生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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3・1 マサノブ君は<「生長の家」の運動は変化したが、「教え」は変化していない>というが、「教え」自体も“唯神實相論”から“左翼唯物論”へと逆転しているのであります。ゆめゆめ騙されることなかれ!!<第十回>・<第十一回>・<第十二回> (3469)
日時:2014年03月11日 (火) 08時50分
名前:画龍点睛


[ ] ] 「マサノブ教」の教えは斯くのごとく変化した! = 「不立文字」の都合よき解釈  =



マサノブ君は『生命の實相』を裁判所の敗訴を理由に自ら捨てることを企て実行したのであります。『生命の實相』を捨てた背景には、もう一つの重要な事柄があるのであります。それは、「生長の家」の看板はそのまま使いながら、内容的には全く別の左翼唯物論に基づいた新宗教を確立し、開祖・谷口雅春先生を凌駕したことを誇示したかったのであります。この新宗教は「今の教え」と呼ばせておりましたが、更に進んで「マサノブ教」となり、そして遂に「大自然崇拝教」として確立しようとしたのであります。そのための理論的根拠としてマサノブ君が目を付けたのが「不立文字」と言う四字熟語であったのでした。



マサノブ君は、実に巧みに「不立文字」と言う言葉を、自己の新宗教の確立の理論的根拠として利用したのであります。、自己本位の実に都合のいい解釈を考え出したのであります。この解釈は開祖・谷口雅春先生の説かれたところと全くの対極にあるのであります。アス、3月11日はマサノブ教祖が、マサノブ教といわれる「今の教え」改め「大自然崇拝教」の杮(こけら)落としの祭典を行う様でありますが、このときのために用意周到に準備を進めてきたのがこの「不立文字」の都合よき独善的解釈であったのであります。かくして本来の『御教え』の内容はここに完全に変節されてしまったのであります。




@ 「マサノブ教」に於ける「不立文字」の説き方について、――

イ、<< 生長の家では、仏教で説く「不立文字」の考え方を採っていて、真理の真髄の部分は文字では表現することが出来ない。従って、文字で表したものは、みな不完全なもので真理ではない。と考えますから、聖典に書かれた一言一句を永遠に墨守して実行するという考え方は採らないのであります。>>

ロ、<< 真理というものは本来、大道無門なのであります。形にはまったものが真理ではない。真理は表現されねばなりませんが、表現されたものは、ある時には真理に即していても、それはまた真理から離れてくるものもある。>>

ハ、<< 真理の表現は、人・時・処で変化するのですから、真理を学ぶ我々は聖典等の表面の言葉に捉われないようにしようと言うことです。古い時代の文章は現代の我々には分からない事情の下で書かれた可能性がある。背後にある色々な考えなければならない事情があった。それを全部捨象してしまって「ここにこう書いてあるから、これが絶対の真理だ。」というのでは独善に陥る危険性があると言うことです。>>

ニ、<< では、何をなすべきかというと、今日に於いては、生長の家では「今の教え」が総裁先生(当時は、第二代目・谷口清超先生)によって説かれているわけですから、しかも御本人が生きていて説かれている訳ですから、他の人がそこに何かを付け加えたり、またそこから抜き取ったりする事はない訳ですから、そう言う「生きた教え」を学ぶことが重要になって来るわけであります。>>(「信仰による平和の道」より)



** 以上の四点の「不立文字」のマサノブ流解説の目的とするところは、――

A、『生命の實相』は文字で書かれているのであるから不完全な真理である。

B、『生命の實相』は文字で書かれたものであるから、書かれた当時は真理に即していても、現代に於いては真理からは離れてきているのだ。

C、『生命の實相』に書かれている内容は、現代の我々には分からない当時の事情の下で書かれたものであるから絶対の真理と看做して文字どうりに解釈する事は間違いである。

D、その時代に当てはまる“教え”は、その時代に生きている法燈継承者が説くのである。『生命の實相』に書かれている事でも、現代に適用できない部分は“捨て”、未だ説かれていない部分についてはその時代に生きている法燈継承者が“補完”して教えを説くのである。したがって、時代の激変に伴なって「教え」の全面的改訂もあり得るのである。このようにマサノブ君は言いたいのである。そしてそのように行動しているのであります。




A 開祖・谷口雅春先生の「本来の生長の家の御教え」による「不立文字」とは、――

イ、<< 「生長の家」で説くところの宗教的真理は、多くの善き宗教の真髄をなしている宗教的真理と同じであり、むしろ多くの宗教の説く真理に開眼を与える底のものでありますが、何処が違うかと言うと文章によって一喝を与える点であります。本を読めば病気が治るということも、文章による一喝によって、読者の生命の実相が開かれて心の病気が治る。肉体の病気の治るのも、この随伴的結果なのであります。>>

ロ、<< この“生命の実相”というものは、今までは文字・言語のよく説くところではない。言詮不及・不立文字であると言われていた。それを文字を立て・文章を立て・言葉の力によって生命の実相を悟らせるようにさせた所が、生長の家の独特なところであります。>>

ハ、<< 今までは、真理と言葉とが二つに分かれていて、言葉や文章は真理を完全に表わすものではない、と思われていた。ところが、生長の家では、言葉と真理・文章と実相とをピッタリ一致させた。

ニ、<< 古来、直接説法・以心伝心でないと悟ることも出来ない真理を、ただ文章を読むだけで悟れるように、文字の中に生命あり・生命の中に文字あり・文字と生命と一体と言うような域にまで達せしめ得たのだろうと思います。>>

ホ、<< さればこそ、本を読むだけで直接参禅しても得られないような悟りに到達する人が多勢現われて来て、その影響の及ぼすところ肉体の病気も治り、境遇・環境まで変化してくるというようになって来たのであります。>>

ヘ、<< 生長の家は、宗教としては今までの多数の宗教に対して敢えて別異を説くのではない。根本に於いて・真理に於いて同じことでありますけれども、その表現が今迄に見ないような強い迫力ある芸術になっている。>>

ト、<< 生長の家では、活字が道場である。文章が教化の師である。活字の印刷した新聞紙の行くところ、活字の印刷した小冊子の行くところ、其処が道場化して人を救うということになるのであります。>>(「生命の実相」第25巻・教育実践篇上巻)



B 宗教・信仰の世界というものは、学者や評論家の世界ではないのであります。学者や評論家は、人の病・悩・苦を救う事は出来ませんが、宗教・信仰の世界においては、人を救うこと、即ち病・悩・苦の現実的解決が大切であります。



C 「生命の実相」は、コトバの力で真理そのものに可能な限り接近して、神様の叡智に導かれた谷口雅春先生の人間的努力の極限の文章芸術なのであります。かくして完成された、<言葉と真理>・<文章と実相>とが完全にピッタリ一致した最高級の霊的文章芸術は、それを読む人の心の中に霊的感動を走らせ、迷いの自壊作用を起こさせ、かくしてその人の<生命の実相>が顕れ出、<奇蹟>となって顕れるのであります。



D 一方、「マサノブ教」として説かれ・書かれている文章・講話・講演には、霊的感動が全くといって良いほど起こって来ないとの感想を持つ人々が実に多い。従って「マサノブ教」では、迷いの心に自壊作用を起こさせて<奇蹟>を起こさせる事は出来ない。その理由は、学者・評論家の視点で書かれ・話されており、評論文を読んでいるようであり、学者の研究発表を聞いているようで何ら悩める人々を救う力はないからであります。つまり、「マサノブ教」においては、言葉と真理・文章と実相とがピッタリ一致していない為、霊的文章芸術の域にまでそのレベルが達していないからなのであります。



E この差は一体、何処から来るのでしょうか? 真理というものを外から眺めている人であるか、真理と霊的に一体となっている人であるかの差なのであります。宗教用語つまり悟り・大悟徹底という言葉を使えば、一つに「無の関門」を透過した人であるか、していない人であるかの差なのであります。



F 開祖・谷口雅春先生は、「無の関門」を超えられ、絶対実在を絶対認識された霊的悟境から御文章を書かれお話をされたのであります。と同時に「生長の家大神」様からのお示しとお導きにより御文章を書かれお話をされたのであります。



G 一方、マサノブ君は、まことに失礼ではありますが、自分では<御教えの真髄の不立文字>を受け継いだと言っておりますが、「マサノブ教」の内容を静かに観ずれば、未だ「無の関門」を超えた人とはとうてい思われず、大悟徹底の霊的体験の話もありません。従って単なる自分自身の肉体頭脳知による思索であり、真理を外から眺めて話し書いている故、<言葉と真理>・<文章と実相>とがピッタリ一致せず乖離しており、従って霊的感動のほとばしりが感じられないのであります。「マサノブ教」によって救われた話など今まで一つとして聞いたことがないのであります。「マサノブ教」は人間知によって作った人造の宗教であり、従って現実的救済力は全くないのであります。



H ここまで、書き来たって、「掲示板」を覗きました。不思議なことに、3月9日の兵庫教区の講習会の質疑応答の中でマサノブ君が回答している内容が、まことに不思議ではありますが、上記のA〜Dとぴったりと一致しているのであります。転載させて頂きます。


http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1345969132/1038


質問: 「総裁がご自分の書いたものを聖典と呼ばない事と言われたり、総本山を聖地と呼ばないのは、聖なるものは実相の世界のみであるとお考えだからですか?」

回答: 「その通りです。よくわかっておられますね。総本山や生長の家の本といっても、現象での存在ですから、実相そのものではないのです。」



質問: 「総裁は日時計主義をいいながら、原発は悪い点ばかり取り上げて批判していますが、おかしいのではないですか?」

回答: 「これは宇治の研修生の方からの質問ですか。いい質問ですね。地方講師の試験問題になりそうですね。人間を見る時には、日時計主義は大事です。しかし、何かの判断をする時には、それではいけない。例えば犯罪をした人の実相を見るのは大事だが、知事を選ぶ時の判断にはそういう犯罪をした人は不適当だと思うでしょう。それと同じく、良い点と悪い点を比べて考えるのは、政治の判断では大事です。」

 

原理主義の回答: 「原理主義はよくない。谷口雅春先生は400冊ほど、谷口清超先生も300冊ほど本を書かれていた。それはその時代に応じて書かれていたのだから、それを無視して、本に書かれているから、という理由でそのままやるのは原理主義で間違い。どうしても生長の家という教えにひかれて入ったので、本に書いてある事を絶対視したいのはわかるが、しかし、それは間違い。そういう原理主義が戦争や争いを起こすので、気をつけて欲しい。 そういう事がなかなかわかってもらえず、残念だ。では、真理をその時代にどう解釈すれば良いかは、自分勝手に解釈しないでほしい。私もそうだが、そういう役目の人が教団にはいるので、その人達の判断に従ってほしい。」



** マサノブ君は、青年時代に練成を受けたらしいが、真面目な受講態度ではなかったと聞いております。伝道した経験もなく地方講師の試験も受けておらず、ましてや本部講師の資格もありません。横滑りで副総裁にしてもらっただけであります。自分の子供たちにも「生長の家には近ずくな!」と言って育てたとも聞いております。



** マサノブ君が当時、地方講師試験や本部講師試験を受けていたら完全に不合格であった、と断言できるのであります。実地指導して一人だに救った経験もないのであります。だから、上記の如く的はずれなトンチンカンな完全に間違った解答をあたえるのであります。



** 要するに、マサノブ君は、自分の今説いていることが現代という時代にマッチした「現代・生長の家」の教えであり、「開祖・谷口雅春先生」=「生長の家」ではなく、「マサノブ」=「生長の家」であると強調したいのであります。そして、名称も「大自然崇拝教」と改めたいのでありますが、まだまだ当分の間は「生長の家」の看板を使って、独裁者気分を味わい、1000億円の教団資産を売却して現金化し、自由に蕩尽したいだけの話であります。



**信徒の皆様、上記質問へのマサノブ君の回答はすべて間違いであります。断じてマチガイであります。もうこの辺でマサノブ君を見限りましょう! そして、一日も早く開祖・谷口雅春先生の本来の『御教え』を復活させようではありませんか!!




<第十一回> (3484)
日時:2014年03月12日 (水) 15時01分
名前:画龍点睛



[ 十一 ] 「マサノブ教」の教えは斯くのごとく変化した!

 = 霊と霊界について =




マサノブ君は、「霊魂」とか「霊界」については全く無知であります。マサノブ君は自称・宗教家と称しながら、霊魂とか霊界については全く信じてはいないのであります。この意味で彼は唯物論者であります。言葉の上では「霊魂」とか「霊界」と言う言葉を使う時もありますが、信じているかどうかとなると別問題だと言えるのであります。信じていないならこそ、マサノブ君は講習会や著書、ブログ等でも一切採り上げない、「マサノブ教」ではアンタッチャブルな領域に押し込めて閉まったのであります。この一点を捉えてみましても「教えの内容は何ら変っていない!」とよくも言えたものだと思うのであります。以下詳しく書かせていただきます。




[ T ] 「マサノブ教」では、――


@ 「マサノブ教」では霊と霊界に関しては、積極的には何も説いていないことは上記の通りでありますが、彼自身は「霊魂」や「霊界」に関すること(輪廻転生・心霊現象・先祖供養・個別霊供養・水子供養・霊魂の進化・四次元以上の霊界と三次元現象界との関係等々)については自分自身も何も判りませぬというだけではなく、<霊に関することは危険なことである。>とさえ言っているのであります。。


A 平成16年11月の和歌山県講習会において、一人の信徒からの質問に答えて―――

「生長の家では、肉体を持って生活をしている間は、霊のことは判らない事になっているのです。肉体を持って生活している間は霊とは別のことを地上人生に於いてやりなさいと言っているのであります。憑依霊などと言っても誰も検証できないのです。霊の問題に係わってゆくとリスキーな詐欺まがいの事に陥ったり現実の世界の大切なことを忘れてしまうことになって行くのですから霊のことは霊界へ行ってから考えて下さい。霊のことを考えると危険な世界へ入って行く訳ですから生長の家では霊の事はあまり言わないのであります。」


B 「憑依現象とは、正確な科学的用語では統合失調症つまり神経症の一種であって、以前は精神分裂病と言っておりました。自分には色々な自分がある。それを一つの自己が統合している。この機能がうまく行かなくなる人が多い。こういう人は自分の声を他人の声として聞くのであります。この統合失調症は薬で治るのです。憑依霊なんて誰も判らない。中絶児のある家庭ではこの統合失調症が出る場合があります。宇治別格本山では、中絶児供養をしておりますが、効果のある場合もあるがすべてのケースで中絶児供養が効果があるかどうかは判らないのです。中絶児供養は、一部の対策にはなるが根本対策にはならないのです。」




[ U 」 「本来の生長の家の御教え」における霊と霊界について、――


@ 開祖・谷口雅春先生は、霊や霊界に関する御著書に於いて非常に詳しく説かれております。
・「生命の実相」第9巻および第10巻<霊界篇> ・別冊「真理・生死を越える道」 ・「人間死んでも死なぬ」 ・「人生を支配する先祖供養」 ・「霊供養入門」 ・「霊界の妻は語る」その他、御著書の至る所で触れられております。それ程までに重要だからです。 次に重要点の大要を引用しますと、


A 私達が、地上で生活している間に<出来るだけ正確な霊知識を知っておく事>は

イ、一人一人の人間に一層大きな生命に関する視野が開ける。

ロ、旅行先について前もってよく知っておれば、旅行先で大変都合がよいのと同じこと。

ハ、地上生活の意義をはっきりさせて、生活に刺激を与えて正道を歩める。


B 人間の運命の一半は、霊界との連関に於いて定まるのであって、本人の自由意志のみで定まるのではない。霊界の秘密を知らずして人間の運命を予知することは出来ない。人類の運命は、高級霊の愛深き指導によって間断なく修正されつつある。


C 霊界が存在するこの崇高な事実、高級霊からの通信には人間の究極の真理が述べられ、それがそのまま、現実生活の法則に生きてくる驚くべき事実があります。この事実の認識があってはじめて充実した人生と言えるのです


D 霊界には、悟らずに苦しんでいる「迷霊」が多数にあり、読者の祖先の霊魂の中にもその様な悟っていない霊魂があるかも知れないのである。従って、そのような霊魂を悟らしめて霊界における祖先の霊魂の苦痛を解脱せしめてあげる事は、子孫たるものの当然行わなければならない義務であり、それによって祖先と子孫とは霊的に繋がって一体であると言う原理により、子孫が健康になったり運命が好転する。


E 多くの人々は、霊界と現実界との関係を知らないのである。原因があれば、必ず結果を生ずる。これが宇宙の大法である。現世に結果が出てこなくても霊界で総決算が行われる。つまり、輪廻転生(過去世・現世・未来世)を通してみると、宇宙の大法としての因果律(原因結果の法則)は厳然として働いているのであります。




[ V ] 宗教家であるならば、「霊魂」や「霊界」その他の霊的問題を自分がわからないからといって、アンタッチャブルな領域に押し込めてはいけない。ナサノブ君の考えは正しくはないのであります。


@ 学者や評論家は別として、信仰を生活に生きる私たちにとって<霊と霊界>の事について大切なことは―――

イ、人間の運命は、霊界からの影響を大きく受けている。

ロ、人間は死ねばすべて終わりではなく輪廻転生という過去世・現世・未来世と続く永遠人生を生きているのであり、その永遠人生の過程に於いては原因結果の法則(因果律)という宇宙の大法が厳然たる事実として働いていることを忘れてはならない。

ハ、霊界で現に今も生きている先祖の霊の苦痛を解脱せしめて、悟りの心境に高め挙げてあげることによって、子孫の病気その他の運命が好転する。先祖供養・個別霊供養・水子供養の大切さが此処にあるのであります。



A 昨今の経済不況に喘ぐ人々、それをすべて政府の責任に持っていくマスコミとそれに誘導される社会風潮、そしてそれらの人々を社会的犠牲者として財政的給付による救済だけを主張する政党・・・この日本社会の現状から見える現代日本人の価値観はすべて100パーセント唯物的生活価値観・人生観である事が判るのであります。



B 一時的救済策も大切でありますが、それは必ず心的・霊的な根本的救済策の上に立って為されねばなりません。ホームレス・フリーター・派遣切りの人々・母子家庭・生活保護・自殺しか無いと絶望している人々、等々に対して「あなたは毎日、自分自身で自分自身の御先祖供養を感謝を込めて自分の家で実行していますか?また、あなたは、なぜ自分が地球上へ生まれて来たのか考えたことがありますか?」と問えば、おそらく全員が「否!」と答えるでしょう。ここに根本原因があることを、すべてのマスコミ・政党・不況の犠牲者・社会制度の歪みの犠牲者と自認している人々は気づいて、自己の価値観・人生観を大転換しなければならないのであります。



C 故に、現代宗教家の使命たるや、真に大きいのです。

イ、人間・神の子、一切者の自覚を「神想観」等の観法の継続にて深めてゆく。

ロ、日本国民一人一人まず、自分の家の御先祖供養・未成仏霊供養・水子供養を自分自身の家庭の日課として自分自身で行き届いて行うことを習慣化する。

ハ、以上のような事を、家庭での幼児教育として、学校教育として、社会職場教育として、国家の教育基本方針として行う。
この根本的解決策が必要であり、この霊的問題は、環境問題以上に大切であります。



** 如何かな? マサノブ君、君が宗教家を自称にしろ名乗るならば、自分自身が無知ならば、開祖・谷口雅春先生の多くの御著書によって勉強するとともに信徒の病悩苦の個人指導にあたれば良いのであります。しかし、マサノブ君は馬耳東風、強引にマサノブ教化路線をつっ走って行くのであります。此処まで来れば潔く辞職を!!マサノブ君!!




<第十二回> (3517)
日時:2014年03月14日 (金) 12時45分
名前:画龍点睛



[ 十二 ] 「マサノブ教」の教えは斯くのごとく変化した! 

= 「創世記」について @ =



マサノブ君は、『生命の實相』第11巻に書かれている開祖・谷口雅春先生の「創世記」に関する万教帰一の真理から観た霊的解釈を完全無視したのであります。なぜ、無視したのでしょうか? 一つは、開祖・谷口雅春先生の『御教え』をそのまま継承するのが嫌であるからであります。精神分析学的に言えばマサノブ君の潜在意識には開祖・谷口雅春先生に対する憎悪心と凌駕心とがシッカリと横たわっているからであります。二つ目は、マサノブ君は霊的理解力が極めて乏しいがために、開祖・谷口雅春先生の『御教え』の霊的素晴らしさが全くわからない、霊的盲目さの故であります。


にも拘わらず、マサノブ君は、自分の説く「今の教え」=「マサノブ教」の内容は開祖・谷口雅春先生の『御教え』とはいささかなりとは変化していない、開祖・谷口雅春先生の説かれた真理はそのまま継承している、ただ真理普及の運動の方法だけを時代に応じるかたちへと変化させただけだと全くの詭弁を弄しているのであります。ウソをつかないことが自分の信条であると嘯きながら実際は開祖・谷口雅春先生の説かれた真理解釈を否定し、自分の個人的思想である左翼唯物論に摩り替えて言っているのであります。そして更にマサノブ君は何でもかでもムリヤリに環境問題・自然々々というものに結び付けていくのであります。その一番の事例の一つが旧約聖書の「創世記」解釈であります。



@ 「マサノブ教」の解釈

マサノブ君は言う。<<『創世記』の第1章の天地創造と第2章4節以降の物語は、互いに大きく食い違い、矛盾している。その理由は作者が違うからである。>>(平成22年7月13日『小閑雑感』)

もう少し詳しくみてみると、平成22年(2010年)7月13日「小閑雑感」には、――

<<『創世記』の天地創造、―― 11日の本欄で今年度の生長の家教修会のことに触れたが、さらに続けよう。リン・ホワイトは『創世記』第1章にある天地創造物語を批判の対象としたが、実は『創世記』には、そこ以外にも天地創造物語が存在する。このことは、生長の家の『創世記』解釈を谷口雅春先生の著作から学んだ読者は、よくご存じのはずだ。もう1つの天地創造は、同じ書の第2章4〜6節にある。『創世記』第1章は、31節すべてが天地創造物語であり、そのストーリーはさらに第2章の3節まで食い込んで続いている。これに対して、第2章にある物語は、実に簡単である−−「主なる神が地と天とを造られた時、地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった。主なる神が地に雨を降らせず、また土を耕す人もなかったからである。しかし地から泉がわきあがって土の全面を潤していた」。(第2章4〜6節) これはもちろん全ストーリーではなく、人間が造られる前段階までの筋書きだ。第2章では、わずか3節の文章で人間誕生までが描かれるのだが、第1章では、実にていねいに、25節にわたる文章を使って、人間創造までの6日間の過程が1日ごとに描かれている。だから、文章の細部にあまり注意せずに聖書を読んでいると、第2章の話は、第1章に描かれた宇宙最初の1週間のうち、特定の1日の出来事を改めて詳述しているのだと誤解してしまう。しかし、上の引用文をよく読むと、その解釈が成り立たないことがわかるのである。なぜなら、この直後に来る第2章7節にはこう書いてあるからだ−−「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」。 つまり、第2章では、植物よりも人間の方が、先に創造されたことになっているのだ。そして、その理由まできちんと書いてある。それは、人間創造の前には、雨もなく、土を耕す人間もいなかったから、植物が生えるはずがないというのだ。これに対して、第1章では、植物の創造が3日目、人間の創造は6日目、とはっきり書いてある。そして、植物は人間がいなくても、神が「はえさせよ」と命ずれば、どんどん生えてくるのである−−「神はまた言われた、『地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ』。そのようになった。地は青草と、種類にしたがって種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ草とをはえさせた。神は見て、良しとされた」。(11〜13節) これだけではない。第1章と第2章の記述で食い違うところは、数多くある。おそらくその最大のものは、人間の創造である。上に掲げた第2章の人間創造と、以下の第1章の記述の違いは明らかである−−「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」。(第1章27節) 第2章の物語では「アダム」という名前の男だけが創造され、その後の第2章21〜22節で、アダムのあばら骨を取って「エバ」(女)が造られるのである。ところが、上記の1章27節では、いっぺんに男女の人間が造られている。それだけではない。第2章では、神は「土のちり」で人間を造ったが、第1章では、そういう“素材”の話は一切出てこない。恐らく、神の創造には物質的な素材など不要なのである。このように、ごく一部を比べただけでも、『創世記』の第1章の天地創造と第2章4節以降の物語は、互いに大きく食い違い、矛盾している。だから、聖書研究者の間では、これらの話は、それぞれ別の作者の手になるということが、大筋で合意されているのだ。ということは、リン・ホワイトの指摘がきわめて部分的である可能性を暗示している。つまり、彼が第1章28節の記述のおかげで、人間が自然破壊を正当化するようになったと指摘しても、作者が異なると思われる第2章に、自然破壊を戒める教えが書いてあれば、彼の主張は瓦解するか、少なくとも“証拠不十分”の誹りを免れないことになる。>> 谷口雅宣



A このように、マサノブ君は開祖・谷口雅春先生の「創世記」の霊的解釈が彼の霊的低級脳では理解できないため、それを捨てて、現象中心に解釈研究している学者の考えを中心に解釈しているのがわかるのであります。この様な霊的レベルの低い個人的解釈を以ってマサノブ君は「これが生長の家の考えであります・・・」というのでありますが、信徒の我々はもっと毅然としてマサノブ君に「君の言っていることはマチガイである! 自称にしろ総裁と称する資格はない!即刻辞職したまえ!!」と言わなければならないのであります。



B 開祖・谷口雅春先生の本来の『御教え』

<< 第一章における神の「草木創造」は、物質的大地に発生する以前の草木の霊的創造だと言う事が明瞭になるのであります。げに天地万物の眞創造はすべて、「物質世界」以前の「實相世界(ほんとにある世界)の天地万物の霊的創造なのであります。・・・すべてが完全の極致であって、一つとして不完全はないのであります。・・・これ(第二章)以後の『創世記』の記述には、「迷い」による天地および人間の創造が描かれているのであります。>>(『生命の實相』第11巻P.57〜59)

即ち、開祖・谷口雅春先生の霊感による『創世記』の解釈は、第一章は完全な「實相世界」を、第二章は人間の迷い心による不完全な「現象世界」のことを説いてあると説かれており、決して、<相矛盾した事を説いてある>とは一言も仰ってはいないのであります。



C 一方、マサノブ゙君は、上記の説明が理解できない、つまり、實相世界と現象世界との区別が分からないため、第一章、第二章とも肉眼に見えている現象世界だと言う前提に立って理解しようとするから(霊感によらず肉体頭脳だけで考えるから)相矛盾した内容であり、その矛盾した内容が書かれたのは書いた人(作者)が別々だからだ、と説明しているのであります。



D マサノブ君の温存を目的とするブログ代理人が和解を申し出ていると云うことは、開祖・谷口雅春先生の説き方100%を今後の教えの内容とせずに、マサノブ君の説き方も例えば30%位は入れて『新・生命の實相』を編集して行こうではないか、お互いに譲り合って時代に応じた説き方では如何かな?ということに平易に云えばなるのであります。マサノブ君および総裁擁護者たちの“和解”とは、真理の世界に於いては断じて受け入れられるものではありません。上記の「創世記」の解釈一つを取って見ても彼らマサノブ君擁護派の主張は通るものではないのであります。



E 真理の道はまことに厳しく、真理と非真理とは譲歩・妥協・足して2で割ることなど絶対に出来ないことなのであります。マサノブ君の説く彼流の真理は、全くの非・真理であり、これを「虚説」というのであります。「虚説」は迷いの産物であり、本来ない夢幻のごとき存在でありますから、実在の「正説」とは絶対に妥協も譲歩も出来ないのであります。



F 我々、「本流復活」、開祖・谷口雅春先生の本来の『御教え』を100%信奉する者は、マサノブ君の過てる「創世記解釈」を断固拒否するのであります。、“和解”の余地なしであります。だから、「マサノブ君よ、「生長の家」本部から出て行って独立しなさい!看板だけを離さず、開祖の教えに反する虚説を説き続けることは、宗教家としての信義に完全に反しておるのですよ」と申しあげているのであります。 われわれ信徒は教団の内・外にかかわらず、「マサノブ教」は本来の『御教え』の内容からは完全に違ったものになっていると云うことをシッカリト理解しなければならないのであります。マサノブ君が時々、開祖・谷口雅春先生の仰ったことを引用してしゃべりますがウッカリ騙されてはならないのであります。


(つづく)







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