生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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「聖典に書かれていること」が問題ではナイ、「いかに行為するか」で決まる? (3721) |
- 日時:2014年04月07日 (月) 19時12分
名前:サーチャー
<トキ掲示板(本流対策室/5)> ======================================== 6661 :トンチンカン:2014/04/07(月) 17:22:10 ID:itK3HnHY
「いかに行為するか」できまるのはないでしょうか
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 2211 :初心者:2014/04/07(月) 16:54:46 ID:k.9Qtig6
訊けさんは「聖典にはこのように書かれてある」といって反論なさいますけども、なにが 書かれてあろうとも「成れる果」で判断するしかありません。「成れる果」とは、なにを 語るかではなく、「いかに行為するか」できまるのではないでしょうか。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
・マサノブ爺さんは、「いかに行為」してきたのであろうか?
・雅春先生が「大調和」を聖典に書かれていようとも、<ご兄弟との大不調和>を実践し ているのであります!!
・このこと一つをとっても、『なにが書かれてあろうとも「成れる果」で判断するしかあ りません』・・なんてよくも言えたものです・・・
======================================== 6662 :トンチンカン:2014/04/07(月) 18:43:34 ID:itK3HnHY
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー <言行不一致>の「成れる果」とは・・・?? ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
・マサノブ爺さんと言えば、<言行不一致>の権化なのですね・・・
・自作自演の<法燈継承>という 「大ウソ」 をついて平然としているのです。
・「叱咤鞭撻があればありがたくお受けし、自らの向上に努める所存である」・・なんて のも「大ウソ」なのです。
「叱咤鞭撻があれば、激怒してその人間を“左遷”し、“退職”へ追い込むよう努める 所存である」..と聞こえてくるのですが、トンチンカンだけでしょうか。
・「私は、自分を隠して表面だけを繕い、人さまに立派なことを言おうとは思わない」と ね・・・ 「四無量心」なんて説きながら、「親不孝」もするのです!!
・『もし読者がこの本を読んで、「何だ、こんな人間が指導する宗教はツマラナイ」とお っしゃるなら、残念ではあるが仕方がない』・・と、完全に 開き直って いるのです。
・今の教団の<教勢>は、「急激な減衰」が続いているのですが・・・
(参考) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「小閑雑感」 2009年2月22日 『目覚むる心地』について
まもなく訪れる生長の家の春季記念日には、私が生長の家総裁の法燈を継承する祭祀が 行われるが、この日を記念して出版される随筆集『目覚むる心地』(=写真、生長の家刊) が手元に届いた。この本には、私が本欄で書き継いできた文章の中から、私生活や家庭・ 家族に関するような“私的”なものばかりを集めてある。古いものは2001年1月、新し いものは昨年の12月まで、8年間に書いたものが全部で66篇収録されている。
宗教家がある教団組織の責任者になる時に、自分の私生活を公表するということを奇異 に感じる読者がいるかもしれない。しかし、私は本欄などですでに私生活は公表している し、この際、何か気取った本を出すよりも、「こんな人間ですが、よろしくお願いします」 という気持で、皆さんにご挨拶したいのである。もし読者がこの本を読んで、「何だ、こ んな人間が指導する宗教はツマラナイ」とおっしゃるなら、残念ではあるが仕方がない。 私は、自分を隠して表面だけを繕い、人さまに立派なことを言おうとは思わない。それは、 どこかの政治家がやっていることで、宗教家のすべきことではない。そんな考えで、皆さ んの前に立つ気持である。叱咤鞭撻があればありがたくお受けし、自らの向上に努める所 存である。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ========================================
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