生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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<転載> 「マサノブ教団」全本部講師・地方講師必読の“真理の悟り”投稿文 <その十二> (4712) |
- 日時:2014年08月08日 (金) 00時44分
名前:信徒連合
この様な素晴らしい「生長の家」真理の理解と解説の投稿文が見つかりました。他の掲示板でも転載されております。最初に見つけてくださった方に感謝申上げます。
「マサノブ教団」が依然として「生長の家」という看板を掲げている限り、そこに所属している本部の講師部長、本部講師、地方講師の皆さんは自分自身どの程度深く開祖・谷口雅春先生の本来の『御教え』という真理を理解しているかの尺度として、熟読して頂くに値する現代の「維摩居士」とでもなぞらえることの出来る内容であります。謹んで御紹介させて頂きます。
出所は、−− http://56937977.at.webry.info/201408/article_2.html
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< 転載:第十二回 >
16/ 「世界平和の唯一の道」を身を以て体現せられる「天皇」
<< 作成日時 : 2014/08/07 11:20
真夏の行脚の修行は、大切な気付きを小生に与えてくれました。その気付きは、さらに生長の家の深奥の真理へと導いてくれるものとなりました。「天皇国日本実相顕現」と「人類光明化運動」そして「地上天国実現運動」の整合性が、小生の魂の中でぴったりと一致した瞬間でありました。 1) 修験道(しゅげんどう)の行脚(あんぎゃ)修行 2) 和解するとは「自分の実相が相手の実相に和解する」こと 3)「自分の実相が天地一切の実相と和解する」生長の家の教えを生きる 4) 具体的に過去の「迷い」を見つけ出し、否定する 5) 神への高き理想を捨て去り、唯物主義に自らの魂を売った生長の家 6) 神への絶対服従、無我従順 7) 「世界平和の唯一の道」を身を以て体現せられる「天皇(無私の愛)」 ※このブログを書き始めて16番目の文章になった。一つ一つがかなりの長文でもあり、最近では、過去に何を書いたのかが、自分でも分からなくなってきた。仕方が無いので、整理の都合上〈小タイトル〉を付ける様にし、文末の【まとめ】に〈小タイトル〉を整理してみた。これで、過去の文章の要旨の検索に少し役立つので、重複文書が少なくなると思う。又、過去の文章の引用も少しはし易くなるのではないかと思う。自分で書いた文章位、自分の頭の中に記憶できる程度の記憶力を持ちたいものと思う。〈小タイトル〉を創ったり、整理するのも面倒くさくていけない。 ***********************************************************************
1) 修験道(しゅげんどう)の行脚(あんぎゃ)修行
〈1-1 日本の夏/霊界と現象界との一大交流イベント〉
七月後半に入ると茹(う)だるような真夏の暑さが押し寄せてきます。日本の夏と言えば、「お盆」です。御先祖が帰って来られる季節です。この時期、日本中がお盆関連のお祭りや行事をこなしながら、暑い夏が過ぎて行きます。この長年の風習は日本民族の血に沁(し)み込んだ、霊界と現象界との一大交流イベントと言えます。茹だるような暑さで朦朧(もうろう)とする意識が、その交流に一種のスイッチを入れる役割を持たせているのかもしれません。最近は涼しい場所と時間を選んで、神想観と聖経読誦を数多く行うように心掛けていますが、特に七月に入って、神想観と聖経読誦の回数を増やしたくなるのは、神界、霊界との交流が求められているような気がしてなりません。
〈1-2 占領政策の呪縛を解く/戦没者への真の追悼報恩〉
この時期は、大東亜戦争の戦没者への慰霊の季節でもあります。69年前大東亜戦争の終戦を迎えました。国を思い同胞の幸せを祈りつつ無我献身の精神で散って逝かれた、約310万人の戦没者に対して、心から感謝の念を捧げ、その真心を讃えて追悼の誠を捧げたいと思います。そして心から聖経を拝読させて頂きたく思います。大東亜戦争敗戦による日本を縛り付けた呪縛は、69年後の現在も解けてはおりません。この呪縛を解きほぐすことが、戦没者への真の追悼報恩に繋がるのではないでしょうか。谷口雅春先生の戦後の御生涯は、その呪縛解放の使命に捧げられたものでもありましょう。茹だるようなお盆の暑さは、その残された「課題」の存在を、日本民族全員に訴えているかのようです。
〈1-3 数時間行脚は得難い「行」〉
そんなある暑い日、いつものように数時間の行脚に出かけました。水分補給を取りながらダラダラと汗を流しておりますと、脱水症状に到らないまでも、かなり体力は消耗し、意識は朦朧となり、比較的早い時間帯に恍惚(こうこつ)状態に入り始めます。これは私なりの「行」なのだと思っています。修験道(しゅげんどう)なら、「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」と唱えながら只管(ひたすら)山道を歩くのでしょう。小生にとっては、数時間ばかりの行脚とは言え、なかなか得難い「行」となっているのです。 注)【蛇足ながら】もし、暑い中「行」をされる方がおられましたら、「水分補給」は勿論ですが、同時に充分なる「塩分(天然塩)補給」もお忘れなく。
〈1-4 「無我献身」で生長の家を築き上げた先輩生長の家人〉
今回は出発点から感謝唱行を始めました。自称「生長の家人」でありますから、やはり唱行となれば「ありがとうございます」でしょう。恍惚感が増せば、弥が上にも精神は統一し、「ありがとうございます」の無心の世界に入り込むのに、それほど時間はかかりません。昔から修験道が「六根清浄」と唱え、自我を滅する行に没入し、「魂の喜び」を味わってきたことの意義を肌で感じ得る一瞬です。汗を流して掃除や献労をしながら、大きな声を出して「ありがとうございます、ありがとうございます」と唱え続け、「無我献身」で生長の家を築き上げた先輩生長の家人達も、同じように「行」を通して魂の浄化と目覚めを味わって行ったのでしょう。
2) 和解するとは「自分の実相が相手の実相に和解する」こと
〈2-1 自分の内なる実相が、相手の内なる実相と和解するしかない〉
何時とはなしに、「雅宣さん、ありがとうございます」と唱えておりいました。現在の小生にとって、最大の課題であったからに外なりません。現象の現総裁を見る限り、どう見ても「感謝」はできません。だから、あえて「感謝行」をしているのであります。「行」とは実に不思議なものであります。ヘトヘトになりながらも、「ありがとうございます、ありがとうございます・・・」と繰返し唱える内に、大切な気付きが浮かんできました。「和解する」とは「自分の内なる実相が、相手の内なる実相と和解するしかないんだ!」という想いが湧き出て来たのです。 谷口雅春先生は《結局「和解する」とは、その「実相」を見て、その実相において完全を観ることであります。》(『生命の実相』頭注版14巻59頁より)と、説かれていますが、私自身、明確にその意味を会得しきれていなかったものと見えます。その言葉をより深く学べる時期が、私にもついにやって来たということでしょうか。誠に有難いことです。
〈2-2 最大の問題/自分自身の心の姿勢を曖昧にしていた〉
「自分の内なる実相が、相手の内なる実相に和解する」という気付きに到った時、自分の中で今まで何が足りなかったのか、ということがはっきりしてきたのであります。「和解する主体」である処の「自分自身の心の姿勢を曖昧にしていた」ことが、最大の問題であったということに気付いたのです。「和解する主体」は、飽く迄自分自身であるのです。その自分自身が如何なる立ち位置で、相手と「和解」しようとしているのか、これこそが一番重要なポイントであったのでした。
〈2-3 一体なる実相/自分の実相が、相手の実相に和解する〉
「自分の迷い」が「相手の迷い」に和解はできません。「自分の迷い」が「相手の実相」に和解もできません。「自分の実相」が「相手の迷い」に和解もできません。「迷い」は本来存在しないものでありますから、どちらかに「迷い」を認めている限りにおいて、「和解」も「感謝」もできないのです。「和解」と「感謝」が唯一成立し得るのは、「自分の実相が、相手の実相に和解する」ことのみだと言うことです。さらに言えば、「自分の実相も、相手の実相も、元々はひとつの実相」であり、「実相しか実在せず、迷いは無い」のでありますから、「自分の実相が、相手の実相に和解する」以外に道はないのであります。畢竟「自分」も「相手」も「一体なる実相」ということであります。
〈2-4 神想観の招神歌の境地/和解と感謝が成立〉
「私は神様の生命そのものであって、吾が存在の一切は神様の存在そのものであった。」「自分が生きているのでなく、神様が生きておられたのだ。」《吾が生くるは吾が力ならず、天地(あめつち)を貫きて生くる祖神(みおや)の生命(いのち)、吾が業(わざ)は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能(ちから)》と、神想観の度に唱えている招神歌(かみよびうた)≠フ境地に己が立って、相手(相手として現れている自分)の存在の実相をも同様の境地で見る時、「和解」と「感謝」ははじめて成立するのであります。
〈2-5 真理を体感体得するには、「行」は欠かせない〉
朦朧とする暑さの中での恍惚の感謝行は、やはり大切な気付きを小生に与えてくれました。古(いにしえ)から修験道達の「六根清浄」を唱えながらの行脚修行も、数々の気付きをもたらしたことでしょう。生長の家で教わった無数の真理を、頭で知ることはその第一歩で極めて重要ではありますが、真に自分自身のものとする為には、それらの真理を体感体得する必要があります。そして、体感体得するには、「行」は欠かせぬものです。現象世界の体験の一切は、正にその為に存在してくれているのでしょう。「和解」と「感謝」の醍醐味を体感体得するためには、観世音菩薩が提供して下さる一切の問題を、悉(ことごと)く「自分の実相が相手の実相に和解する」手法によって、快刀乱麻解決せねばならないのです。
3)「自分の実相が天地一切の実相と和解する」生長の家の教えを生きる
〈3-1 「和解」と「感謝」の神示を、体感体得する絶好のチャンス〉
今生長の家人一人一人が、目前に与えられた公案を真摯に受け止め、神に全托の祈りを捧げながら、生長の家の根本の教えである処の「和解と感謝を行ずる」ことが、切に求められていると感じます。谷口雅春先生を通して神様から教えていただいた「和解」と「感謝」の神示を、体感体得する絶好のチャンスが、今与えられているのでありましょう。
〈3-2 生長の家は「現象無し」「実相独在」〉
「行」を通して気付けた後で思い返せば、生長の家で教わっていたことの一切は、「現象無し」「実相独在」でありました。「常住神想観」であり、「一切の存在を自分名義から、神様名義にお還しする」ことでありました。目前に現れる一切の現象は、自らの心の展開であり、もし、そこに「迷い」が混入しているのであれば、それは、こちらの心の中に、実相に非ざる「迷い」を「有り」と、無意識的にも認めていた事実があった証拠であります。その過去の自分の心の姿を映し出してくれていたのが、現象世界であって、自分の心の間違い(迷い)を自分自身に教えてくれる、観世音菩薩の働きであったのでした。
〈3-3 仮相に対しては実相を以て相対せよ〉
そのことに気付くことができたのであれば、残された道は唯一つであります。『甘露の法雨』に示された如く、「仮相(かりのすがた)に対しては実相を以て相対(あいたい)せよ」であります。無意識的に己が抱いていた「仮相」に対して、「実相」を以て相対(あいたい)さねばなりません。そして、現象に現れている相手(環境)の「仮相」に対しても、「実相」を以て相対さねばならぬでしょう。実相(神)の吾のみが、実相(神)の相手を拝むことができ、和解し、感謝できるのであります。
〈3-4 どれほど実相に非ざる「迷い」を持っていたことか〉
自分自身を思い返すに、どれほど「自己の内なる実相(神)」に非ざる、思想を持ち、想念を発し、行動を起していたことでしょうか。一つ一つそれらを数え上げれば、切りがありませんが、一つ一つの「迷い」の想念感情、行動をチェックすることは大切な作業となるでしょう。辛い作業ではありますが、それらを思い起こして、「神の御心」であったか、「自我の迷い」であったかの、区別を行うことによって、これから発生するであろう想念感情と行動の戒(いまし)め教訓ともなり、神の子としてのより正しい生き方を選択する礎(いしずえ)となるでしょう。
〈3-5 「迷い」に代る「実相」を心で強く観ずれば、問題は消える〉
それら心の中に潜んでいた実相に非ざる「迷い」に、早く気付けばそれに越したことはありません。それは「迷い」だったと明確に過去の自分自身に言い聞かせ、それに代る処の「実相」の本物に置き換えてやればいいでしょう。しかし、自分で気付かないことも無限にあるでしょう。それら自分では気付かない「迷い」であっても、ちゃんと観世音菩薩が教えてくれるので安心です。観世音菩薩が教えてくれた相手(環境)の姿を見て、自身の心の影を教えてくれたものとして、真摯に受け止め、反省すべき点を反省し懺悔して、「迷い」に代る「実相」を改めて心で強く観ずれば、観世音菩薩はその目的を達成したと判断し、速やかに問題は消えることでしょう。
〈3-6 一切の問題は、吾々の実相を発揮させる為の協力者〉
時間はかかるでしょうが、一つ一つ環境に現れる観世音菩薩の姿を真摯に受け止め、「迷い」に対する「実相」を自己の心の世界に置き換えて行けば、速やかに人生の目的を達成し、さらに「高度な実相(神の世界)」を学ぶ段階に進むことができましょう。結局、吾々の周囲に感知し得る一切の問題は、吾々の実相の完全円満性をより完璧に発揮させる為の協力者(味方)であると言い得るのです。
〈3-7 「拝みにくい相手の実相」を拝む「真剣な行」の素晴らしさ〉
畢竟、生長の家は、「実相」が「実相」を拝み出し、「神」が「神」を礼拝するしかない世界の大肯定の教えであります。その教えを実践し得た瞬間、「和解」と「感謝」が成就するのであります。私たち生長の家人が今試されているのは、実にこの一点というべきではないでしょうか。己の実相をどこどこまでも「神」として拝み切り、同時に一切の環境として現れている存在に対しては、観世音菩薩として拝むと共に、相手の実相を「神」そのものとして拝み切る、信仰の確立が求められているのではないでしょうか。そのように「拝みにくい相手の実相」を拝む「真剣な行」を通じて、実は「自他一体」「神我一体」の「実相独在」の世界に、自らを導いてくれる処に「行」の素晴らしさがあると思うのであります。その世界は「愛(一体)」の世界であり、その世界こそ「神(愛)の世界」であったということに気付けるのでありましょう。
4) 具体的に過去の「迷い」を見つけ出し、否定する
〈4-1 実相に非ざる「迷い」には、「和解」も「感謝」も不可能〉
今回の「生長の家本部赤痢菌事件」を通して、自己の実相を如何に見るかということを、もっと具体的に考えてみたいと思います。雅宣氏に対しては、こちら側が実相に立った上で、氏の実相と和解することは先に述べましたが、現象的に現れている処の様々な反生長の家的、反国家的言動については、全く容認すべきでないことは、当然のことであります。飽く迄、実相に非ざる「迷い」の映しに対しては、「和解」も「感謝」も元来不可能なのであります。 注) このことにつきましては、既に当ブログ『12/「生長の家本部赤痢菌事件」の対処法と教訓/日本と世界の問題を自分自身の問題として受け止める』に詳しく書かせていただきましたので、ご参照下さい。http://56937977.at.webry.info/201407/article_3.html
〈4-2 「吾々の潜在意識中の迷い」を野放しにしている限り、問題は解決されない〉
現象(観世音菩薩)に現れている現在の異常とも言える生長の家の姿は、過去の生長の家人全ての心の現れであり、吾々生長の家人の心の中に、「迷い」即ち「唯物論」の雛形が随所に存在していたことの証明であるということであります。その心の中の原因を如何に的確に探し出して、「迷い」を反省し、「迷い」をかなぐり捨てるか、このことが最も重要なことと言えるのです。もし、「過去の生長の家人の迷い」、言葉を変えれば、「吾々自身の潜在意識中の迷い」を、いい加減にして野放しにしている限りは、観世音菩薩が示し給うた今回の事件の教訓は生かされないことになるでしょう。
〈4-3 生長の家の「症状」は、日本と世界の病根の象徴〉
現在の生長の家教団の姿は、日本の国家、社会の隅々まで侵蝕している処の、「唯物文明の迷い」をも象徴しているのであります。と同時に、世界中に蔓延する「唯物文明の迷い」の象徴でもあります。世界の雛形が日本であり、日本の雛形がある意味生長の家とも解せますので、生長の家に今現れている「症状」は、日本と世界の病根の象徴と言っても差し支えないでありましょう。
〈4-4 生長の家は日本を愛し、日本民族は世界を愛している〉
何故そう言えるのかと申しますと、生長の家は、最も「天皇国日本」の本質を理会し愛しているからであり、「天皇国日本」に住む日本民族は、世界人類を一番愛している民族であるからであります。人類を真に愛し、人類の神性を開発するために立ち上がった「人類光明化運動」が、日本国家に出現した生長の家から始まったことは、そのような深い「理会」と「愛」によって支えられているからであります。
〈4-5 生長の家の問題は、生長の家自身と日本と世界の病根の象徴〉
つまり、現在の生長の家の大混乱は、(1) 生長の家(に所属する人々)の過去の「病根」の反映であり、(2) 日本に蔓延する「病根」を象徴するものであり、(3) 世界に蔓延する「病根」を象徴するものである、ということができるのであります。
5) 神への高き理想を捨て去り、唯物主義に自らの魂を売った生長の家
〈5-1 3つの「病根」は尊師死去後の三十年間に肥大化した〉
ここでは、「(1) 生長の家(に所属する人々)の過去の「病根」の反映」について考えてまいります。これは生長の家の関係者お一人お一人が、真摯に自らに問うべき問題でありますが、とりあえず小生が考えられる主な「病根(迷い)」を極簡単に列記いたします。大雑把に申して、下記の「病根」は概ね谷口雅春先生が亡くなられて以降の三十年間に、その多くが癌細胞化され肥大化したものと考えて差し支えないと思います。 イ)生長の家立教の使命「天皇国日本実相顕現」の喪失と、「人類光明化運動」に対する大理想の後退
ロ)戦後占領政策の最大の課題である「日本国憲法」の抜本的解決、「優生保護法改正」等の実際運動からの撤退 ハ)生長の家の運動組織全体の腐敗化(谷口雅春先生亡き後の形骸化した運動) 以上の様な問題点が考えられますが、今回は特に、ハ)の「生長の家の運動組織全体の腐敗化」について、簡単にまとめてみたいと思います。
〈5-2 教勢は数十分の一以下、賛同者・協力者は数百分の一以下に〉
この三十年、生長の家の運動は大きく様変わりしました。その直接の原因は、谷口雅春先生という偉大なる霊的哲学的宗教的指導者が、現象界から隠れ去られたからであります。残された聖典、本部・地方組織、信徒誌友、教団幹部、関連団体、道場等々、そして、膨大なる財産。それらを巡って、様々な人間の思惑が錯綜する「場」となって行ったのであります。その後、現在に至るまで、どれほど運動が衰退し、教勢が縮小して行ったかは、皆様よくよく御存知の通りであります。改めてここでその衰退振りをご紹介するには及びません。小生の独断と偏見で極簡単に表現すれば、教勢は数十分の一以下、賛同者・協力者は数百分の一以下になったと、小生は感じています。その数字の多寡(たか)は兎も角として、それほどに「生長の家の魅力がなくなってしまった」のであります。
〈5-3 人の魂を救う事よりも、本部目標達成に一喜一憂する組織に変貌〉
本部最高主脳者の意識の低下と、御座成(おざな)りの運動方針の決定、地方幹部、末端組織の盲目的追随と形式的中心帰一、さらに形骸化された目標設定と数値操作による自己満足の成果報告。はたまた、地方から上がって来る、根拠薄弱な数値成果だけに満足する本部担当部局。形骸化した組織にあって、月刊誌の大量破棄による無駄は日常茶飯事であり、講習会の動員数の数値操作も見て見ぬ振りでした。人の魂を救う事よりも、本部決定目標の達成に一喜一憂する、運動組織に変貌して行きました。目標達成数と達成率のグラフを掲げた、巷(ちまた)の俗商売の営業所の如く、目標数を末端組織会員へ機械的に振り分け、目標達成の決意を強要する集団に化けて行ったのであります。
〈5-4 関係者の心の中に「秘密と嘘」の「暗闇」が出来上がった〉
そのことは生長の家全ての人々が、なんとなく知っていた事実でしたが、関係者は現実を無視し口を塞(ふさ)いだのです。当然のごとく、全ての関係者同士の心の中に、「秘密と嘘」の大きな「暗闇(くらやみ)」が出来上がって行きました。しかし、それを誰も破壊しようとはしなかったのです。それを良しとしたのです。これが「迷い」でなくて一体何でありましょうか。なんだかんだと言いながら、きっとその人なりに「居心地が良かった」のだと思います。結局「居心地が良かった人」を中心に、生長の家組織は固められて行ったのです。幹部の実力者はそういう人でないと務まらなくなっていたのでしょう。
〈5-5 精神的崩壊が異常事態を招き寄せる「温床」となる〉
逆に「居心地の悪い人達」は、自然と組織から去るしか無くなりました。組織を去った人の理由は様々でしょうが、高邁な指導者の不在、純粋な信仰の崩壊、気高い理想の喪失、これらに相まって、前述した組織の腐敗を理由にした人は、多かったことでしょう。運動目標に従って、多くの新人を導いても、それ以上の人々がどんどん組織を辞めて行ったのです。新人として入った人も、暫くすれば組織の内情を知って、違和感を覚えれば遠ざかることになります。この三十年の腐敗した運動組織にあって、生長の家の生命体は、既に精神的に崩壊していたのです。それらの精神的崩壊が、現在の生長の家の異常事態を招き寄せる「温床」となっていったと考えられます。
〈5-6 サラリーマン化、事なかれ主義、既存権益と土地財産の保全といった「唯物主義的」集団〉
生長の家立教の理念であるところの、「天皇国日本実相顕現」「人類光明化運動」を実際行動に移すための、「唯神実相哲学」「神の子人間」の真理伝道が唯一絶対の存在目的であるはずの本部会館、教化部会館、関連施設において、その内実は、「サラリーマン化」「事なかれ主義」「誰も責任を取らない組織」「既存権益と土地財産の保全」といった、本来使命以外の「唯物主義的」専門家集団の集まりと化し、赤痢菌の如き「迷いの菌」を増殖する下地を作って行った、というのが実情だったのではないでしょうか。
〈5-7 多くの人々が無意識的に、現象に引っ掛かる〉
勿論全ての人がそうであったなどとは申しません。又、ほとんどの方も、意識的に「唯物主義的」であったとも申しません。しかし、多くの人々が無意識的に「唯物主義的」であったのだと思うのです。「唯物主義的」と申しますのは、「現象に引っ掛かる」という意味であります。「現象に引っ掛かる」ことは、「実相を生きていない」ということであり、そのことは既に「唯物的生き方」なのであります。
〈5-8 人々の「迷い」を感知して、病原菌は侵蝕し勢力を拡大する〉
人々の腐敗し病気化した「迷い」の心を感知して、赤痢菌等の病原菌は、侵蝕し勢力を拡大するのであります。健康体には病菌は寄生し得ないのであります。例え一時的に病菌が体内に入り込んでも、生命体自身に宿る「自然治癒力」の働きにより、病原菌は死滅するのが、健全なる生命体なのであります。生長の家において、病原菌とも解せる勢力が蔓延したこと自体、既に長年月間、健康体で無かった事の印であると言えましょう。
〈5-9 膨大なる資産は、生長の家で禄を食む者の「生活の安定と欲」を増長させた〉
それに増して、谷口雅春先生の高邁なる理想に対して、無数の信徒から捧げられた「光明化運動」のための膨大なる資産は、いつの間にか生長の家で禄(ろく)を食(は)む者達の「生活の安定」と「怠惰」と「金銭欲・物欲」と「支配欲」を増長させる「隙」を与えてしまいました。勿論、全ての職員、関係者がそうであったとは申しません。そうでない方々もおられましたが、そういう方々は静かに組織を去って行かれたのです。波長の合わない者は、組織から弾かれるように去って行かれました。それは「親和の法則」による、自然な成り行きでありましょう。
〈5-10 財産と欲と怠惰と使命の喪失が、内からの衰退分裂と、外部からの侵蝕を受け「迷い」は崩壊する〉
「物質・金銭的資産」と「欲」がある処に、外部からさらに強力なる「物質欲」に満ちた勢力の介入を許すことになるのは、古今東西歴史の教えるところであります。国家の崩壊も、企業の崩壊も、家系の崩壊も、財産と欲と怠惰と使命の喪失、これらの相乗作用として、内からの衰退分裂と、外部からの侵蝕を受け、ついに「迷い」は崩壊するのであります。「カネと財産のある所」、「欲」と「怠惰」の温床となることは、殊(こと)生長の家に於いても、拭いきれない問題であったようです。一言で申せば「生長の家は俗化≠オてしまった」のです。まさしく精神的崩壊であります。「神への高き理想を捨て去り、唯物主義に自らの魂を売った」のであります。「意識的に自らの魂を売った」とは言わないまでも、少なくとも「無意識的に自らの魂を唯物主義に売った」、という結果を招いたことは事実なのであります。
6) 神への絶対服従、無我従順
〈6-1 一人一人神様の「絶対命令」を感得し、実行に移す以外に方法はない〉
詰まる所、「過去の生長の家教団の運動のあり方の見直し」が、今真に求められているということでありましょう。では、どのように生長の家の運動を、神意に基づいた原点に還したらよいのでしょうか。それは、吾々生長の家人一人一人にとって、神様から与えられた「課題」であります。お一人お一人、それぞれのお立場において、「神様から与えられた使命」が違う訳でありますから、一概にどうすればいい、ということは言えないと思うのであります。それこそ、お一人お一人が、神想観の中で、神我一体の境地に立って、神様からの「声なき声」の「絶対命令」を感得し、躊躇無く実行に移す以外に方法はないと言わなければなりません。
〈6-2 「絶対無私」を生き切った70年前の青少年〉
究極為すべきは、「神への絶対服従」であり「絶対のハイ」の実行以外にはないのであります。約70年前、日本民族の若き青少年までもが、「天皇陛下万歳」と叫んで、敵艦に体当たりして逝(い)かれました。「絶対無私」の心境を生き切った(死に切った)のです。誠に立派としか申せません。確かに70年前の彼らには、「絶体絶命」の背水の陣がそこにありました。国家全体が生きるか死ぬかの、絶体絶命の断崖絶壁に立たされ、背水の陣を強いられていました。だからこそ、無数の日本民族が「天皇陛下万歳」を叫んで、自らの命を捧げたのです。
〈6-3 吾々にとっての「絶対無私」は、「神への絶対服従と行動」である〉
現在、吾々生長の家人は、「生長の家の死」という断崖絶壁に立たされております。それを「背水の陣」と見るか見ないかは、その人によるのです。小生は「生長の家の死」は「天皇国日本の死」であり、「人類の霊的死」を意味していると見る者です。この「絶体絶命」の背水の陣に於いて、如何に対処すべきでしょうか。小生は「絶対無私」の決意と行動を取り得るかどうか、この一点にかかっていると思うのであります。70年前の大東亜戦争では、その決意と行動は、「上官への絶対服従」であり「敵艦への体当たり」であったのです。しかし、今吾々に課せられている「絶対無私」の決意と行動は、「神への絶対服従とその行動」ではないでしょうか。
〈6-4 「今立て!」の啓示「神への全托の生き方」の継承〉
谷口雅春先生は、昭和4年(1929年)12月13日深夜、「今起て!」の神の啓示を受けて、唯お一人で立たれたのでありました。それは谷口雅春先生と神様との厳粛なる対面であり、谷口雅春先生の個我が消滅し、神我(神)に全面降伏、絶対服従された瞬間でありました。吾々一人一人は苟(いやしく)も、谷口雅春先生の弟子であります。その弟子の為すべきことで「最も大切なことを一つ上げよ」と言われれば、小生は迷わずこれを選ぶでしょう。雅春先生が、昭和4年12月13日深夜、「今立て!」の啓示を受け、個我の一切を投げ打って、「神への全托の生き方」を始められた、その生き方を選びます。この精神を継承せずして、一体何を継承しようというのでしょうか。
〈6-5 地上天国への道は「小我」では感知できない、唯「神」の御心の展開以外の何物でもない〉
その「神への絶対服従」の結果として、様々な発想、決意、行動、運動が展開して行くに過ぎません。それ故に、「地上天国」への道が開かれるのであります。それらの結果は、己の「小我」の感知できるものではありません。唯「神」の御心の展開以外の何物でもありません。「吾が生くるは吾が力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命、吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能(ちから)」であります。これ以外に人間の生きる術(すべ)は、もはや全くないことを知らねばならないのです。
〈6-6 無我随順の誠/神は唯一「無我」から生まれる〉
神こそ全ての全てであり、神以外に存在は無いのであります。しかしながら、それは唯一「無我」の一点から生まれるのであります。そのことの実践が、70年前無数の日本人が示した「天皇陛下万歳」と叫んで散って逝かれた「無我随順の誠」であり、谷口雅春先生が「今立て!」の神の声に100%従った所の「神への絶対服従」であったのです。
7) 「世界平和の唯一の道」を身を以て体現せられる「天皇(無私の愛)」
〈7-1 尊師の偉大さ/「神への絶対服従、無我随順」の徹底〉
真夏の数時間行脚で、「和解するとは、自分の実相が相手の実相に和解すること」であるとの気付きを得たが、では、「己が実相を生きる」とは、一体どういうことなのか?・・・・詰まる所、「神への絶対服従、無我随順(ずいじゅん)の意識の継続」と言わざるを得なくなります。吾々生長の家人の「師」である尊師谷口雅春先生の偉大さは、その「神への絶対服従、無我随順」の意識の徹底にこそあったのではないでしょうか。イエス・キリストも然(しか)りであります。
〈7-2 「相手の実相に和解する」とは「相手を拝む(愛する)」こと〉
さらに、「相手の実相に和解する」とは、一体どういうことなのか?・・・・一切の存在は「生命」であり、「神の生命の顕現」であるとして、「相手を拝む」ことであります。尊師は人類の全てを「神の子」として拝み、その実際運動として「人類光明化運動」に邁進せられました。イエスも「汝の隣人を愛せよ」と、目前の隣人に愛を行ぜられました。
〈7-3 「神(無私)を生きる」ことが、「実相を生きる」こと〉
誠に恐れ多い事ではありますが、天皇におかせられましては、「無私の御実体」で在(あ)らせられます。故に「現人神(あらひとがみ)」と尊崇(そんすう)せられるのであります。即ち「神」は「無私の実体」であり、吾らが「無私」を行じきり、「神(無私の実体)に絶対服従する」、言葉を変えれば「神(無私)を生きる」ことが、「己の実相を生きる」ことであると申せるのであります。
〈7-4 天地一切を神として礼拝する「四方拝」〉
さらに、天皇におかせられましては、最も重要な宮中祭祀であるところの、元旦早朝の「四方拝(しほうはい)」にて、天地万物の神性を礼拝せられます。無私(神)なる天皇(現人神)が、「天地一切を神として礼拝」せられる。それが天皇の「神(現人神)が神(天地万物)を拝まれる御実体」と拝察申し上げます。
〈7-5 キリストの「無私の愛」と天皇の「無私の愛」は、同じ「神の愛」から発したもの〉
誠にも天皇国日本に生を受けたことの尊さを、神に感謝せずにはいられません。無私(神)なる天皇(現人神)のあり方、これこそが全世界の恒久平和の一大原理でなくて、一体何を持って世界平和の原理として置き換える事ができましょうぞ。全世界に神の国の実相を現し出すには、人類が全て「神の子」であることの自覚と、その「神の子」の具体的実践が「無私」の愛他的礼拝行にあること以外に、「世界平和の道」はないのであります。「無私の愛」を生きられたキリストの精神と、天皇の「無私の愛」は、全く同じ「神の愛」から発せられたものであります。
〈7-6 「世界平和の唯一の道」を体現せられる天皇〉
その「世界平和の唯一の道」を三千年来、身を以て黙々と体現せられているのが、「天皇」であらせられるのであります。このことは、厳然たる「歴史的事実」であり、今も尚連綿として、その「世界平和の唯一の道」を体現せられている「天皇の存在の事実」が、今此処にあり続けているというところに、無限の価値を見出さずにはおれないのであります。
〈7-7 「無私(神)の絶対境地にて、天地万物を神として礼拝する」実践を抜きにして、真の世界平和は訪れない〉
何故、谷口雅春先生は「天皇国日本の実相顕現」と「人類光明化運動」「地上天国実現運動」を同列に扱われたのでしょうか。「世界平和の唯一の道」であるところの「無私(神)の絶対境地にて、天地万物を神として礼拝する」。このことの実践を抜きにして、真の世界平和は訪れない。このことを谷口雅春先生は達観されたと同時に、その体現者こそが「天皇」であらせられた歴史的事実と、天壌無窮、現在も尚連綿として受け継がれているその御実体に対して、「世界平和の唯一の道」を発見せられたが故に、尊師は「天皇国日本実相顕現」「人類光明化運動」「地上天国実現運動」を全く同一視せられたのでありましょう。
〈7-8 人類は「天皇」に究極の「世界平和の道」の理想像を発見する〉
「無私の境地に於いて、天地万物を神として礼拝し続ける」。このことの「長年月の実践の証」を伴わぬ「唯の理論」や口先だけの言動に対して、人類は「権威」を認めないのであります。天皇において、唯一その「長年月の実践の証」が認められ得るのであります。故に、人類は「天皇」に究極の「世界平和の道」の理想像を見ることとなるのであります。
〈7-9 「天皇国日本実相顕現」の人類的意味合い〉
この事に気付かぬ内は、「天皇国日本実相顕現」の人類的、地球的意味合いは、全く理会できないのです。そして、「天皇」は「日本」だけの制度であって、「世界平和実現」や「人類光明化運動」とは異質のものであると、考え違いをしてしまうのであります。そのような理会では、谷口雅春先生が生命を掛けて始められた、「人類光明化運動」の本質、「生長の家」の本質、「唯神実相哲学」の本質、「天皇国日本実相顕現」の本質、そして「宇宙(神)」の本質、さらには神の御意思に穿(うが)ち入ることはできないのであります。
〈7-10 天皇、キリストの如き生き方を学び、「神から与えられた使命」を全うする時、地上天国が実現する〉
今私たち生長の家人は、谷口雅春尊師の弟子の一人として、このことを魂の奥底から体感体得する絶好のチャンスを与えられているのです。それは取りも直さず、私たち神の子の実体である処の「無私」を、この地上にて行じ切ることなのです。日本民族に限らず、全人類の神の子の兄弟姉妹は、久遠の時を超えて「無我の御実体」を行じ続けられている「天皇」を眼(ま)の当たりにすることによって、「地上天国」の究極の理想像を再発見する必要があるのであります。人類一人一人が、「天皇」の如き生き方を、「キリスト」の如き生き方を学び、それぞれ「神から与えられた使命」を全うすることを通じて、「真の地上天国建設」を勇敢に進めることができるのであります。
〈7-11 護国の英霊よ、生長の家所縁の高級霊よ、國体護持、地上天国実現のため吾らを導き給え〉
お盆が近づいてきました。お盆に重なるようにして、8月15日は終戦記念日であります。今年も日本武道館において、天皇皇后両陛下の御臨席を仰ぎ、69年目となる「全国戦没者追悼式」が執り行われるでありましょう。この式典で、高級霊界から日本を守護し給う護国の英霊達は、「無私の御実体」であらせられる天皇陛下の御言葉を、直接賜ることができるのであります。 また宇治の宝蔵神社では、17日から「盂蘭盆供養大祭」が行われることでありましょう。宝蔵神社は「光明化運動を霊界から導き給う」ところの神社であります。生長の家所縁の光明化運動に縁ある御先祖が祀られ、小生の先祖も多数祀られております。霊界の映しが現象界であります。「生長の家」と「日本」と「世界の行く末」の鍵を握っているのは、正に霊界なのであります。今年も宇治を念(おも)って、心の中で聖経を誦げさせて頂くことにいたします。そして、國体護持と地上天国実現に対する、生長の家の本来の使命が全うされるよう、霊界からの守護と導きを祈念させて頂きます。 「護国の英霊よ、生長の家所縁の高級霊よ、國体護持、地上天国実現のため吾らを導き給え」 合掌礼拝
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【まとめ】
1) 修験道(しゅげんどう)の行脚(あんぎゃ)修行
〈1-1 日本の夏/霊界と現象界との一大交流イベント〉 〈1-2 占領政策の呪縛を解く/戦没者への真の追悼報恩〉 〈1-3 数時間行脚は得難い「行」〉 〈1-4 「無我献身」で生長の家を築き上げた先輩生長の家人〉
2) 和解するとは「自分の実相が相手の実相に和解する」こと
〈2-1 自分の内なる実相が、相手の内なる実相と和解するしかない〉 〈2-2 最大の問題/自分自身の心の姿勢を曖昧にしていた〉 〈2-3 一体なる実相/自分の実相が、相手の実相に和解する〉 〈2-4 神想観の招神歌の境地/和解と感謝が成立〉 〈2-5 真理を体感体得するには、「行」は欠かせない〉
3)「自分の実相が天地一切の実相と和解する」生長の家の教えを生きる
〈3-1 「和解」と「感謝」の神示を、体感体得する絶好のチャンス〉 〈3-2 生長の家は「現象無し」「実相独在」〉 〈3-3 仮相に対しては実相を以て相対せよ〉 〈3-4 どれほど実相に非ざる「迷い」を持っていたことか〉 〈3-5 「迷い」に代る「実相」を心で強く観ずれば、問題は消える〉 〈3-6 一切の問題は、吾々の実相を発揮させる為の協力者〉 〈3-7 「拝みにくい相手の実相」を拝む「真剣な行」の素晴らしさ〉
4) 具体的に過去の「迷い」を見つけ出し、否定する
〈4-1 実相に非ざる「迷い」には、「和解」も「感謝」も不可能〉 〈4-2 「吾々の潜在意識中の迷い」を野放しにしている限り、問題は解決されない〉 〈4-3 生長の家の「症状」は、日本と世界の病根の象徴〉 〈4-4 生長の家は日本を愛し、日本民族は世界を愛している〉 〈4-5 生長の家の問題は、生長の家自身と日本と世界の病根の象徴〉
5) 神への高き理想を捨て去り、唯物主義に自らの魂を売った生長の家
〈5-1 3つの「病根」は尊師死去後の三十年間に肥大化した〉 〈5-2 教勢は数十分の一以下、賛同者・協力者は数百分の一以下に〉 〈5-3 人の魂を救う事よりも、本部目標達成に一喜一憂する組織に変貌〉 〈5-4 関係者の心の中に「秘密と嘘」の「暗闇」が出来上がった〉 〈5-5 精神的崩壊が異常事態を招き寄せる「温床」となる〉 〈5-6 サラリーマン化、事なかれ主義、既存権益と土地財産の保全といった「唯物主義的」集団〉 〈5-7 多くの人々が無意識的に、現象に引っ掛かる〉 〈5-8 人々の「迷い」を感知して、病原菌は侵蝕し勢力を拡大する〉 〈5-9 膨大なる資産は、生長の家で禄を食む者の「生活の安定と欲」を増長させた〉 〈5-10 財産と欲と怠惰と使命の喪失が、内からの衰退分裂と、外部からの侵蝕を受け「迷い」は崩壊する〉
6) 神への絶対服従、無我従順
〈6-1 一人一人神様の「絶対命令」を感得し、実行に移す以外に方法はない〉 〈6-2 「絶対無私」を生き切った70年前の青少年〉 〈6-3 吾々にとっての「絶対無私」は、「神への絶対服従と行動」である〉 〈6-4 「今立て!」の啓示「神への全托の生き方」の継承〉 〈6-5 地上天国への道は「小我」では感知できない、唯「神」の御心の展開以外の何物でもない〉 〈6-6 無我随順の誠/神は唯一「無我」から生まれる〉
7) 「世界平和の唯一の道」を身を以て体現せられる「天皇(無私の愛)」
〈7-1 尊師の偉大さ/「神への絶対服従、無我随順」の徹底〉 〈7-2 「相手の実相に和解する」とは「相手を拝む(愛する)」こと〉 〈7-3 「神(無私)を生きる」ことが、「実相を生きる」こと〉 〈7-4 天地一切を神として礼拝する「四方拝」〉 〈7-5 キリストの「無私の愛」と天皇の「無私の愛」は、同じ「神の愛」から発したもの〉 〈7-6 世界平和の唯一の道」を体現せられる天皇〉 〈7-7 「無私(神)の絶対境地にて、天地万物を神として礼拝する」実践を抜きにして、真の世界平和は訪れない〉 〈7-8 人類は「天皇」に究極の「世界平和の道」の理想像を発見する〉 〈7-9 「天皇国日本実相顕現」の人類的意味合い〉 〈7-10 天皇、キリストの如き生き方を学び、「神から与えられた使命」を全うする時、地上天国が実現する〉 〈7-11 護国の英霊よ、生長の家所縁の高級霊よ、國体護持、地上天国実現のため吾らを導き給え〉
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