生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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反・『御教え』・・・雅宣総裁語録と講評 <第十八話> (370) |
- 日時:2013年03月08日 (金) 10時49分
名前:信徒連合
< 第十八話 > 生長の家=開祖・谷口雅春先生ではない!?
(『小閑雑感』平成16年8月12日)
<<谷口雅春先生の著作を深く研究すればするほど見えてくるものは、<谷口雅春>という歴史上稀有な人物の人となりが分かるのであって、<生長の家>が見えてくるのではありません。生長の家=谷口雅春という安易な方程式は、雅春先生ご自身が否定しておられるのを忘れないでください。>>
(講評)
三代目・雅宣総裁は<谷口雅春先生の著作を深く研究>、と書かれています。信仰とは、<信じて、実行すること>であって<研究する>ことではないのであります。
研究だけして実行・実践しない人は信徒とは云えないのであります。研究する人は教団を辞して外部で学者として、評論家として独立すべきであります。
<歴史上稀有な人物のひととなり>が判ったからと云って、それで自己の悟り(霊的境涯)のレベルが上がるわけでもありません。自己の当面している深刻な人生問題が解決出来る訳でもありません。
開祖・谷口雅春先生が<自分は教組ではない。一人の求道者だ。神界から降ろされる神示の取次ぎ者であり、神様のラッパである。>と自らを謙遜しておられたのを、逆利用して<生長の家=谷口雅春という安易な方程式は、雅春先生ご自身が否定しておられるのを忘れないでください。>と傲慢・不遜にも開祖否定へ持って行っているのであります。
三代目・雅宣総裁の次のような発言の話もあります。ブラジル青年大会の時の発言と聞いております。曰く、―――
「谷口雅春は僕の祖父でありますが、彼は彼なりの説き方をされたが、やはり<神>ではないので、(僕は)各所にその欠点を見出し、それを訂正したり廃刊にした書物もあります。私は私なりに現代人を<救済する義務>があるので不要なものは処理したのです。」と。
二千年前にイエス・キリストが語られた言葉 <<「それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの(サタンの働きによる)『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)そのときは、ユダヤに居る人々は山へ逃げなさい」(『マタイ福音書』24・15・16)>>
この言葉の部分は、或る聖書研究家の著書より引用ですが、現代生長の家教団・三代目・雅宣総裁にそのまま重なって視えてくるのであります。
将に、開祖・谷口雅春先生の御教えを換骨奪胎した三代目・雅宣総裁は失礼ながら(サタンの働きによる)『荒らす憎むべき者』であり、
<聖なる所に立つ>とは、法灯継承・総裁就任そして“森の中のオフィス”の総裁室に座ることを表し、
<山へ逃げなさい>とは、日本の国の為にならなくなった生長の家教団は一時的に潰(つぶ)れても良いから脱退しなさいとの開祖・谷口雅春先生の御命令とも置き換えられるのであります。
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