生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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生長の家「今昔物語」・ 理性篇の再掲示 <第十六話> (334) |
- 日時:2013年03月06日 (水) 14時02分
名前:信徒連合
生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇
第十六話(通算第342)
絶対精神の問題――特にマルクスの模写説を反駁す(2)
国も有機体である以上、一人の元首を必要とする
(『解放への二つの道』P.162−163)
宇宙の知性が、すべての有機体に「中心」の存在をみとめたとすると、やっぱり国にも一人の元首という中心がなければならんということは、当然のことであると私はおもうのです。
そこで日本には天皇という中心がましまして、日本の国が崩壊しないで、敗戦の後ですら、とも角、存在を保つことが出来たのです。
日本人のなかにも天皇制の存在理由を否定して、アメリカは大統領でも、うまく行っているから日本大統領でも、宜しいという人がある。しかしアメリカが大統領で可(よ)いといって、日本もその通りに真似なければならぬというわけには行かぬのであります。
日本には日本の歴史がありすべての存在は歴史を背負って立つところの歴史的存在である。この歴史的発展の中にある人間についてマルキシズムは次の如く言っていることは既に指摘した通りです。――
「吾々の唯物論は同じ唯物論の陣営に属していながら古い唯物論と違う所が三つある。その一つは、従来は人間を甚だしく機械的な見方をしている。人間を一個の機械と観察して生命ある有機体と見なかった。十八世紀の末において機械学は自然科学で以って完成されたに過ぎないものであるから、人間を生きたものとして見ないで之を機械のように観察するという弊害があった。吾々はこういう機械的な見方はしない。人間を生きた生命ある有機体として吾々はみる。
第二に、従来の古い唯物論は非弁証法的であり形而上学的である。我々は弁証法的に物事をみる。あらゆるものを変化と発展との中に見てゆく。
第三に、従来の人は人をただ抽象的に考えている。ローマの人間もギリシャの人間も十九世紀の初めのドイツの人間も、皆ひっくるめて人ということだけを問題にしているけれども、歴史の中の人間というものを彼らは考えていない。ローマの人とドイツの人とは非常にながい発展の歴史において皆異なる環境のなかにある。その意味において、ローマとドイツの人間とは同じ人間でありながら歴史的変化の過程の中に住んでいるという意味で非常に大きな差異がある。」
歴史を無視した日本国は日本国ではない
(『解放への二つの道』P.163−164)
以上の如きマルキシズムの理論によりましても、人間というものは歴史的存在である。そして、現実の人間はすべて歴史的存在であって、ドイツ人はドイツ人としての過去の歴史を背負って、今此処にあるというのです。これを「弁証法的発展」とマルクスは謂(い)うのです。
歴史を無視した「弁証法的発展」はないのです。だからマルキシズムでも当然日本人の歴史を無視することはできない。日本人は日本人としての歴史を背負って今此処にあるのです。歴史を背負わない所の人間というものも国というものもないのである。吾々は此の「歴史的日本」というものを尊重しなければならない。
マルクスは生産手段の歴史的発展から来る経済組織の変化や、社会制度の変化を説いているが、マルクス自身は天皇に関しては何もいっていない。
マルクスの経済学説を天皇制廃止の方へ持って行くのはソ連を祖国とする第五列の日本国を崩壊せしめる陰謀にのせられているのだと思うほかはない。
何故なら中心を破壊すれば、原子核を破壊されたとき原子が崩壊するように日本国も崩壊するから、其処をねらっているのだと考えざるを得ないのであります。
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