生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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復習: 聖経『甘露の法雨』の奇蹟 G (326) |
- 日時:2013年03月05日 (火) 10時00分
名前:ハスの華
合掌、ありがとうございます。 < 小は個人の病を癒し、大は国家の病を癒す > といわれて数えきれないほどの奇蹟が生じた天来の聖経『甘露の法雨』も、今や三代目の雅宣総裁は捨て去り、自分の頭で考え出した人間罪の子意識による「大自然讃歌」・「観世音菩薩讃歌」に置き換えようとことを進めております。果たして雅宣総裁の新・聖経?は『甘露の法雨』を凌ぐ奇蹟を生じさせるでしょうか? この際、これまで生じてきた『甘露の法雨』の奇蹟の数々を復習する事は大変意義のあるところであり、ニュー信徒さんにも認識を新たにして頂きたいと思います。
なお、『甘露の法雨』がどうしても手に入らない方々は、(株)光明思想社 TEL: 03−5829−6581 へ申し込めば手に入ります。また、末端の誌友会では、まだまだ『甘露の法雨』による地方講師の指導が依然として自信を持って行われておりますので、奇跡的な結果も指導を受けた信徒さんの身の上には起っていることも沢山あります。其の際には、間違っても「大自然讃歌」・「観世音菩薩讃歌」による奇蹟だとすりかえられないようにご注意願います。
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聖経『甘露の法雨』の奇蹟 G
ハワイ日系二世部隊の奇蹟 『生長の家』四十年史(P.52−56)
<< しかしこのような奇蹟は個人に関する霊験の片鱗であって、もっと重大な奇蹟は終戦当時及びその後、日本国家の運命に及ぼした『甘露の法雨』の偉大なる事蹟である。
私は終戦の翌々年八月北海道登別温泉の第一滝本舘本館の大広間で、終戦後の北海道講習の第一声を挙げた。ホテルの大広間は寿司詰めに坐ると五百人ばかり入れるのである。集まる人が激減している終戦直後ではこの位の講堂で間にあったのである。午前の講習を終わって昼食をしたためていると、係りの人が、「先生、アメリカ軍の将校の人が先生にお目にかかりたいと言って来ています」というのだった。・・・彼はハワイ生まれの日系第二世の将校であった。
彼は私の顔を見ると、嬉しそうな表情をして、「先生、今度の戦争でヨーロッパ戦線で勝利を得た民族はどこの民族ですか知っていますか」と言った。「知らないよ。それは、何処の民族だろうね」と答えると、かれは意気軒昂というような身振りをしながら、「それは、日本民族ですよ」と言った。「それはどういう意味ですか」と私は思わず言った。するとそのアメリカ軍将校は大体次の様な事を話してくれた。―――
ヒットラー・ドイツを制圧するために連合軍が組織されて多くの船団に各国の兵隊を乗せてヨーロッパ戦線に送られて行ったけれどもどこにも適当な上陸地点がないのであった。そこで、最初に上陸の地点として選ばれたのがイタリーの南端のシチリー島であった。ところがそこは天然の岩窟の陰になっているところに要塞が築かれていて、そこに砲塁や機関銃座が沢山据えつけてあり、上陸用舟艇がある距離まで近づいて行くと、其処に、砲弾・機関銃弾が集中して、どの民族の部隊も全滅して上陸することが出来なかった。
最後に選ばれて上陸を敢行したのが、ハワイの日本民族第二世の部隊であった。日本民族第二世の部隊が召集されることになると、当時、ハワイの生長の家白鳩会の会長をしておられた宮川和子さんは、英訳の『甘露の法雨』をたくさん印刷してそれに神想観して祈りを篭め、応召出陣する第二世の兵隊さんのポケットにそれを一部づつ入れてやった。
そこでそれらの日本民族第二世の兵士たちは“われ『甘露の法雨』と俱なり。不死身の軍隊なり”という自覚で難攻不落のシチリー島に弾丸雨注する中で勇敢に上陸を試みた。ところが、『甘露の法雨』を携帯しているために弾丸が不思議に中らない。中には『甘露の法雨』に明らかに機関銃弾が命中しながら、それを貫通することが出来ないで、そこで弾丸が止まってしまっていて、肉体は傷ついていない人も大分ある。英訳の『甘露の法雨』は日本文のそれのように硬いサックも表紙もなく、ただ白紙に、新聞の五号活字位の大きさで印刷されているので、極薄い紙片にすぎない。それを弾丸が貫通しなかったのだから奇蹟というほかはない。
このような奇蹟があって、多勢の日本部隊がシチリー島に上陸することを得て橋頭堡が築かれ、続々と連合軍が上陸することが出来、北上してイタリーのムッソリーニを仆し、さらに北上してヒットラー軍を制圧して速やかに連合軍が勝利を得ることが出来たのであった。常にこの日本民族第二世の部隊は、難処に至るほど勇気を鼓して先頭に立って奮戦し連合軍を有利に導いて偉大なる戦功を樹てたのであった。これ全く『甘露の法雨』のお蔭であるということであった。
私は、その時にはその報告の事実だけをただ素直に受け取っただけであって、それがその後に及ぼす驚くべき影響については気がつかなかった。
だいたい大東亜戦争は、真珠湾集結のアメリカ太平洋艦隊に対する日本海軍の先制空襲によって始まった。それゆえに、日本に対するアメリカ側の憤りは実に熾烈で、アメリカ領のハワイ生まれの日本人第二世は、“アメリカ人”として市民権を本来持っているのだけれども、風当たりは烈しくて色々の差別的な待遇を受けたそうである。だから宗教でも、日本から往っている宗教の布教や集会は全然禁止せられた。仏教の僧侶は勿論のこと、キリスト教会ですら、日本から往っている宣教師のいる教会では集会は禁止せられた。
生長の家も当然布教が禁止さるべきであったのである。ところが英訳された『甘露の法雨』を米軍の検閲官が読んでみて、「この宗教は、どこも悪いところはないではないか、布教しても宜しい」ということになって、生長の家のみハワイは勿論アメリカ本土に於いても布教が許可されることになったのである。
ここに深謀遠慮の神さまの救済の摂理があったのである。もし生長の家の布教が許可されていなかったら、ハワイ白鳩会長の宮川和子さんは、英訳『甘露の法雨』を日本人第二世の兵隊に持たせることは出来なかったであろうし、日本人第二世の部隊は『甘露の法雨』に敵弾が当たりながら貫通する事が出来ず、傷つかずに、無事にシチリー島に 上陸することも出来なかったであろうし、そうなればその後の戦線の状況も自然に変化していたに相違ないし、あんなに早くヨーロッパ戦線は片付かず、尚、数百万の白人兵士の犠牲が必要だったかも知れないし、世界情勢は現在とは非常に異なるものになっていただろうとも想像されるのである。
ともかく、このシチリー島上陸作戦に演じた日本人部隊の功徳はアメリカ本土の中央政府は勿論、アメリカ国民全体に大きく報道せられ、この事績では日本人は戦勝功労者として広く称えられ、ハワイの日本人はアメリカに忠節であったそれゆえに、白人アメリカ人が尚、百万人以上も犠牲を払う必要があったのに、こんなに早く戦線が片づいたのは日本人のお蔭であると言い伝えられて、アメリカ全体の対日本人的好意が高まることになっていたのである。
恰度その時、天皇陛下が皇室の全財産及び、歴代天皇から伝わるところの宮中の御物までもアメリカ軍に提供して国民を餓死させないように願われた。それに動かされたマッカーサー元帥はついに日本に食糧を送るように中央政府に要望してくれたのである。しかし、アメリカは民主国家であるから、国民の世論がものをいうので、もしあの時、真珠湾を忘れるな、日本人が飢え死にするのは自業自得ではないかと言うような世論であったら、いくらマ元帥の要望があっても、トルーマン大統領は、日本への食糧補給にサインしなかったであろう。
ところが時のアメリカ人大多数の世論が、真珠湾への先制爆撃の旧怨をわすれて、「シチリー島でそんなに戦功をたてた民族の日本人が食糧に困っているならば、食糧を送ってやろうじゃないか」と言うことだったので、トルーマン大統領がガリオア資金という名称で日本に食糧を補給し、更に進んでエロア資金という名称で産業復興資金を貸与することにサインしてくれたのであった。
これが今日、日本の経済発展の基礎になっているのであって・・・実に『甘露の法雨』がシチリー島で戦功を樹てた功徳であり、生長の家の神さまが、あらかじめこの事に対し用意しておられて、敵国の宗教でありながら、ハワイで生長の家のみ自由に布教することを許され、そのために応召の日本民族第二世部隊の兵員に、一冊づつ『甘露の法雨』を持たせることが出来た結果だといい得るのである。>>
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