生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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「宗教」の範疇からハミ出し、「哲学」の手法に走る、マサノブ爺さん!! (3691)
日時:2014年04月03日 (木) 22時51分
名前:サーチャー


<トキ掲示板(本流対策室/5)>


6646 :トンチンカン:2014/04/03(木) 22:20:12 ID:itK3HnHY

「宗教」の範疇からハミ出し、「哲学」の手法に走る、マサノブ爺さん!!


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2144 名前:初心者 投稿日: 2014/04/03(木) 21:49:43 ID:k.9Qtig6訊け様

和解が不可能であることは、以上のやりとりからもおわかりになられたでありましょう。
「人間知」という言葉を手放す気など、連中にはまったくないのです。手放すということ
がどういうことか、連中がいちばんわかっているはずです。
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・<宗教家>と自称しながら、「宗教というのは一番の核心に啓示があるんです」・・と
 いう 根本 を無視しているのです、マサノブ爺さんは・・・


・その核心にある<啓示>を受けて、谷口雅春先生が『生長の家の<御教え>』を説かれ
 たのであります。


・その<啓示>が「真理」である・・と分かったということが、説明するより先に存在す
 るわけです。


・そして、その『生長の家の<御教え>』を「信じる」のか、「信じない」のかが問題な
 のです。 これを信じる人達こそが「信徒」なのであります!!


・マサノブ爺さんは、ハッキリ言って「生長の家の信徒」ではないのであります!!!




<哲学と宗教の違い>・・(参考)
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 小阪修平の『はじめて読む現代思想』(芸文社)という本に、哲学と宗教の違いが次の
ように書かれている。 

 …哲学というのは、もともと「○○とは何か」という問いではじまった思考のシステム
のことです。「○○とは何か」というのを「なぜか」と言い換えてもいいんですが、「あ
るとは何か」(存在の意味ということですね)、「自分とは何か」とか、かんたんに答えら
れない問いを必然的にだしていきます。もっとちがう言葉で言えば、物事の根拠までもん
だいとしていくのが哲学です。…

 「○○とは何か」という問い、たとえば「自分とは何か」とか、あるいは「われわれは
どこから来て、そしてどこにいて、これからどこに行くのか」とか、そういう問いを哲学
と宗教は共通してもっています。

 哲学と宗教のちがいがどこにあるかというと、…一言で言うと、宗教というのは一番の
核心に啓示があるんです。啓示というのは、あるとき、神様か何か知りませんが、そうい
うものがぼくに働きかけるとか、あるときぼくが悟って世界の真理を見てしまうとかね。
ちなみに、世界の真理を分かった人のことを仏様と言います。分かったということが、説
明するより先に存在するわけです。そういうのを、誰でもが使える言葉で探求していこう
というのが哲学であると言えます。

http://koharu65.exblog.jp/9729094
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