生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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5・4「枯れ松模様」 マサノブ君の自由は、信徒の不自由・信徒の自由はマサノブ君の不自由! (3936)
日時:2014年05月07日 (水) 00時02分
名前:怒れる信徒代表



久し振りに「唐松模様」の記事更新したマサノブ君でありますが、宗教の本来の使命(衆生救済と国家の救済)はそっちのけで、相変らず三流評論家の定評通りに「自由と不自由」についてどうでもよい屁理屈論理を展開して自己満足しているのです。



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2014年5月 4日 (日) 「唐松模様」=自由と不自由=(要旨)

 << 書道家の武田双雲氏が、インタビューに答えてこんなことを言っておられた、――
「自由と束縛(制限)って、相反しているようだけど、どちらかが欠けても成り立たない。光と影のようなもので、束縛が自由を生んでいると思うんです。束縛が強いほど自由を感じますね」。・・・何かをする自由・・・文章を考えることも、話を聞くことも、あるいは本を読むことも、 ・・・それらはすべて自由が束縛されることによって、初めて可能になるのだ。・・・文章を書いている時には人の話を聞く自由は束縛されていて、人の話を聞いているときは、読書の自由は奪われている。学校で野球部の一員になろうと思えば、テニス部には恐らく入れてもらえない。ハイテク企業のA社に就職すれば、ライバル企業のB社の仕事は自由にできない。このようにして、「何かをする」という自由は、必ず「それ以外のものはできない」という束縛を必ず伴うのである。 ・・・私たちは、不自由だと感じている時にこそ自由のただ中にいるのである! しかし、それならなぜその自由を実感できないのだろう? 理由はたぶん、私たちの気持が、その自由の方向に向いていないからだ。自分が「こうしたい」と思う既定の方向に固着しているからだ。その方向にたどりつくまでの道筋さえ自分で勝手に決めてしまい、「この道でなければならない」と断定している、こういう固定的で融通のきかないこだわりを「執着心」と呼ぶが、ここに問題が一つある。それは、何ごとかを達成するためには努力をしなければならないが、その努力は執着心なくしては不可能だと思われることだ。では、一定の方向に目標を定め、その目標に到達しようと努力しながら到達しえずにいる人たちは、自由なのだろうか、それとも不自由なのだろうか? この答えは、「ああ、物事は自由にならない!」と嘆息している人、その当人が、実は自由のただ中にいるのである。このように、「自由」という言葉の意味は簡単そうでいて、なかなか難しい。 試しに三省堂の『大辞林』(1988年)を引いてみると、ある個人が自由であるかどうかを判断する大きな条件は、「自らの意志や本性に従っている」かどうか、また「内なる必然から決し」ているかどうかである。が、私が羽田空港の待合室でいったんコーヒーを飲もうと思ったが、妻の言葉を聞いてそれをやめ、トマトジュースに替えた例を見てもわかるように、ある個人が、自分以外の誰にも影響を受けずに何かを決めるようなことは、現実にはあまりないだろう。では、我々はやはり不自由な存在なのだろうか? 谷口 雅宣



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<講評>


@ 「小人閑居して不善をなす」―― つまらない人間が暇でいると、ろくなことをしない。現在のマサノブ君はまさにこの様な状態にあるのである。衆生救済を放棄し、国家の現状を憂うこともせず、教勢低下もなんのその、信徒の浄財で環境改善道楽遊びに専念す。何しろ“大閑人”(おおひまびと)であるから、ゴールデンウィークも豪華総裁邸のペンキ塗り、枕木の廃材を電動ノコギリ(人間至上主義の生産物)で切断して花壇作りを楽しむ!



A そして、パソコンに向かって「自由と不自由」のことをあーだ、こーだと理屈を付けて思索をめぐらす。この様な理屈を思索させるために、われわれ信徒は「聖使命会費」を奉納しているのではないのである。宗教家としては既に落第生である。



B マサノブ君の上記投稿文のなかで、注目するとすれば、最後の部分に書いている < ある個人が自由であるかどうかを判断する大きな条件は、「自らの意志や本性に従っている」かどうか、また「内なる必然から決し」ているかどうかである。 > この部分だけである。残りの部分は閑人の思索遊戯であり、毎日の生活を忙しく送っている一般信徒にはどうでも良いことなのである。



C マサノブ君は、自分の行動は「自らの意思」で「内なる必然」に従って決定していることなのだといいたいのである。だから現在の自分は自由の状態にあると得意満面に行動しているのであるが、その後でまたポロッとぼろを出しているのであります。それは、 < ある個人が、自分以外の誰にも影響を受けずに何かを決めるようなことは、現実にはあまりないだろう。> と云っているが、ここで彼は不用意にも自分は同じ思考傾向の悪霊の影響をうけて行動していることを認めたのであります。又それは事実であります。



D せっかくマサノブ君はオオヒマビト(大閑人)として、自由と不自由についてあれやこれやと人間知をひねくり回したのであるから、それに答えておく必要があるだろう。答えは、< マサノブ君の自由は、信徒の不自由・信徒の自由はマサノブ君の不自由!と云うことであります。マサノブ君のために解説いたしますと、――


イ、 マサノブ君は絶対権力者として教団内では完全自由に振舞える。その結果として、われわれ信徒は焚書坑儒の被害に遭って、開祖・谷口雅春先生の聖典や『甘露の法雨』をも自由に読めない不自由な状態に置かれているのであります。


ロ、 信徒が信教の自由の権利行使を行おうとすると、やめたら罰が当るとか不幸になるとか、マサノブ(自称)総裁に中心帰一していないと言って、信徒の自由を奪って、不自由の状態へと追い込んでいっている。これがマサノブ独裁帝王の陰湿なやり方である。現・マサノブ教団では、迷いの縛りを絶って神の子本来の無礙自由を得たいと思っても、逆に迷いが深まり不自由な環境に陥っていくのである。


ハ、 そこで、思い切ってマサノブ教団を飛び出して自由の身になって、本来の『御教え』を極めていくと、ますますマサノブ教が虚説である事が判り、マサノブ君は本流側信徒の自由闊達な追求によってますます四面楚歌、完全孤独、不自由極まりない境涯へと落ち込んでいくのであります。



現在のマサノブ(自称)総裁の精神状態は、形の上は自由独裁であるが、内心は追い詰められた不自由極まりなきところの精神的牢獄の中にいるのであります。マサノブ君がこの不自由さから脱して本当の精神的解放感(自由)を味わうには、直ちに総裁の椅子を降り、教団から退去していくのが最善の執るべき道なのであります。







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