生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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<転載> 「マサノブ教団」全本部講師・地方講師必読の“真理の悟り”投稿文 <その一> (4323) |
- 日時:2014年06月27日 (金) 11時37分
名前:信徒連合
この様な素晴らしい「生長の家」真理の理解と解説の投稿文が見つかりました。他の掲示板でも転載されております。最初に見つけてくださった方に感謝申上げます。
「マサノブ教団」が依然として「生長の家」という看板を掲げている限り、そこに所属している本部の講師部長、本部講師、地方講師の皆さんは自分自身どの程度深く開祖・谷口雅春先生の本来の『御教え』という真理を理解しているかの尺度として、熟読して頂くに値する現代の「維摩居士」とでもなぞらえることの出来る内容であります。謹んで御紹介させて頂きます。
出所は、−− http://56937977.at.webry.info/201406/article_6.html
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< 転載:第一回 >
4/中心帰一 その一/現象の迷いの否定を通さない「中心帰一」は中心帰一ではない
<< 作成日時 : 2014/06/17 14:22 >>
三回に亘って「中心帰一」について考えてみたいと思います。この話題は国家論、組織論で述べられることが多いが、さらに宇宙の成り立ちにも関連することでもあります。私自身ご縁のあった生長の家で、特に強調されて使われているのですが、この「中心帰一」の使われ方によって、様々な疑義が生ずるにあたり、一言持論を公表することとなった次第です。ご興味のない方はスルーして下さい。
ここで使う用語は、あえて生長の家詩友に向けた独特の言葉使いをそのまま使用しているので、生長の家をご存知でない方には若干の違和感があることを予めお断り申し上げます。
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現象に現れている事象は、実相のイメージと人間智の迷い(欲、自我意識、闘争心 etc.)で屈折したものとの混合物です。現象に現れたルールにしても、形式にしても、組織にしても、教義にしても・・・総てが両者の混合物です。その混合物たる現象化したものに対して中心帰一することは、そこに含まれている「迷い」に対しても自分自身が屈服することを意味しています。 真の中心帰一は、「実相に中心帰一する」ということです。「実相に中心帰一する」ためにはどうすればいいのでしょうか? 実相を現象世界に現し出す方法の大原則は「現象の迷いを否定する」ところにあります。現象の迷いを否定すること自体、実はその奥に隠されている「実相」を直感的に既に知っているからに外なりません。実相(本物の自分)を魂の奥底の自分が既に知っているからこそ、違和感が生じ「迷い」を否定する力となります。 即ち、「実相に中心帰一する」ということは、まず現状の迷いを明確に峻別することが第一なのです。つまり実相(本物の自分)を観る(神想観する)ことによって、現象に混在する「迷い」が自動的に峻別されるわけです。次にそこに含まれている「迷い」を否定し去ることです。つまり現象に混在する「迷い」に妥協せず、はっきりと否定する必要があるのです。「こいつは偽物だ!」と。キリストはサタンを見つけ出した時「サタンよ去れ!」と一括し、自身の心の中に潜む「迷い」を一刀両断切り捨てたのです。これが出来ぬようでは、百万遍の説教も糞の役にもたちませぬ。 その行為を通してのみ、現象世界に実相が展開することになります。実相が展開した現象に対しては、中心帰一が無理なく可能となります。強制や義務ではなく、不思議と人々が中心者に帰一したくなるものなのです。言葉を替えれば、「実相に中心帰一」したことによって、「現象に混在していた迷いを否定」でき、結果的に現れた「実相の展開としての現象の中心者にも帰一」できることになるのです。 生長の家は「否定の否定の否定の極地」と谷口雅春先生は云われました。これはとても大切な言葉です。現象の迷いの否定が出来ていない人間は、結局は実相を現し出すことは不完全だということです。現状の組織、教義を観察するに、そこに混在している様々な「迷い」の観念をどれだけ否定し去ることが出来ているか、というところに本質的な課題があるのです。 雅春先生の凄さは色々あるでしょうが、一言で申せば、「現象否定の極地を実体験された」という点なのです。「生命の実相」自伝編に明瞭に書かれていますが、資本主義は勿論のこと、弱肉強食の世界の否定、自分が他を犠牲にして生きる事も否定し、最終的には「この世界の創造神」をも否定したところに、雅春先生の偉大さ、深刻さ、探究心の徹底が見られます。そのように現象に現れているものに対する「迷い」の否定が徹底されていればこそ、先生に唯神実相哲学が天下ったと云えます。「否定の否定の否定の極地に実相が現れる」ことのよい証明といえます。 生長の家を学ぶということは、雅春先生の求道の姿勢を我がものとする、とも解し得るのです。先生が説かれた真理を学習し理解するだけでは、その真髄に触れることは出来ないのです。何故雅春先生に唯神実相哲学が天下ったか? さらにその真髄を自分自身が受け止めるためにはどうすればいいか? その醍醐味を我がモノとするためのヒントがここにあるのです。 その後の生長の家の後継者にそれほどの現象否定の荒技を期待するのは無理でしょう。しかし、否定の極地に立たぬ限り、生長の家の醍醐味など判るものではありません。その現象否定の徹底を通した上での実相大肯定であればこそ、大いなる魅力、悟りが現れるのです。 今の三代目総裁は懸命に、雅春先生を否定し、日本の国体を否定し、人類文明の発展を否定しています。雅春先生は現象世界の姿を通して御自身と人類の内面に混在している「迷い」を徹底的に否定されましたが、三代目総裁は現象の矛盾を一部否定しているようにはみえますが、自身の心の内部に巣食っている「迷い」を抉(えぐ)り出すことには無頓着です。これでは話になりません。 「現象世界は自身の心の展開である」ことは、絶対的に真理であるからです。「因果眩まさず」です。「現象否定」は実は「自身の心の迷いの否定」以外の何ものでもないことを知らねばなりません。これが判らぬ輩が「私は宗教者だ」「私は宗教教団の総裁だ」とぬけぬけと公言しているなど、論外です。俗物にも劣る悪質なる低能者と云えます。俗物は「俺は俗物だ」と自分で結構自覚しているものです。しかし自分が欲まみれの俗物であるにかかわらず、「私は宗教者で立派だ」と自惚れて平気でいること自体、悪質なのです。まったく話になりません。レベルが低すぎるのです。 現在の生長の家組織の幹部や信徒さんたちが、こういう輩に中心帰一したければすればよろしいし、「総裁は立派だ」と褒めちぎるのもよろしいのですが、それが幹部であれ、信徒であれ、その人の程度が知れるというものです。それらの人々は、現象に混在する「迷い」を見つけ出す力と、否定する力量不足であるということを、自ら公言しているに等しいのです。生長の家を真剣に学ぶ気持ちがあるのであれば、雅春先生の自伝編でももう一度読まれて、先生の生き様、信仰姿勢、悟りが天下った経緯を知る必要がありましょう。一人一人の悟りというものも、又同じ道筋を通して天下って来るのですから。
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全本部講師・地方講師必読 (4366) |
- 日時:2014年07月01日 (火) 10時17分
名前:必読
信徒連合様 拝見しました。 「全本部講師・地方講師必読」その通りの文章だと思います。 ご紹介いただきありがとうございました。
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