生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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カナダ、森井健二 (3943)
日時:2014年05月08日 (木) 07時39分
名前:森井健二

皆さん、折角本流を名乗るのですから、もう少し表現を慎みませんか。私はカナダに住んで、谷口雅宣さんの言動を見て、皆さんと意見を同じくする者ですが、マサノブ爺さん、マサノブ(自称)総裁くんなどと言わなくても、皆さんの真意は伝わります。カナダは皆さんより、生長の家本部に遠いところですが、皆さんの気持ちをよく理解していると思います。それから、本名を名乗ったらいかがですか?

本日の投稿は長いのですが、以下の通りです。

   −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

ほんの少しの違和感がる。誤った小さな記述がある。宗教や哲学は、うっかりするとこの小さな誤った角度を、気づかないうちに次第に大きく広げて、将来大きな「悪」を育てる。

谷口雅宣さんが作詞した「観世音菩薩賛歌」は、七節からなり、法則、秩序、自由、善、愛、祈り、そして観世音菩薩となっている。その「善」中の31ページ には次の如く詠われている。

猛獣走りて鹿を倒し、
カマキリの鎌、子虫を捕らうれども、
その結果、必ずしも悪にあらず、
善にあらず、
定められたる法則の産物にすぎざるなり。

一方、谷口雅春先生の「甘露の法雨」の「神」の4から5ページには次の通り詠われている。

一切の生物処を得て争うものなく、
相食むものなく、
病むものなく、
苦しむものなく、
乏しきものなし。

さて、観世音菩薩賛歌で「猛獣走りて鹿を倒すは、善でも悪でもない」とし、また、これは「定められたる法則」である、としている。ここで言う、法則とは現象世界の法則と理解されるが、宗教家が現象の法則などを言っても何の意味があるのか。現象の法則などは科学者に任せておけばよい。善悪の判断は、実相世界を規準として説かれるものである。また、この法則が神よって定められた法則である筈がない。

雅春先生はその唯神実相哲学の中で、常に善悪の基準は実相世界、神の世界に基づいて説いている。「善悪、調和不調和、健不健、常不常」などが意識されるのは、我々の生命が実在生命より来たったのであるから、自分の命が本来、「善、調和、健、常」であることを深層意識中で知っている為、その乖離を感じるからである、といつも説かれている。

ここで敢て現象の法則などを持ち出してくる意味はないばかりか、この「定められたる法則」が、ある人には実相の法則と誤解される可能性がある。生長の家は宗教なのだから、現象の法則などは科学者に任せておけば良い。

善悪の基準は実相世界、神の世界に基づいて説かれる必要がある。雅春先生の哲学は、次の如く説く。
•病気は実相生命にはないから、悪である。
•貧乏は実相世界にはないから、悪である。
•戦争は実相世界にはないから、悪である。
•食い合いは実相世界にはないから、悪である。

これらの悪は、全て人間の迷い心を原因としている。「食い合い」という現象は悪である。これは人間の迷い心を、直接間接にその原因としている。

野生の動物は病気しない。これが人間の精神雰囲気内に置かれると、病気する。生命の実相1巻、58ページ引用。

ごらんなさい、野獣には病気はないのであります。(中略)けれども野獣をつれてきて、人間に同居させ動物園なり、牧場なりに放って飼うようにし、人間の思想の雰囲気内に入るようにしておきますと必ず病気になります。

神は人間を万物の霊長としてお造りになった。その霊的能力は、他の被造物、被造生命を遥かに上回って、人間を一番とすれば二番三番はない、十番も百番もない程の突出した地位をしめている。従って、野性の動物は人間の迷いによって病気になるのと同じように、ある種の動物が肉食をするのは、やはり人間の影響と観るのが妥当で、無理な想像ではない。さらに言うならば、神の定めた世界の調和を乱すものは人間の他にはない。何故ならば、神は人間にのみ、完全自由を与え給うたのであるからである。

テレビでライオンが鹿追いかけているシーンを見て、鹿が首尾よく逃げることを願わずにいられない。雅春先生が蛇が蛙を飲み込むのを見て、蛙に憐憫の情を起こしたのは、生命に対する慈しみの心、愛の心の故である。実相の心、神の心に反するからである。食い合いの情景を見て、心乱れるのは、我々の深層意識に、食い合いの無い実相の心があるからである。

顧りみれば、過去営々と続いた思われる弱肉強食の歴史にも拘らず、多くの動物達が未だ草食であることを、私達は知る。象、キリン、馬、鹿、兎、羊、牛、豚、兎、バッファロー、ムース、等々。これらのけなげな動物達の実相生命理念が、現象世界に脈々として生き続いていることを観る。

神の子の遺伝子こそ、何にも益して最強の遺伝子であるからである。生長の家の使命はここにある。実相すなわち実在世界の様相を現象世界に顕現することにある。

•お釈迦様がお悟りになった後、森を歩けば様々な動物達が周囲に集まって、虎も鹿も狼も兎も鳥達もみんな仲良く一緒に歩き遊んだ、と言われている。
•聖書に、預言者イザヤが歌った理想世界がある。曰く。
狼は子羊とともに宿り
豹は子山羊とともに伏し
獅子は牝牛のごとく藁を食い
(後略)

万一、観世音菩薩賛歌のこの一説が、正しければ、

戦争も病気も貧乏も家庭不和も、
悪にあらず、善にあらず。
定められたる法則の産物にすぎざるなり。

と詠えてしまう。

生長の家の多くの信徒が、この新しい詩による教えの歪曲の為に間違った方向に指導されることを、恐れる。

法施は供養の中で、最高の供養である。その最高の法施で以って、真理でないことを説くことは、最大の罪を犯すことになる。その結果は、不幸である。教えられる人々に不幸を呼ぶ。それ以上に、雅宣さんおよび多くの講師が、不幸を迎えることになる。

「罪の値は死なり」と、雅春先生は言われました。私も敢て言わせて貰います。「非真理の伝道伝授は地獄である」と。

西暦553年、キリスト教会が開いたコンスタンティノーブルでのニカイヤの会議で、「輪廻転生」を否定する決議のように、真理が曲げられてゆく。総裁自身がこれを曲げてしまう。講師がこれを伝道する。後に続く者を間違った方向に連れてゆく。

雅春先生は、真理を真理として正しく伝わるように、ご自身が筆をとり、400冊以上もの本をお書き下さった。にも拘らず、こんなにも早く非真理がやってきた。


結論。   

故に「猛獣走りて鹿を倒すは、悪なり。」と断定しなければなりません。更に、この「観世音菩薩賛歌」を直ちに絶版すべきである、と信じます。







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