生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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「夜郎自大」また、精神異常者「初心者」=マサノブ君 、<真理の周りを屁理屈で堂々巡り>今回も完全完敗し尻尾を丸めて捨てセリフ残して退散す!・・・< そのD・最終回? > (3643) |
- 日時:2014年03月28日 (金) 01時24分
名前:怒れる信徒代表
<「初心者」=マサノブ君、曰く> (余分なところを省き、各文要点を抜粋)
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11764/1376543876/
841 :初心者:2014/03/26(水) 17:49:36
雅春先生の教えから、「肉食をひかえて動物の命をまもろう」とする運動の原理はとりだせるのでしょうか。とりだせるとすれば、それはどのような原理なのでしょうか。
842 :初心者:2014/03/26(水) 19:11:01
「成れる果」で判断いたします。一般の信徒において、「病気はない」とする言表と、「病気が消えた」とする出来事と、どちらが先かということです。「病気が治った」という出来事をもって「病気はない」と言表するわけではありませんね。その人にとっては、まだ病気があらわれているとみえている段階で「病気はない」と言表するわけです。言表に出来事を一致させようとしている、ということがこれによってわかりますよね。わかりますか。言表が先で、言表したとおりの出来事があとからやってきますよね。ですけども、言表したとおりの出来事がやってくるとはかぎりませんね。むしろやってこないほうが多いでしょう。こういうときにどうなりますか。たいていは、「病気はない」と言表しつづけて病気を治そうとしますよね。なにがなんでも「病気はない」とする言表に出来事を一致させようとしますよね。
こういう場合、ふつうの人は出来事に言表を一致させようとしますね。病気という出来事をみて「病気になった」といいますよね。これがふつうです。生長の家は逆ですね。病気になった出来事をみて、「病気はない」といいますよね。そうすることで「病気が消えた」とする出来事を引き寄せようとしますよね。生長の家の人は、言表が先で、これに出来事を一致させようとしますよね。これはこれで認めていただけますね。さてここからが問題です。「実相」ということを生長の家ではいうわけですよ。つまりですね、「病気は不快であるから治したい」というわけではないのです。その出来事が真実ではないから、真実をあらわすために、生長の家の人々は病気を治すのですよ。生長の家の「病気治し」とは、真実をあらわすための行為なのです。最初は、真実は「病気はない」という言表のなかにあるわけですね。いいですか、真実はまず言表としてあらわれるのです。もういちどいいますよ。真実は言表としてあらわれるのです。言表こそ真実なのです。出来事とは関係なく、言表のなかに真実があるのです。ギリシャの時代には、真実は出来事のなかにあったのです。病気があれば、病気のなかに真実をみいだそうとしたのです。「病気はない」と言表するのではなく、病気のなかの真実に言表を一致させようとしたのです。ギリシャ人は「病気ない」とはけっして言わなかった。病気のなかに真実をさぐろうとしたのです。生長の家は逆です。「病気はない」と言表します。言表優先なのです。言表こそが真実なのです。人間の言葉が真実なのです。そこにある出来事がどうであれ、人間の言葉が真実なのです。人間の言葉を真実とする。これが人間中心主義です。ギリシャの時代には、人間の言葉を真実とするような発想はありませんでした。「牛は家畜である」とする人間の言葉を真実とする。これが人間中心主義です。ギリシャの時代には、「牛は家畜である」と言表したところで、これが真実であるとは誰も考えていませんでした(おそらくそういう言表をする人はいなかったでしょう)。もういちどいいます。人間の言葉を真実とする。これが人間中心主義です。「病気はない」という言葉を真実とする。これが生長の家です。ギリシャの人々は「病気ない」とはけっしていいませんでした。なぜなら、真実は、言葉にでなく病気のなかにかくされていたからです。
843 :初心者:2014/03/26(水) 20:38:26
もういちどいいますよ。出来事をたんに言表に一致させるだけであれば、なんの問題も生じないのです。これに実相かくわわったことで、言表と出来事との一致が価値判断の問題とむすびついた。これが問題なのです。「病気がない」という言葉は、それがあるかないかを問題にしているのではなく、それが真実であるかないかを問題にした言葉なのです。真実でないから病気はない。こういうことですよね。ではいったい、誰が真実でないと決めているのですか。人間をおいてほかにいませんよね。「病気はない」との言表は価値判断の結果の言表なのです。どうやって判断するのかといえば、実相に照らして、です。ギリシャ人ももちろん善悪の判断はしていたでしょう。しかしそれは、そのものがどうであるかで判断がなされていたのですよ。それが重くて動かしにくければ「悪である」や軽くて動かしやすければ「善」であるというように。実相がどうだから「これは善である」とか、こういうことをギリシャ人は言っていなかったのです。生長の家はちがうでしょう。価値判断は「実相」という絶対的ともいえる基準に照らしてなされますよね。「肉体ありとするのは虚説である」というように、実相という絶対的な基準に照らして価値判断がなされますよね。ギリシャの時代には価値判断の基準は人間の側にはなかった。重いとか軽いとかいうように、そのものの側に価値判断の基準があったのです。「病気は苦しいからいやだ」というのはあっても、「病気は実相ではないからナイ」とはけっしていわなかたのです。人間中心主義とは、ものごとの価値を、人間のなかですでに用意されている基準で決めることをいいます。生長の家がやっていることもおなじですよね。もちろんギリシャ人はこのようなことはやっていなかった。人間中心主義をやめるには、人間のなかに用意された基準でものごとの価値を決めるやり方をうたがってみる必要があります。生長の家にこれができますか、ということです。
844 :初心者:2014/03/26(水) 21:02:50
もういちどいいます。ギリシャの時代には人間の外側にあった価値基準を、イデア論は人間の内側に持ち込んだ。これによって、「ものごとの価値を判断する基準は人間にあり」とする人間中心主義がはじまった。人間中心主義をやめるには、価値基準をもとあった場所に返さなければならない。生長の家にこれができますか、ということです。
845 :初心者:2014/03/26(水) 22:48:05
人間の外にいる神が、ものごとの価値を人間につたえていたのです。自然の価値は自然が決める。ギリシャ人はそれにしたがうだけです。生長の家はどうでしょう。総裁の価値は誰が決めているのでしょう。総裁自身が「自分は虚説である」と復興Gさんにつげているのでしょうか。それとも、復興Gさんがそのように決めているのでしょうか。復興Gさんのなかの神が決めているのだとしたら、人間中心主義となにもちがったところはありません。
850 :初心者:2014/03/27(木) 10:21:51
言表と出来事との一致をもって真理となす。これがわたしの定義する人間中心主義です。これがなにを意味するか、具体的に説明してみましょう。たとえば「牛を育てて食べたい」とおもったとします。そしてじっさい、牧場で牛を飼って食べたとします。しかしこれは、人間中心主義ではありません。「牛は人間が食用にするために宿命づけられた生き物である」と言表したときに、これが人間中心主義になるのです。「食用にするため」というのはひとつの命題です。ではいったい、誰がこの命題の正しさを保証しているのでしょう。もちろん人間ではありません。それはあきらかに人間を超えた存在ですね。その存在をイデアと呼ぶこともできますし、真理と呼ぶこともできます。人間中心主義は、人間にとって都合のよい命題の正しさを保証する真理を必要としているのです。たとえば地下資源です。「地下資源は人間のためにある」と言表するのが人間中心主義です。なぜ「ためにある」といえるのかといえば、それが真理だからです。じっさいにも、「牛は人間が食べるために存在する生き物だ」といっている欧米人がいましたね。欧米人にとって、これはうたがう必要のない真理なのでしょう。言表に出来事を一致させただけでは人間中心主義にはなりえません。「一致」を真理とするとき、それが人間中心主義となるのです。「総裁は虚説である」と言表するのと、「総裁は人間的におとっている」と言表するのとでは、その意味あいはまったく異なっています。「総裁は虚説である」との命題を支えているのは真理だからです。人間中心主義の命題の正しさを支えているのも真理です。両者に構造的な共通性をわたしは感じます。
852 :初心者:2014/03/27(木) 10:35:42
復興Gさんの発言の特徴は、自分の意見の正しさを「反証不可能な超越項」に保証させていることなのですね。「反証不可能な超越項をもちだされたのでは議論にならない」と反論しても、それでもやはり、超越項をもちだして自分の意見を述べられます。反証不可能な超越項をもちださなければなにもいえない人が、いったいどういう仕方で世間にアピールなさるのか、それを教えていただきたいですね。
854 :初心者:2014/03/27(木) 11:09:09
復興Gさんの言表を支えているのは反証不可能な超越項です。人間中心主義を支えているのも反証不可能な超越項です。復興Gさんが人間中心主義に異議をとなえたところで、しょせんそれは反証不可能な超越項どうしのぶつかりあいでしかないのです。人類の歴史のなかで、反証不可能な超越項どうしのぶつかりあいで解決できた問題があったでしょうか。解決があったとすれば、それは超越項どうしのぶつかりあいを武力によるぶつかりあいに置き換えたときだけでしょう。解決といっても、もちろんそれは一時的な解決でしかありません。総裁が異議をとなえておられるのは、人間中心主義を支える反証不可能な超越項にたいしてであるとおもいます。反証不可能な超越項もちいて自分を正当化するのはやめましょう。おそらくこういうことをいっておられるのだとおもいます。反証不可能な超越項について説明します。たとえば「牛は人間が食べるために存在する生き物だ」との言表は反証不可能な超越項です。訊けさんは、こうした言表の間違いを論証できるとおもいますか。言表を支えているのは真理ですから、論証は不可能です。「超越項」とは、言表を支える根拠を人間の手のとどかぬところに置こうとすることです。
868 :初心者:2014/03/27(木) 12:37:03
わたしがここでなそうとしているのは、「総裁がなにを考えておられるか」を解き明かすのではなく、総裁がなさっておられることがいかに理にかなっているか、ということをロジックとして組み立てることなのです。ロジックとして組み立てることができれば、総裁の真意がどうであれ、なさっておられることを正当化できるでしょう。
869 :初心者:2014/03/27(木) 13:17:57
わたしは、雅春先生の教えからは、人間中心主義に対抗できる原理はとりだせないと考えています。たとえとりだせたとしても、真理と真理のぶつかりあいになるだけで、問題はなにも解決しないと考えます。人類はあるとき、真理によって言表を支えることができるということに気づきました。しかも、真理によって支えることで、自分の言表が絶対的な力をもつ、ということにも気づいたのです。言表しさえすればそれが真理になる。こういう仕組みを人類は手に入れたのですね。こうした仕組みをもちいて、人類は、人間中心主義の思想を組み立てていきました。それは人類にとって都合のよすぎる仕組みでしたが、真理がその正しさを保証してくれました。人間中心主義に対抗するには、それを支えてきた真理を否定するのではなく、その仕組みじたいを否定するしかないと、わたしは考えます。真理によって真理を否定することはできない、ということはすでに歴史が証明しているはずです。否定できるとすれば、それは真理を言表の支えにしようとする人々の考え方だけであると考えます。生長の家が、真理を言表の支えにしようとする人々の考え方に反対できるはずがありません。総裁はおそらくこのことに気づいておられるのでしょう。
871 :初心者:2014/03/27(木) 16:53:54
>うん、じゃあ、そういう事でいいんじゃないですか。 わたしは、「筋書きの妥当性」の評価を訊けさんにおねがいしたわけです。「妥当性はある」と認めていただいたことにいたします。ご協力に感謝いたします。
>いや、はっきり申しますが、「全然オモシロクないやり取り」でした。 訊けさんがこのようなことをおっしゃる人であるとはおもってもいませんでした。武士の情けぐらいはわかる人だとおもっておりました。いずれにしてもせっかくのやりとりが、このひと言で「おまえさんのいってることはなんの意味もないんだよ」ということにされてしまったようです。残念でなりません。それと訊けさんが「身内びいき」をされる方であるということもわかりました。
最後の最後で「なんちゃって効果」をもちいられましたね。「誰かがやる」とはおもっておりましたが、まさか訊けさんがやられるとは。ではこれにて。
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<総括コメント>
@ 大閑なのだが、「唐松模様」には書くに書けない。書けば「枯れ松模様」となる。だけど、開祖・谷口雅春先生を凌駕し見下すことを書きたい執念は疼く。そこで、又もや「初心者」を表に立てた。そして、マサノブ君は“肉体頭脳”(人間知)を最高度に駆使して一般信徒のレベルでは理解不能な哲学論争を挑んだ“つもり”だったが、効果は逆となった。マサノブ擁護派からも大反撃を喰らい、遂に四面楚歌、自縛し < ではこれにて > と尻尾を巻いて「身分いやしきもの」と同じく退散せざるを得なくなったのであります。
A マサノブ君の擁護派からも、「全然オモシロクないやり取り」とか「おまえさんのいってることはなんの意味もないんだよ」とまで酷評されてしまったのであります。悔しくて悔しくて仕方のない寂寥感を感じているかもしれないマサノブ君、然し彼はこのままでは引き下がらないであろうと思われます。しばらく時間を置いて亦、鎌首を持ち上げてくるでしょう。何しろ、セレブ大閑人、パソコン大好きであり、年収5000万円超?、1000億円の信徒の浄財である教団資産を独裁権力をバックに握っているバサラ(破壊と蕩尽)の帝王でありますから。
B 「初心者」=マサノブ君の屁理屈理論戦を通じていえることは、――
イ、 「真理は霊的に理会することが必要です。頭で真理を理会するということは、真理の周囲を堂々巡りして真理の外的な姿を知るに過ぎません。」という開祖・谷口雅春先生の言葉がマサノブ君によってシッカリと証明されてしまったと云うことであります。
ロ、 そして、宗教家を自称するマサノブ君の最大弱点(アキレス腱)は、「超越項」にあると云うことであります。即ち、<「反証不可能な超越項をもちだされたのでは議論にならない」> という事を一昨年「初心者」登場の時と同じように認めたのであります。
C マサノブ君は、左脳と右脳で思索します。左脳思考と右脳思考という言葉は一般人を煙に巻く現代流言葉に聞えますが、言い換えれば「肉体頭脳」で考えること、端的に言えばマサノブ君の忌み嫌う“人間知”であります。学者・評論の世界では“人間知”の限りを尽して理論を組み立てていきますが、第一原因にまでは到達できないのであります。マサノブ君もその一人であります。
D 多くの学者の人々の中には、人間知を駆使しての研究の結果第一原因の世界からの高度な“ひらめき”を感得する人も稀に現われますが、マサノブ君はその部類には到底はいれない人であります。彼・マサノブ君の思考は、根本的にはバサラ(破壊と蕩尽)的思考であり、さらに二重人格的分裂思考でありますから、自分ではまともに見えても、支離滅裂になっていくのであります。然し、彼自身はその自覚は全然無くバサラ街道まっしぐらに驀進するのであります。(人格分裂思考は複数の憑依霊の為であります。)
E マサノブ君は宗教家でありながら、開祖・谷口雅春先生が到達された「無」の関門を透過した「悟り」の生命的具体的体験、――絶対実在の絶対把握、絶対実在の直接認識、――が無いものですから、この観点からの反論には太刀打ちできないのであります。開祖・谷口雅春先生の「唯神實相哲学」・「生命の實相哲学」・「谷口哲学」は、尊師御自身が五感六感を超越して實相覚でもって直接ご覧になった世界であります。< “私は此の世界を直接見たのである。直接触れたのである。”絶対実在の絶対認識である。その絶対実在の世界は決して無常の「空」なる世界ではなく、金剛不壊にして、「実」なる世界なのである。>(『「驀進日本の心と力」第三章』と書かれているのでありまして、いかに屁理屈が大得意なマサノブ君であってもこれだけは否定できず、文句の付けようが無く、なにしろ自分自身が体験していないのですからまともに太刀打ち等出来るはずがないからであります。だから、マサノブ君は < 悟道=超越項 > を根っから忌み嫌っているから<「反証不可能な超越項をもちだされたのでは議論にならない」>と逃げざるを得ないのであります。
F マサノブ君は“真理”という言葉だけは使うのでありますが、< 悟道=超越項 >を忌み嫌い、絶対実在の絶対認識の体験がないのですから彼が開祖・谷口雅春先生が悟得された如き絶対真理が本当には判ってはいないのであります。判っていないで「真理」と言う言葉を使うのであります。判っていないならば開祖・谷口雅春先生のお説きになる「絶対真理」をわれわれ信徒と同じく素直に受け入れれば良いのでありますが、彼・マサノブ君は自尊心満々な“夜郎自大”の性格が災いして、素直に受け入れないのであります。
G 「絶対真理」の何たるかを自分のものにする為に大切なことは、「絶対真理」の境涯に実際に到達された“師”の言葉を「吸い取り紙が水やインクをそのままスゥーと吸い取っていくが如き」素直さが大切であります。これが、宗教や信仰の世界に生きる者の基本的態度であり、それによってその人の霊魂進化向上(實相顕現)が為されていくわけであります。然し、マサノブ君の進んでいる道は、求道者の道ではなく、非宗教者、且つ、非信仰者の道であります。霊魂進化が遅々として進まない唯物論学者・唯物論評論家の道であります。たとえ、「絶対真理」を求めていても、理屈だけの世界ではいつまで経っても堂々巡りをしているだけ、こう言えばああ言う、ああ言えばこう言う、果てしなき理屈の無限循環をしているだけであります。このことを、今回、見事にマサノブ君が証明してくれたのであります。彼の「生長の家教団」に於ける役目はこれで終了したのでありますから、この際自分から勇退して、理屈で生きられる世界へ転身する方が御自分のためでありますぞ。今の状態では信徒たちの霊魂進化(實相顕現)の道を阻んでいるのでありますぞ!! マサノブ君のお得意な言葉、――“わかりますか?”
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