生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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生長の家「今昔物語」・霊界篇の再掲示 <第十一話> (335)
日時:2013年03月06日 (水) 14時14分
名前:信徒連合




生長の家「今昔物語」第五篇 霊界篇




第十一話(通算第253話) 肉体の“死”の定義について(その三)



霊魂は如何にして肉体より分離するか

(「人間死んでも死なぬ」P.113−116)



<<ともかく、人間の霊魂が肉体の死後、或る個体的なエネルギーとして残存することは上記の一、二例であきらかになったと思う。(・・・以下はこれまで記述した所と殆ど同じであるが、亦証拠を一つ加える事になると思うので省かないでおいた。)霊魂が肉体から分離する場合の状態を霊視家によって望見せしめるならば、凡そ次のような事柄が起こるのである。

 霊視家が瀕死の病人を視ていると、病人の肉体は最初は普通人の肉体を霊眼で見る如く、全部燐光を帯びたような光に輝いている。しかし、愈々死期が迫って手足が冷えて来るようになって来ると、手足の末端から燐光のような耀(かがやき)が消えはじめて、そこが黒く影のように視えるのである。愈々その死期が迫ると、手足の末端の黒い影のような部分の面積が次第に殖えて、燐光様に輝く部分は、ただ頭部と胸部とのみになって来る。

 するとこの時、病人の頭部から一種のガス体のようなものが放出しはじめる。燐光様に輝く部分の面積が更に一層減ずるにつれて、放出されたガス様体の容積は次第に増加して、霊眼で視てその病人の肉体が全体黒く影のようになる頃には、それは天井にとどくほどの容積になって病人の肉体の上方に、もやもやと棚引くのである。

時間が経つにつれて、そのガス様体は次第に凝縮するものらしく、その容積を減ずる。減ずるにつれて、それはある形態を呈して来るのであるが、始めはボンヤリと、次第にハッキリと、人間の仰臥するような形状に視えて来る。明瞭にそれが下に横たわっている病人と同じ容貌の幽体であると判る時分には、それは病人の上、一尺ないし一尺五寸位の所の空間に浮いているのである。

 まだこの時は、病人の肉体は復活の望みがある。と云うのは、よく霊眼で視るならば燐光のように輝く細い紐が臍(へそ)の緒(お)のように病人の肉体の頭脳と、空間に浮かぶ幽体とを繋(つな)いでいるからである。

この細い結紐(けつじゅう)が両者の間につながれている間は、病人は死んだように見えてもまだ全然は死んではいない。印度(インド)のヨガの行者が四十日間も地下に埋没されて、空気さえも通じないなかに、定(じょう)に入っていて尚死なないでいることがあるのは、霊魂が肉体から遊離しながら、此の霊的結紐(れいてきけつじゅう)が断絶していないからなのである。

耶蘇(やそ)が「ラザロよ蘇れ」と命じた時に、たちまちラザロが蘇って墓より出て来たったのは此の心霊の臍の緒(へそのお)が打ち断(き)られていなかったからに相違ない。この霊的な結紐が断(き)れていたなら、耶蘇といえども霊なき物質に生命を与える事が出来なかったであろう。耶蘇が死者を蘇生(よみがえ)らす時、好んで使った「死せるに非ず、寝(い)ねたるなり。」という言葉は、耶蘇にとっては、唯相手に対する慰めのための言葉ではなく、彼の霊眼に本当の死の徴候(心霊臍帯の断絶)が見えなかったによるのだろうと云うのが心霊学的解釈である。


 霊魂は、肉体から分離するとき、その原因が病気であるにしろ、負傷であるにしろ、ある程度の苦痛を伴う。病気の長き苦痛の期間の後、霊魂の分離する場合および老衰して死亡する場合は、その分離の刹那に大した苦痛を伴わない。が、年齢若きものが不自然な原因によって夭折する場合には、その霊魂は激甚なる苦痛の為に昏睡状態に陥る。

すなわち、死体の真上一、二尺のところに、その霊魂は横たわりながら何の意識もなしに昏々と睡(ねむ)るのである。この昏睡は一日若しくは二日、或る場合は一週間以上にわたって継続する。霊魂が昏睡している場合は、霊界より看護のスピリットが降って来て、霊界の第二圏に、特にその目的の為にしつらえられた病院にその霊魂を入院せしめて静養せしめる。静養の期間が終わると霊魂は各々自分の罪、若しくは徳行(とくこう)の目方に相応する霊界の或る圏内に落ち着くのである。>>




<注・コメント>


以上をお読みになってお気づきのように、現代唯物医学は、特に臓器移植に関して重大なる過ちを犯す場合が往々にして生ずることがあります。現代医学に於いては、<人間の死=肉体の死=心臓の停止・脳波の停止>であります。併し、心霊学的には、心停止・脳波停止でも霊線がまだ肉体と繋がっていて蘇生の可能性があるケースがあるのであります。

その様な時に臓器を摘出された場合、霊魂(本当の自分)の想い(恐らく、非常なる苦痛)は?ということであります。そのような想いを伴いながらその臓器を移植された人は霊的にはどんな影響があるのでしょうか?。

また、因果律(過去世・現世・未来世に亘って作用する原因結果の法則)の側から考えて、心霊学的な考慮なしにそのような臓器移植法案の制定に関与したり、実際の移植手術を行っている医者達はどのような因果応報をうけとるのでありましょうか?・・・

三代目・雅宣総裁も宗教家と自認するのであれば、唯物的方面の地球環境問題よりも人類社会のこの様な唯物的価値観を正すことこそ宗教本来のあり方だとは思わないのでしょうか?三代目・雅宣総裁の霊的思考力レベルの向上を真剣に我ら信徒は望むものであります。







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