生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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反・『御教え』・・・雅宣総裁語録と講評 <第十六話> (336)
日時:2013年03月06日 (水) 14時24分
名前:信徒連合




< 第十六話 > 本部会館玄関上の御神像は、偶像崇拝!?

(『小閑雑感』・平成20年11月25日)


<<この神像は生長の家大神そのものではなく、ひとつのイメージ「象徴」・「表現」であって、はっきり言えばこの神像は人間の創作である。・・・「神姿」や「神像」や「聖者」を具体的な形に表現することは、危険を伴う。・・・イスラムでは、神を具体的な形に表現してはならない事になっている。これは思慮深い方針である。特に生長の家は「万教帰一」を教義の中心に据える宗教であるから、生長の家の大神の姿は具体的には表現しない。神は一つの像の中に押し込められるものではない。・・・しかし、人間の創作は自由である。ゆえに本部会館上の神像は、作者の表現物つまり心の作品に過ぎない。>>



(講評)

三代目・雅宣総裁は本部会館玄関上の御神像は熱心な信徒・服部仁郎氏の心の中の個人的イメージを具体的な彫刻像として作られたもので、信徒がこれを敬虔な気持で拝むのは偶像崇拝であり間違いである。と云う。

三代目・雅宣総裁のこの見解も開祖・谷口雅春先生の御著書を真剣な心をもって読んでいない事を物語るものであります。

『万教帰一の神示』(昭和6年4月5日)、『生長の家四十年史』P18−19、『生命の實相』第二巻・實相篇下巻P.135−137、に御神像の事が書かれています。決して偶像崇拝ではないことが判ります。

逆に、これらの御本を読んだ上でも尚、三代目・雅宣総裁がこの御神像を偶像崇拝として忌み嫌うのは、開祖・谷口雅春先生から幼少時に厳しく叱責された潜在意識内の怨恨感情の然らしめるものでありましょう。三代目・雅宣総裁に大いなる反省を求めるものであります。





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