生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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復習: 聖経『甘露の法雨』の奇蹟 H (338)
日時:2013年03月06日 (水) 15時01分
名前:ハスの華




合掌、ありがとうございます。
< 小は個人の病を癒し、大は国家の病を癒す > といわれて数えきれないほどの奇蹟が生じた天来の聖経『甘露の法雨』も、今や三代目の雅宣総裁は捨て去り、自分の頭で考え出した人間罪の子意識による「大自然讃歌」・「観世音菩薩讃歌」に置き換えようとことを進めております。果たして雅宣総裁の新・聖経?は『甘露の法雨』を凌ぐ奇蹟を生じさせるでしょうか? この際、これまで生じてきた『甘露の法雨』の奇蹟の数々を復習する事は大変意義のあるところであり、ニュー信徒さんにも認識を新たにして頂きたいと思います。

なお、『甘露の法雨』がどうしても手に入らない方々は、(株)光明思想社 TEL: 03−5829−6581 へ申し込めば手に入ります。また、末端の誌友会では、まだまだ『甘露の法雨』による地方講師の指導が依然として自信を持って行われておりますので、奇跡的な結果も指導を受けた信徒さんの身の上には起っていることも沢山あります。其の際には、間違っても「大自然讃歌」・「観世音菩薩讃歌」による奇蹟だとすりかえられないようにご注意願います。



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聖経『甘露の法雨』の奇蹟(9)



聖経の功徳、反乱の近衛部隊を鎮静せしむ
         
『生長の家』四十年史(p.56−60)



<< もう一つ『甘露の法雨』の功徳は、既に大東亜戦争の終結直前の奇蹟である。というのは昭和二十年八月九日及び十四日の皇居の地下壕に於ける、天皇を中心に相対する十四人の重臣たちによる御前会議に於いてポツダム宣言を受諾して、戦争をやめるという、天皇陛下御自身の御発意による決定が下され、陛下の御みずからの終戦の詔勅が、――

「・・・尚、交戦を継続せんか、遂に我が民族の滅亡を招来するのみならず、延て人類の文明を破却すべし。斯くの如くんば、朕何を以ってか億兆の赤子を保し、皇祖皇宗の神霊に謝せんや。堪えがたきを堪へ、忍びがたきを忍び、以って万世のために泰平を開かんと欲す・・・云々」

 と蓄音機録音盤二枚に吹き込まれ、明日八月十五日正午、日本本土及び満州、朝鮮、樺太等全国にこの終戦の詔勅がNHKのラジオで放送される事になっていたのであった。それを聞いた近衛師団の当時の中堅幹部将校たちが「まだ日本本土には百八十万の軍隊が無傷で待機しているのに、無条件降伏とは何事であるか。そんな不合理なことには承服出来ない。これは屹度、天皇陛下の御こころに反して、本土決戦に入ったならば、一番生命が危険なのは重臣たちなので、自分たちのいのちが惜しいから天皇の聖慮の陰にかくれて無条件降伏だなどと言い出すのである。吾々は最後の一兵になるまで天皇のために戦わなければならない」と決意して、時の近衛師団長・森 赳中将の許に馳せ向かい、「閣下がお起ち下さいますならば、続々として全国の師団長が起ち上がります。そうして上陸を試みる敵軍を水際で叩き落すんです。閣下、是非、蹶起下さい」と熱情をもって申し込んだ。

 その時、森師団長は、“天皇陛下の御こころはこうである。今となっては自分の役目は、皇祖皇宗から授かってきたこの国を子々孫々に伝えることである。そのためには日本国民に一人でも多く生き残って貰って日本再建に尽くして貰わねばならぬ。無駄な戦いにいのちを棄ててはならないのである。敵は恐るべき原子爆弾をもっているのである。これ以上無駄な戦争を続けることは、ひとり日本国民にとっての不幸であるばかりでなく、世界人類にとっても不幸なことである。それゆえ、堪え難きを堪え、忍びがたきを忍んで、自分の体はどうなってもよい、戦争を止めると決意したのであると天皇陛下は仰せられているのであるから、天皇陛下のこの御慈悲深い御こころに背いて戦争を継続するわけにはゆかない”と諄々と説明しようとすると将校のひとりは、「問答をしに来たのではない。事は危急を要する。戦争を継続して敵を叩き落とすか。それに対してイエスかノーかというだけだ。イエスでなければ斬る!」と軍刀を抜いて斬りかかった。それを止めようとした副官が誤って斬り殺された。その隙をねらって一人の将校が放ったピストルの銃弾が命中して、森赳中将は劇的な最後を遂げたのであった。

 いよいよ師団長を銃殺して起ち上がった中堅幹部将校は、もう後退する訳には行かない。ただもう決戦に向かって邁進するほかはないのである。そこで東部軍管区司令官・田中静壹大将のニセの戦争継続の命令を出して、全国にそれを連絡しょうとし、一隊は、天皇陛下の終戦の詔勅が明日正午放送されたら、「事畢(おは)る」というので、それを奪い取るべく皇居の中に忍び込んで探し廻ったが、それは小さな手提げ金庫の中に収めて、書類押入れの書類の奥の下積みにして隠匿されていて中々見出す事が出来なかった。
                

 近衛軍中堅幹部将校が終戦反対で師団長を射殺して、東部軍司令官のニセ命令で戦争継続を画策しつつあるとのことを伝え聞いた東部軍司令官・田中静壹大将は、護身のため、右手に聖経『甘露の法雨』を持ち、副官・塚本少佐ただ一人を従えて、師団長の死を見て、益々殺気の孕んでいる近衛軍中堅幹部将校の中へ飛び込んでいかれた。

 そして右手に持った『甘露の法雨』を熱情で思わず打ち掉(ふ)りながら、“天皇陛下の御心は斯うじゃ”と諄々として話されると、その話の内容は森・師団長の話の内容と全く同じでありながら、幹部将校たちは敬虔な態度でそれを素直に受け入れて、ついに反乱中止・戦争継続中止となって、八方から、田中静壹大将に銃口を向けていたピストルも銃口が下にさがり、幹部将校たちは帰順し、無事翌日八月十五日正午、天皇陛下の“終戦の詔勅”が全国に放送される事になったのであった。

 全くそれは不思議な奇蹟であった。天皇陛下のお言葉を、森・師団長も東部軍司令官・田中静壹大将も同じように反乱将校たちへ伝えたのであった。それにも拘わらず、その反応は全然異なっていた。一方は、師団長を射殺までして抗戦を継続しようとしていたのに、もう一方は、素直に田中静壹大将の説得を受け入れて、無事に戦争の終結に入ることが出来た事である。その相違はどうして生じたのであろうか。後になって、反乱軍の将校に、「何故、田中静壹大将を森師団長同様に射殺しなかったのか」と訊いてみると、その答えは次のようであったと言う事である。

「あの時、田中静壹大将は右の手に紫色の絥紗に包んだ天皇陛下の御諚(ごじょう)を持って来ておられてそれを打ち掉(ふ)りながら、“天皇陛下の御心は斯うじゃ”と言われた。われわれは天皇陛下の御心に背くつもりはない。重臣たちが、自分のいにちが惜しいので、本土決戦をおそれて天皇陛下の御心を曲げて無条件降伏などをしようとしていると思ったから、どこどこまでも天皇陛下の為に戦おうと決意していたのである。

 ところが田中静壹大将は右手に天皇陛下の御諚を持ち、それを打ち掉りながら、陛下の御心は斯うじゃと言われたら、それに抗することはできなかった。天皇陛下の御諚をもって来ていられる以上、田中大将は天皇陛下の御名代として来ておられるのだから、これを射つことになるから、そんな事は出来なかった。」

 反乱軍の戦争継続の考えを変更せしめたものは、全くこの奇蹟であったのである。田中静壹大将の右手に握っているものは、紫色ではあるけれども、紫色のサックに入った紫色の表紙を持つ大型の聖経『甘露の法雨』であったのである。それを反乱軍の中の唯一人が、天皇陛下の御諚と見あやまったのであれば、それは唯の錯覚だと言う事が出来るかも知れないが、田中静壹大将を取り巻いて、「戦争継続に反対なら射つ」と身構えして覘っている多勢の将校全部に、その『甘露の法雨』が、紫色の絥紗に包んだ陛下の御諚と見えたのである。


 これは明らかに、住吉大神が日本滅亡の危機を救わんが為に『甘露の法雨』を媒介として、奇蹟を演じられたのだと解釈するほかはないのである。


もしあの時点で日本が終戦の終結に同意していなかったならば、ソ連は八月十五日の三日後にはエトロフ、クナシリ、ハボマイ、シコタンの諸島にまで侵入して来ていたし、(これをソ連はまだ返還しようとしない)日本軍は、当時まだ日ソ中立条約が有効中であるので、ソ連軍は決してその条約を破って攻撃して来るとは予想もせず、従ってソ連国境および北海道の兵員は極々手薄にして、南方に全兵力を投じていたものだから、ソ連が計画的に正規軍を以って侵入してきたら、ひとたまりも無いのである。

もしあの時、近衛師団の反乱を鎮定できずに戦争継続状態になっていたならば、瞬く間に北海道、東北六県、関東、信越諸県はソ連軍の席巻するところとなり、東京は東部半分がソ連軍が駐屯、西部半分がアメリカ軍の駐屯となり、日本は、恰もドイツが東ドイツ、西ドイツと分断され、ソ連圏内の東ドイツが未だにソ連に搾取誅求されて、経済的には常に貧しく、思想の自由すら失った警察国家であるように、ソ連圏の東日本はどんなひどい目に会わされていたかも知れないのである。

これを救い給うたのは、実にあの時点に於ける天皇陛下の戦争終結の大英断の賜であるが、それにしても近衛師団が反乱を起こして、全日本の師団をリードして抗戦を続けていたら大変な事であったのに、その反乱を中止せしめた、住吉大神(観世音菩薩)の降ろしたまえる聖経『『甘露の法雨』が奇蹟的に反乱将校を鎮圧せしめる功徳を演じてくれたお蔭である。

 住吉大神が何のために、万教帰一を説きながら、特殊の生長の家という姿で、今から四十年前に出現しなければならなかったか――それはこうして此のような時点に於いて日本国家を鎮護救拯せられんが為であったのである。>>



<補足>

 上記の如く、当時の近衛師団を傘下にもつ東部軍司令官・田中静壹大将が日本の国家運命の岐路に際して、最高限の重大任務を全うせられたのであるが田中静壹大将が東部軍司令官に就任された経緯についても実に深い日本国家を守護し給う高級神霊界の経綸(住吉大神様の御みちびき)があったのであります。それは、田中静壹大将がそれ以前に南方戦線におられた時に、重い熱病に罹られ中々恢復治癒しないので内地へ帰られ療養されていた。その時に、東條英機大将の奥様からの依頼で、生長の家本部講師・中嶋与一先生がお見舞いに行かれお話とお祈りをされたのであります。それを契機として田中静壹大将の熱病が不思議に回復して東部軍司令官に就任されたのであります。まさに深き神界(住吉大神)の御経綸であります。






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