具体的に、マサノブ君が講習会でどのように述べているかといえば、――
平成20年2月13日谷口雅宣先生は、「小閑雑感」の中で、 <<いつか生長の家講習会で「天災も人間の心の反映か?」という質問が出たことがある。人間は、自分の尺度で自分に都合のよい解釈をして自然現象を「天災」などと呼ぶ。日本列島では地震が起こるのは、地質学上では<当たり前>で<自然なこと>である。それなのに<起こらない>と考えている人間が「災い」と呼ぶ。<地震は来ない>と考えて耐震設計をしない事は「人災」、ある場所へ<危険>を承知で行くのも「人災」を求めているといえるのである。>>
E事件や災害に巻き込まれないための最も確かな方法について、――
「生命の実相」第1巻・第4章<心の世界における運命の形成>
イ、 すべての事件は、<物質の世界>に現れてくる以前に<念の世界>で出来上がるのでありまして、<念の世界>で出来た通りが<物質世界>に映って来るのであります。
ロ、 <念の世界>で出来上がる事件も、宇宙に満ちている色々の生物の心の働きの組み合わせに従って時々刻々に作られて行くのであります。大きなあらすじの事件は、多くの「念」の働きを成立要素として細かい事件よりも早く多数の「念」の多数決で決まって行く。
ハ、<念の世界>にまだ事件があるうちに修正しておいたら災難が災難にならないで<物質世界>に現れてくる。
ニ、多くの人々の「念の総合的力」で強く決まってしまった事件・災難は、我々がその反対の思念をしても、その事件を起こらなくならせる事は出来ないが、その災難に引きつけられない健全な信念を持っていれば、「類でないものは、反発する」という心の法則によってその災難の渦の外へ放り出される。
F 以上の如く、「マサノブ教」に於いては「三界唯心の理」を否定しているのであります。本来の『御教え』から、全然違った内容(形而下的現象唯物論)へと変っているのであります。このように申し上げるとマサノブ君は反論する。「自分は“三界唯心”を否定していない。大自然讃歌(惨禍)教を見よ」。<< 「外形は唯自己の信念の影を見るに過ぎず」 との教えを想起すべし。「吾まさに、環境は心の影なりとの教えの意味を理会せり。自然環境も人類の心の反映ならば、人々の争う心、自然界の乱れとなって表出せん。>>と「大自然讃歌(惨禍)」には書いてあるではないか!と、マサノブ君は言う。しかしながら、この言葉をマサノブ君が本当に信じているのであれば、災害等を唯物的自然科学原理に基づく単なる“自然現象”というマサノブ流の思考は出て来ないはずであります。ここに彼独特のマヤカシがあります。それは自説を“権威付ける”為の本来の『御教え』の援用であります。これを、“パクリ”というのであります。マサノブ君はこのように狡猾なるパクリを駆使して信徒を欺瞞するのであります。
G 「三界唯心」の証明、――
イ、 天皇晴れ(エンペラー・ウエザー)= 「天皇国・日本」(生長の家祭務部 編著昭和55年) 御聖徳の断片(P.9−23)詳しくは、―― http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=seinen&mode=res&log=9
ロ、 開祖・谷口雅春先生の講習会に於いても、講習会当日は不思議に天気に恵まれて開催されていたのであります。
ハ、これに比し、マサノブ君の場合には、―― 今回の関東甲信地方の観測史上、記録破りの“大雪害”という自然災害は、やはり『大自然讃歌』経ならぬ『大自然惨禍』経の引き寄せた災害と断じられるのではないか?と思わざるを得ません。
A 「生長の家」講習会が、初めて中止となった10年前の「新潟中越大地震」
B 一昨年・昨年の京都府宇治市(在:宇治別格本山)の記録的大水害
C 今回の甲信地域(在:「森のオフィス」)の観測史上記録更新の大雪害
これだけを列挙してみても、マサノブ君が心霊の世界においては、<“惨禍”を引き寄せる心を持った男>と見られても仕方がないと思います。何しろ高座からは「三界唯心所現」を説きますが、決して彼はこのことを信じてはいないのであります。「三界唯心所現」という「心の法則」は現代科学では証明できないという理由から信じることを拒否し続けているのであります。しかしながら、自説の権威付けの為には信じてもいないことでも平気でパクって活用するのであります。本当にマサノブ君の「神性」は深い迷妄の雲で幾重にも巻かれているのであり、さらに彼は異妖なる悪想念波にその肉体脳髄が完全支配されいるとしか言えないのであります。
(つづく)
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