生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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開祖・谷口雅春先生の直接指導録 <その6> =神想観の目的= (359) |
- 日時:2013年03月07日 (木) 13時55分
名前:信徒連合
開祖・谷口雅春先生の直接指導録<その6>
=神想観の目的=
『生命の實相』第15巻・人生問答篇(P.89〜91)
大川(兄):
ある人の説によりますと「神想観」の招神歌(かみよびうた)はたんに精神統一の手段だから、別にあのとおり唱えなくともよい。「松の木、松の木」と唱えても「一二三四」(ひとふたみよ)と唱えても同じことを何遍も唱えておればそれでよいとおっしゃいましたが、わたしは「松の木、松の木・・・では満足できん、やはり神様を招(よ)ぶ歌でないといかぬように思う」と言って争ったことでしたが、先生の御意見を伺いたいと思います。
谷口:
招神歌(かみよびうた)は精神統一のたんなる手段ではありません。それは精神統一のたすけにもなりましょうが、精神統一をして何も考えなくなると云うことは別に大して結構なことではありません。
< 何を対象として精神を統一するか >ということが肝心なのです。すべてのものを生かしている神、生きとし生けるものを生かしている神、これにひたすら精神を統一して「神すなわち我(われ)」の自覚に入ることが肝心で、これこそ「神想観」の目的なのです。
「松の木」という言葉に精神を統一して、「松の木か、我か、無差別」の境涯に入ったとてなんにもなりません。仮に、われわれは精神統一をすればよいのであるからどんな言葉に精神統一をしてもよいということになれば、われわれは「病気、病気」ということを唱えて精神統一をしても良いと云う事になるでしょう。そうなると病気ということばに精神統一をして「病気か、我か、無差別の境涯」に入れば、どうなると思います。その人は病気になってしまうでしょう。
今、世の中に病人が多いのは、人類の多くが「病気という言葉に精神を統一しているからなんです。新聞を“一心”に読んで精神統一状態になっているときに、売薬の広告などで「病気の実在」ということを“心の鏡”に映されたがために病気になっている人が世の中にどれほどあるでしょう。
たんなる精神統一を非常に結構のように思っている方がありますが、精神統一そのものは可もなく、不可もなく、澄んだ鏡のようなもので、それにいかなる念(こころ)の影を映すかということでその価値がきまるのです。
「松の木」というものに精神を統一すれば「松の木」だけの価値しか発揮されぬし、「病気」というものに精神を統一すれば、「病気」だけの力しか発揮されぬのです。
「大実在たる無限の生命」に精神を統一するとき、われわれは無限の力を発揮することができるのです。これこそ「神想観」であって、たんなる精神統一は野弧禅に終わることがあります。
大川(兄):
「神想観」をして無我になって何もわからなくなったという人がよくありますが、何もわからなくなってよいのなら寝てしまったらよいとわたしは言うのです。
谷口:
何もわからぬどころではない、真理をはっきり解っての上での不動の心境でないと本物ではありません。真理すなわち「神に生かされているということ」を知るために精神統一をするのです。精神統一は人間を石にすることではない。無感覚になることが、そんなによいことなら、死んでしまうか、石になるかすればよいのです。
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