生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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5・12、26「唐松模様」自由と不自由ABの講評――小人閑居にして不善を為す(大閑人マサノブ君、森の中でパソコンの虫になるのみ) (4072)
日時:2014年06月01日 (日) 11時31分
名前:怒れる信徒代表




5・4「枯れ松模様」 マサノブ君の自由は信徒の不自由・信徒の自由はマサノブ君の不自由! ――と私は講評させて頂いたのであります。全国的な聖使命会員の脱退が後を絶たず、大幅な教勢低下が続く中で、目的が生長の家教団の解体にあるため、マサノブ君はいささかも動ぜずに、本部直轄掲示板上で次々とハンドルネームを変えて異才「トンチンカン」氏を相手に論争を挑むことに生き甲斐を感じている様子であります。

しかし、如何に人間知(IQ指数)の勝れたマサノブ君といえども、異才「トンチンカン」氏には歯が立たず、捨てゼリフを繰り返すばかり・・・その間を縫って気晴らしに「唐松(枯れ松)模様」に書き込んだのはいいが、この投稿文も決して“衆生救済”の役目ある宗教家とか“いのちの世界”を真剣に求める求道者の文章だとは到底思えないものであります。宗教的・求道者的には実にくだらないマサノブ君の“枯れ松文章”の要旨を掲げることにいたしましょう。




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5月12日  =自由と不自由 (2) =
<< 自由とは、目前の自分の可能性のことを指すと考えるのでは不十分である。生まれたばかりの赤ん坊は“無限の可能性”をもっていると考えることができるが、その子は実際にはほとんど何もできない。そんな赤ん坊を「自由な人間」と考えることはできない。だから自由とは、「何かをする」と決めた彼が、そのことを実際にできるのでなければならない。 また、「何かをする」ということは、「それ以外のことをしない」という選択でもある。喫茶店でコーヒーを注文すれば、それは、トマトジュースはそこでは飲まないという選択でもある。「コーヒーをください」 と注文してから、実際にコーヒーが飲める状態になるまでの間、注文者は自由だろうか? しかし、私たちが心で感じる自由の感覚−−ここでは「主観的自由」と呼ぼう−−は、選択から希望の実現までのタイムラグや過程をどう評価するかに大きく左右されるのである。注文して数分でコーヒーが出てくれば自由を感じ、20分では不自由を感じる。「自由」の定義をここで再び確認しよう−−「他から影響・拘束・支配などを受けないで、自らの意志や本性に従っていること。また、そのさま。」 この定義による自由を、仮に「客観的自由」と呼ぶとする。私が思うに、このような客観的自由を有する人間は現実には存在しない。すべての個人は、程度の差こそあれ、自分以外の多くの人々の考えや意見に影響され、時には支配されている。 では、私たちは「自由」を追求することをやめ、不自由に甘んじて、人生を諦めて生きていくべきだろうか? 客観的自由は、恐らく現象世界には存在しない。しかし、主観的自由は、私たちの心しだいで感じることができるのだから、それを享受しながら、希望をもって積極的に人生を歩むことができる−−と述べたいのだ。 谷口 雅宣 >>


5月26日 =自由と不自由 (3)=
<< 人間の心は、いわゆる自己意識でとらえられる「自己」の範囲をはるかに超える広がりをもつ。「自分とはかくかくしかじかのものだ」と意識している自分は、実は自分の心のごく一部分にすぎない。心理学ではそのことを「現在意識」と「潜在意識」という語で説明する。前者が“小さな自分”であり、後者が広がりをもつ“大きな自分”である。『大辞林』の「自由」の定義を眺めてみると、きわめて不十分な内容であることが分かる−−「他から影響・拘束・支配などを受けないで、自らの意志や本性に従っていること。また、そのさま。自ら統御する自律性、内なる必然から決し行う自発性などがその内容」 一般的に考えると、『大辞林』の自由の定義は、現在意識に限定された「意志」「本性」「自律性」「自発性」を問題にしていると思われる。 宗教を信じる人はすべて他人の言いなりになるのではない。むしろ、正しい宗教は、信仰者に自覚と勇気を与え、その人の人生における選択肢を拡げることも珍しくない。言い換えると、信仰者の自由を拡大するのである。 人が特定の宗教に入る、あるいは政党に所属したり、政治的見解をもったり、趣味をもったり、特定の人物を尊敬したり、愛したりする。普通の考えでは、これらは自由意思にもとづく自律的な選択である。が、潜在意識の研究が進むにつれて、また、個人の心理が、周囲の人々や社会からどれほど影響されるかが分かるにつれて、「自由な選択」という考え方の根拠が危うくなってきている。生長の家で常に「三正行」を実践し、“神の御心”に照準を合わせて自らの日常生活を律することをお勧めする意味は、こういうところにもある。世の中の“風潮”とか“トレンド”とか“世論”などを盲信してはならない。それらは、強大な権力や資力や発言力をもった人物、企業、組織の利益誘導行為の結果かもしれないのだ。 谷口 雅宣>>




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<講評>


上記引用のマサノブ君の<自由と不自由>の文章には二つの問題点があるのであります。


@ 現実と遊離した“象牙の塔”という研究室という学者連中の議論に過ぎないと云うことであります。「主観的自由」だとか「客観的自由」だとか、この様なことを考えて理屈の上に理屈をいくら積み重ねていっても、“象牙の塔”という温室的環境から出て一般社会の中での経営活動、営業活動、家庭の中などで毎日生起して来る問題に直面した場合、自分の現在直面している問題は、<自由と不自由>という哲学的命題から考えてどう解釈したらいいのだろうか? あるいは、自分の実際直面しているこの問題は、ひょっとすると<それらは、強大な権力や資力や発言力をもった人物、企業、組織の利益誘導行為の結果かもしれないのだ。>だから、<世の中の“風潮”とか“トレンド”とか“世論”などを盲信してはならない。>・・・このように考えあぐんでしまうと現実の社会生活のなかで生活の糧を得るために働き生きている一般人はニッチモサッチモも行かなくなるのであります。故に、マサノブ君は宗教家とか求道者であると自負する限りにおいては、生活の糧の心配する必要のない“象牙の塔”という温室のなかでのみの議論の為の議論など書くべきではないのであります。


A 上記文章の中でマサノブ君はいう。「他から影響・拘束・支配などを受けないで、自らの意志や本性に従っていること。また、そのさま。このような客観的自由は、恐らく現象世界には存在しない。しかし、主観的自由は、私たちの心しだいで感じることができるのだから、それを享受しながら、希望をもって積極的に人生を歩むことができる  宗教を信じる人はすべて他人の言いなりになるのではない。むしろ、正しい宗教は、信仰者に自覚と勇気を与え、その人の人生における選択肢を拡げることも珍しくない。言い換えると、信仰者の自由を拡大するのである。」


現在の「マサノブ教団」の中には“客観的自由”というものは殆んどない極めて不自由な教団内環境であるとは多くの信徒の認めるところであります。教団内の全権力を握り、意見・諌言を為す職員は左遷して退職へ追い込み、マサノブ中心帰一を強要して、それに従わないで脱退する意思を表明する信徒に対して組織幹部は、「神様との縁が切れて不幸になりますよ」、「仲間から見放され寂しい老後しかないですよ」と脅迫めいた言を弄しているのであります。マサノブ君が上記文章の最後のところで<正しい宗教は、信仰者に自覚と勇気を与え、その人の人生における選択肢を拡げる>と書いているが、この様な「マサノブ教団」の実態を考えると、「マサノブ教」は“正しい宗教”とは言えないことになるのであります。(マサノブ君は、間違ったタイプの信仰をもつと、いわゆる“マインドコントロール”が起こることは事実である。と書いておりますが、彼自身はかつて講習会において自ら信徒に対して民主党支持のサブリミナル暗示を掛けた実績を持つものであることをお忘れなく。)


B マサノブ君の文章、<正しい宗教は、信仰者に自覚と勇気を与え、その人の人生における選択肢を拡げることも珍しくない。言い換えると、信仰者の自由を拡大するのである。>、<生長の家で常に「三正行」を実践し、“神の御心”に照準を合わせて自らの日常生活を律する>、この二つの発言はそのとおりでありますが、この理解と実践のためには「人間神の子」の真理の理会と自覚が必要であります。マサノブ君の文章は理屈の為の理屈の文章であるから、何時もこの「人間神の子」の真理の部分が抜け落ちるのであります。そこで、次に開祖・谷口雅春先生の「人間神の子」の“自由”に関して書かれている真理の御文章の一部を引用転載させて頂きます。



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* 「真理」第十巻・實相篇 =人間には完全な自由がある=

<< 神は自由であるから、神の自己実現たる人間も自由なのである。神の自己実現である人間が、機械的に宿命によって動かされていると云うことは決してあり得ないのである。神は人間に“無限の寶庫(ほうこ)“を内在せしめて、それを「自己発見」させるにまかせられていられるのである。しかしそれは“寶庫”にしまってある寶もののようなものであって、人間が惰眠を貪っていてはそれを得ることが出来ないのである。目を覚まして“寶庫”をひらいて見る事が必要である。“寶庫”を開いてみないで、“富”がないと考えてはならないのである。それは自己発見の世界である。科学は“物質的法則”と云う鍵をもって、その“寶庫”をひらいて行こうとしているし、宗教はそれに直感的に指導を与えて、発掘に便宜をあたえ、さらに発掘したものを、平和の方向に、調和の方向に、道徳的な方向に使用する事を教えるのである。>> (P.316)


* 「真理」第十巻・實相篇 = “自由”には必ず“過ち”の自由が含まれている =

<< 神は人間を“神の子”としてつくりたまうた。そして人間を一応“神の子”として独立自由の人格として干渉しないで其の為す「自由」にまかせ給うた。かくて人間は過ちを犯す「自由」も与えられた。“過ち”をするとはあるべき筈の“正しき位置”から墜落するということである。“過ちを犯す自由”だなんて、そんな自由はある筈はない、そんな自由を神が与えたまう筈はないと抗弁する人があるかも知れない。併し、墜落する自由も脱線する自由もなくて、軌道(レール)の上だけ正しく走るように設計された機関車には果たして自由はあるであろうか。それはただ機械的に軌道の上を走るだけである。機械的に正しく軌道を走っても、それは「正しい」とは言えても、「道徳的に善である」と言うことはできない。「道徳的善である」ためには、常に墜落したり脱線したりする自由が一方にあるのに、みづから好んで墜落したり脱線したりしないところに善としての価値があるのである。自由の一方には必ず墜落や脱線が準備されているのであるから私たちは自由を濫用して脱線してはいけないのである。>> (P. 40)


* 『生命の實相』第十四巻・倫理篇下・第八章 =「無軌道の倫理」=

<< すべての人間が、本当に幸福になる事ができず、喜んで善行ができないのは、あまりに彼らを縛るところの掟(おきて)が多いからであります。善事にでも縛られたら喜んでそれに服したくないのは人間の自由のの本性からくるのです。定規をあてた直線は、その真っ直ぐさは何ものよりもまさっているにしても、手で自由にひいた線の少しぐらい歪んでいる方に味わいがあり、芸術家はむしろ後者を選ぶものであることは、<自由は生命の本性であるからです。>自由に引いた線は、定規をあてた線よりは形の上では劣っているように見えましても、それは畢竟(ひっきょう)いっそう美しいのであります。生命が自由に表出したものはなんでも美しいのであります。あまりにも周囲から人間の行為に規則や束縛で定規を当てようとするならば、かえって人間は反動的に歪んだ行いをするようになるのであります。

だから余りに人間の生活に定規を当てないようにせよ。あまりに人間の生活に定規を当てすぎるとき生命の反動でかえって大なる歪みを生ずるか、あるいはまた生命が萎縮してしまって本当の味が出ないかするのであります。生命は邪(よこしま)な道に外れてしまうか、縮(ちぢ)こまって生気をうしなってしまうかするのであります。

生命は神より来ったものであるから神であり、自主であり、自尊であります。神であり、自主である生命を画一的なルールで型に嵌(は)めようとするのは、神に対する冒涜であります。生命は機械ではない、内から啓(ひら)き出でる創造的な進化の力であります。無限に新しき創造が生命の本姓であります、縛らないところに本物の味がでるのであります。

だからわれわれはできるだけ生命を縛る規則を少なくし、生命それ自身の内からの創造力、内からの自浄力、内から生まれ出ずるそれ自身の美しさを育てるようにしなければならないのであります。そうするならば、規則に縛られないでいて本当に調和したリズムがその人の生活に顕われてくるのであります。<生命それ自身は無限の叡智を内に包んでいる律動であるがゆえに、それ自身の発展にまかせておいて調和した律が出てくるのであります。> 音楽には「律」があるが、常に新しい音楽は前人の生んだ「律」とはちがう「律」を創(つく)って、それでいて調和したものとなってゆくのであります。

生命は神であるから、それを縛らないで伸ばすとき、いくらでも無限に善くなり美しくなるのです。それが善くならず、美しくならないのはそこに生命が出ていないからであります。生命を物質と見て固定してしまっているからであります。そこになんらかの善または美を付け加えようとするならば、生命が過去において自発的に自由に行なって発現した美や善を形式的に模倣せしめなければならなくなるのであって、芸術の型や道徳の型はそれである。しかし型を真似たとき、もう生命は死んでいるのであって、ただそれはただの形骸であり、只の人形にすぎないのであって、もう本当の善も美も去ってしまっているのであります。それは過去には善であり美であった。今はそれは足跡にすぎないのであります。それが過去において善でありえたのは、生命が自発的に、その自由衝動によって発現し行動した道であったからであります。・・・

親子の間のごとく夫婦間の関係でもそのとおりであります。あまりに良人が法則や形式で妻を縛ろうとしすぎたり、妻の方が良人を縛ろうとしすぎたとき、かえってその夫婦は幸福になれず、外見はいかに幸福であるかのように見えても、内実は決してそうではないようになるのであります。夫婦の間が本当に幸福でありうるのは、<相手を自分に縛りつけておこうとするよりも、相手に自分を与えようとすることによってであります。> ここでは本当の無我の愛こそ結局は幸福を得るのであります。

真に「生命」それ自身の自由に委(ゆだ)ねられるとき、「生命」は“真”を発揮し、それが“真”であるがゆえに“善”を発揮し、“美”を発揮することになるのであります。ここに“真善美”は、常にその人の生活に顕現し、行動は正しくなって魅力を生じ、善にして同時に美しきものとなるのであります。類は友を招き、似たものは相集まる。一方が相手の“真善美”を見て、それに信頼して生活するならば、他方でも相手の“真善美”を見て、それに信頼して生活し、琴瑟(きんしつ)相和し、善と美とは合奏し、そこに家庭の天国が出現するのであります。

相手をして自分の好む軌道をのみ通らせようと思ってはなりません。軌道のないところに本当の天道がある。無軌道の飛行機は脱線するおそれはないが、ここを通らねばならぬと定められた汽車や電車は脱線転覆のおそれがあるのです。

軌道があるから脱線する。軌道がなければ脱線せぬ。「ねばならぬ」に縛られた人たちは、自分も脱線して苦しみ、人をも脱線せしめて苦しむ人たちであるのであります。電車なら線路がなくては人生の行路が歩めぬかもしれぬが、人間は神の子であるから、それ自身の自由にゆだねられたときかえって、それ自身の中心を得て完全に回転するのであります。すべて自主的運動をなすものは、それ自身の自由にまかせられたとき、少しの歪(いびつ)もなしに回転し、他から束縛しようとせられるとき、その回転が乱調子となり、一定の所からかえって撥(は)ねて飛ぶのは、廻っている独楽(こま)と同じであります。

竹はすべて真っ直ぐに生長するのが本性であり、藤蔓(ふじづる)は捲(ま)き付くのが本性であり、笹芝(ささしば)は地を這うのが本性であります。そのそれぞれに美があり、個性があり、個性の中に“天意”があり、神があるのである。竹をして竹たらしめよ。藤蔓をして藤蔓たらしめよ。笹芝をして笹芝たらしめよ。藤蔓をして竹のごとく真っ直ぐならしめんとし、竹をして藤蔓のごとく捲きつかしめようとする時、竹も枯れるであろうし、なお一層よくないのは、かく外部から強制せんとしつつある自分自身が奔命に疲れて滅んでしまうでありましょう。人をいわゆる「自分の尺度」で測って、善ならしめようとして、相手をそこない、自己をそこなっているのはちょうどこれと同じであります。

よく、「わたしの良人を導いてあげよう」などという感じで道を説く夫人が、良人から喜ばれず、いくら「生長の家」へ良人を引き入れようとしてもそれが甲斐なき努力におわることがあるのは、こういう真理からくるのであります。・・・ではどのすればよいのだろうか。決して相手を縛って導こうとしてはならない。自分自身が得ている真理で何か相手に献(ささ)げる実行的奉仕を為しつつ、相手自身を相手の思想の自由にまかせておくのがよいのであります。相手の「神の子たる善さ」を信じてその自由にまかせておくのであります。かくて人は本当の自由にまかせられるとき、廻っている独楽(こま)を触らないで自由に委(まか)すとき、心軸を中心として立ち上がるように正しく生きるようになるのであります。>>



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<総括>


@ 同じ<自由と不自由>に関する内容の文章であっても、マサノブ君の文章は<自由と不自由>というものの冷ややかな現象的分析にしかすぎず、学者的評論であって読む人に何の感動も伝わっては来ないのであります。これに比し、開祖・谷口雅春先生の御文章は、生命的観点から書かれておりますので読む人に共感と感動を与えるものであります。そして現実的問題解決への意欲と自信と確信とが導き出されるのであります。このようにマサノブ君の文章は「死文」であり、開祖・谷口雅春先生の御文章は「活文」で読む人の心を奮い立たせるものであります。マサノブ君の文章は、単なる評論文であり、開祖・谷口雅春先生の御文章は生きた芸術的生命的御文章であります。


A マサノブ君が「生長の家」の『御教え』の後継者である事を自認するのであれば、先ず最初に開祖・谷口雅春先生の御文章を引用すべきでありますが、彼は自分の説を全面に出してくるのであります。それも、開祖・谷口雅春先生の御著書を熟読していないのですから、どうしても彼の文章は唯物的色彩の濃い内容となってしまい、信徒に何の感銘も与えることができないのであります。第一、マサノブ君は練成会もあまり受けたこともなく、本部講師資格もなく、信徒指導の経験もないのであります。聖典類もマチガイ探しの批評眼でサラッと眼を通したにすぎず、そのくせ「マサノブ教」の教義に活用できるところだけは抜け目なく利用しているのであります。この様なズル賢い狐のような人物が自称でも『御教え』の後継者と言って憚らない、そしてお金と肩書きをあたえられてイエスマンに成り下がっている教団幹部たち・・・全くの糞飯ものであります。


B マサノブ君に申し上げる。実質的には君は四面楚歌の状況下にある。君は独裁権力を使って、やりたい放題の自由に振舞っているようであるが、理事参議以下の幹部職員の殆んどは愛想をつかして冷ややかに君を見下している。君の現状は極めて不自由である。何かを書けば本流信徒側から徹底的に叩かれている。いろいろなハンドルネームで本部直轄掲示板上でウップン晴らしをしようとしても異才「トンチンカン」氏のような人物にグーの音も出ぬほどにやっつけられカンカンに神経が昂ぶっている。庶民の為の“自然との共生”生活のノウハウ作りも出来っこないことが次第に明らかになって来ている。放蕩型の宗教貴族の生活振りしか伝わってこないのだ。

もうこの辺が“引退”の潮時ではないか? 老後の生活資金も副総裁就任以来20有余年、スイス銀行の秘密口座には10億〜20億円の個人預金もたまっているとの専らのウワサ! さもありなん! 一日も早く自称・総裁の椅子を降り、潔く君にとっての不自由極まりない教団から去り、本当の自由の身となっては如何かな?!







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