生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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永遠生命・輪廻転生・個生命の進化を説かねば宗教家とは言えない! 開祖・谷口雅春先生の『御教え』を学ぶ<第一回> <第二回> <第三回> (4931) |
- 日時:2014年08月24日 (日) 11時31分
名前:信徒連合
世の中の凄惨無惨な社会的事件の発生は、現代人の<肉体生命尊重優先>の唯物的思考にあります。この根本的解決のためには「先祖供養・個別霊供養」が如何に大切か、さらには各人の単なる肉体生命よりも霊的生命を重視する社会的価値観の変更が必要であります。これからの現代人は、「永遠生命・輪廻転生・個生命の進化」について学び、日常生活の思考基準として行かねばならないのであります。マサノブ総裁は「そのような事は現代科学では確立された理論でもなく、宗教界に於いても“合意”には未だ至っていない。故に“今の教え”では採用しないのである」と明言しているのであります。故に、マサノブ総裁の『生長の家ってどんな教え?』でも触れてはいないであります。
「霊的生命」の思考――<永遠生命・輪廻転生・個生命の進化>を<先祖供養・個別霊供養>に加えて現代人に思想啓蒙をしなければ、唯物的肉体的現代文明の犠牲者(社会的凄惨残酷悲惨事件)を抑制する事はできないのであります。以下、引き続いて開祖・谷口雅春先生の『御教え』を学んで参りましょう。「生長の家 今昔物語・霊界篇」から転載いたします。
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輪廻転生 <<生命は死を超えて前進する>>
<第一回>
輪廻転生(『別冊・真理<正死を越える道>P56−59』
<<「生まれ更り」即ち「輪廻転生」と云うことは、人間の個性命が肉体の死後も存在して、再び新しい肉体に生まれるという意味であります。輪廻転生を持って、魂または「固体精神」の進化の方法だと考えるのは東洋の宗教思想であって、何億という多数の人間同士の間に存在する現世の不平等の生活を解釈する最も合理的なそして最も理論的な説明の仕方だと云うことができるのであります。この原理は、貧富の懸隔、文化の差異、能力の相異、肉体的に不利なものと完全なものとを生ずるその根元に遡って、精神的天賦(てんぶ)、徳性、及び霊的進境の相異の説明に適用されるのであります。
この説は、次の如き概念の上に築かれているのであります。即ち一個人、一身体の生命期間では生得の可能性及び精神的可能性を充分に発揮する機会が与えられるためには不十分であるから、神聖にして公正なる神の摂理は、各人の魂に自己の現世及び前世で学んでいないことがらを他の生命から学ぶ機会を与えるために、また別の環境にその魂を生まれ更って出て来させ給うのであります。
即ち政治、社会、経済、文化等の偶然的な環境条件のために個生命は、一生涯の期間中だけでは著しい進歩を遂げるために必要な経験を通過することが出来ない場合が多いのである。また幼少時代の師友関係、及びその環境条件に於ける経験は個々の魂に或る偏った習慣を与えるし、両親、牧師、教師等の無智のために、その人の魂は束縛されて、奴隷化され、自由な広い経験を得るための機会ガ奪われることも多いのであります。だから人間の魂は、如何なる人でも、一生涯だけでは完全な発達の機会を与えられないから生まれ更って出ることによって、その不足せる発達を補うという説であります。
「生まれ更り」の学説は東洋の或る種の宗派が、人間の霊魂は時には動物に、又は昆虫にさえ生まれ更わることがあるなどと説くために、迷信的なものとして本来の価値以下に評価されているのであります。人間が動物や昆虫に生まれ更ると云うことは明らかに現代の生物学の原理に反しているのであります。然し「生まれ更わり」の学説の勝れている点は、精神的霊的進化を論理的に説明していることであります。
これをキリスト教の教義と対照するために、在来のキリスト教の教義と比較して見ますならば真に興味が深いのであります。キリスト教は、人間は一生涯を通じて如何に下劣で、無価値で、残酷で、堕落していましょうとも、死の直前に牧師によって罪を「赦され」、罪の懺悔と称する告白をなし、或いはイエスを救い主として受け容れて改宗するならば、たといそれから数時間或いは数分間後に死ぬとしても、新教に改宗した者ならば直ちに天国に、カトリック教に改宗したならば潔(きよ)めのために煉獄に行き、何れにしても神の恵みによって救われ、「神を見る」ことが出来、聖なる天使や聖人たちと交わる事が出来るのであると教えられているのであります。すなわちキリスト教では人間は懺悔と教組の贖罪によってすくわれるのであって、霊的発達または生長によって救われるのではないことになっています。
このパラダイスへの易行道は、東洋に比し物質主義や功利主義がよく普及して居る西洋に於いて広く行なわれているのであります。この説明は極端であるかも知れないが、それは、「赦し」「神の恵み」による免罪等と一致していますし、キリストは「彼の名を信ずる」者が救われんがために、そして、この救いの体系を作るために生命を棄てたということになっているのであります。
代理者が贖罪(しょくざい)して救われると言う教義に比し、生まれ更りによって霊が徐々に進歩して救われる教義の方が論理的に道徳的に公平だということが出来るのであります。>>
心の法則は公正の秤(はかり)である(『別冊・真理<正死を越える道>P.39−43』)
心の法則も自然の法則も生命のすべての分野に於いて「公正の原理」又は「償いの原理」が働いている事を明瞭に証明しているのであります。・・・「心の法則」によって起こる原因に対する結果は、道徳上の問題に於いて、人間が法理論的に行う人工的審判よりも完全であります。・・・人の行動の背後には如何なる潜在意識の強制力があるか第三者からは完全に知ることが出来ないのでありますから、他人をその行為の外見によって誤りなく審判する事は出来ないが、心の法則はこれらを自動的に審判して適当な応報をあたえるのであります。
もしあなたがすべての点に於いて或る悪人と全く同じ行動をするならば、あなたは法理論上からは悪人そのものであります。然し心の法則は決して行為の外見のみでは審判を下さない。心の法則はあらゆる場合に於いて完全に公正の応報を与え、自然に各人の道徳的進化を導いて行くようにするのであって、これを因果応報というのであって神が罰を与えるのではないのであります。
これを宗教的用語で述べれば、神は直接的意志をもって自然の法則や、道徳上の法則に背く者を罰するのではないのでありますが、法則としてあらわれて、法則に適った場合にはこうなる、法則に背いた場合にはこうなると自然に悟って、自己開発的に人間の自覚意識を高めようとしていられるのであります。
心の法則がその法則を破るものに苦しみを起こす働きをしないとすれば、その人は誤った道に行くこと(進化に逆行すること)が免疫性になって誤った道を進むがままに何時までも放置されることになるでありましょう。その結果は人類は宇宙の進化の法則に逆行し、人類は絶滅の危機に瀕(ひん)するでありましょう。ここに心の法則を教える者が出現して、法則を正しく用うる道を教え人類を絶滅から救う必要があるのであります。
業の流転と云うことから考えるならば法則に背いた為の業の刑罰は、法則に背くに至らしめた潜在意識内の欲望の惰力(業因)が根こそぎ引き抜かれて意識外に除かれた時に支払い済みとなるのであります。誤れる感情が起こるのは、欲望の背後から駆り立てる業の力――すなわち潜在意識内の念の惰力――であって、この悪に駆り立てる感情のエネルギーが精神科学的な認識即ち「悟り」によって中和されるか、苦痛によって帳消しされるまではその欲望は執拗に続くのであります。
欲望とはその目的に駆り立てる潜在意識的な業の惰力の事であります。水が自らの重さによって水平を求むるために落下する如く、感情の駆り立ては自らを堕落せしめることによって平衡を得ようとして、そこに色々の問題を起こし苦痛を与えるのであります。「悟り」はその落下の水力を合理的に調節して、善き目的のために使う水力電気の如きものであります>>。
償いの法則(『別冊・真理<正死を越える道>P.70−74』)
<<「償いの法則」は全宇宙に行なわれているけれども、本能水準のものよりは人間の場合の方が、高度に顕われています。肉食獣には道徳的感覚がなく、凶猛残忍にたいする精神的報いがないように見えます。然し人間の場合には精神的道徳的法則に背く場合には、「償いの法則」が要求する代償を支払わなければならないようになっています。
キリストはたとえをもって「最後の一銭までも支払わなければならない」と教えています。この刑罰は、人格神が課するのではないのであります。これは釈尊の説教である業報の法則にも一致するのであって、誤ることなく、容赦することのない法則によって償いが要求されるのであります。・・・
高い世界の「償いの法則」は負債の支払いを要求するのであります。負債は魂の内にあるのであって、自分の魂がそれを支払わなければならないのであります。・・・それは体験によって魂がその前非を悟ると云う形式で支払わなければならないのであります。人間の法則や自然の法則の前ではそうは考えられないかも知れませんが、犯罪者の習慣や行為の性質からして、如何なる形式によるとも負債を生じた「生まれ更り」の世代中には到底完全には負債を支払う事はできないのであるから、不足の分は未来の「生まれ更り」の生涯において支払わなければならないのであります。
この不足分の「支払い」は自分勝手な宣告に従ってするのでもなければ、特殊な科料を支払うのでもない、それは自己の心と意識とが他人の権利に敏感になり、之を尊重するようになり、その結果己の欲せざる所を他に施さざる底の心境に達する如き経験によって支払われるのであります。>>
欲望は不滅の原動力である(『別冊・真理<正死を越える道>P.43−46』)
<<「魂」はある環境の中へ入って生活するが、その環境に入ってくる前に、その環境が地獄だと信じていても、極楽だと信じていても、其れがために環境は変化しないのであります。刑務所を極楽世界と言いきかせられてから、その刑務所に入れられても、その刑務所が極楽世界にはならないのであります。それと同じく死後の世界の状態について理論を立てたり思案を巡らしたり、お経にこう書いてあると言って見ても、吾々が死んで来世に生まれ行く前に来世に関して何を教えられていたにせよ、そのために来世の性質は変化するものではないのであります。
次のことだけは間違いない。即ち来世が若しあるならば来世は現世と同様に無限創造者(即ち神)によって“霊”を材料として創造されたのであると云うことであります。従ってそこは、それぞれの人々の魂の次なる段階の生活に完全に適していると云うことであります。
そして、そこには現世と同じように「心の法則」があてはまる。そこは因果応報の世界であって、現世で心の法則によって魂を訓練して来た者は、来世に於いても心の法則を適正に使用してよき環境をあらわし得るに違いないのであります。とは云うものの、我々は生きている間の心の環境との相関関係について知る所を基礎として死後の状態について推測するしか仕方がないのであります。
我々は一都市の中でも、一国家内でも、その住む人の心境によってあらゆる程度の幸福とあらゆる程度の悲惨が存在することを知っているのであります。即ち同じ都市や事務所にも富める者と貧しき者、善人と悪人、賢者と愚者とが共に住んでいるのであります。しかも同じ場所にいながらそれぞれの人々は自己の能力や心境や趣味や欲望に相応した水準に落ち着く。この能力や心境や趣味や欲望やはすべて現世に生まれ出て一代のうちに得たものばかりではないと結論することは合理的であります。
人は皆その人独自の一定の方向、一定の活動および一定の経験へと引きずられ駆り立てられて行く不可知の傾向を持っているのであります。これは環境からのみ与えられたものでないのは一卵性双生児でもその個性が異なることによって証明されます。この種の衝動ないし推進力は、ある程度前世の経験から受け継ぐのでありますが、現世でこれを発達させたり、等閑に付して退歩させたり、努力して改善したり、誤用したりすることが出来るのであります。このことは現世に於いて吾々が実際生活をいとなんでいる経験によって明らかなことであります。来世に於いても同じ或いは似たような過程が起こるものと結論するのは理に適っているのであります。
現代の心霊学では、人間の死後直ちに魂の行く霊界は、やはりその通りであることを霊界通信によって知らされているのであります。(レスター著『霊界の妻は語る』参照)尤(もっと)もこれはどこにでも霊媒があって、それを証明し得るというような問題ではない。現在の人間進化の段階では、普通人はこれについて実地に又は客観的に知ることは不可能であります。死後の彼方に存在する状況を霊覚によって確かに知っているという人もあるけれども、それは主観的に知るだけなので、科学的に適用される法廷で受け容れられるような現実的な証拠を提出することは極めて特殊の場合のほかは難しいのであります。
すべての人が「死」と云うものは肉体の活動を停止することだと云う証拠を受け入れるのと同じように、「死」は「来世への移行」であると云うことを受け容れるためには人間の最高の直観が必要なのであります、>>
因果応報と魂の教育(『別冊・真理<正死を越える道>P.75−77)
<<因果応報と云っても、ある意味から云えば、魂の教育と名付けてもよいのであります。古い宗教では、此の教育中の状態を煉獄と称し、未来の如何なる時にも避けることが出来ないと説いたのであります。「罪」の値は永遠であると説くことは明らかに公正を欠いています。何故なら、罪の値が永遠であると云うことは、有限の知性しか以っていない人間が有限の罪を犯したそのむくいとして無限の罰を課せられ、しかも無限の知恵と知識を有するものの権威によってその宣告がなされると云うのは原因と結果との割合が不均衡であるからであります。・・・
科学的見地から精神的宗教的原理を引き出すことを目的とする場合は独断は許されないのであります。私たちは、人間の「生まれ更わり」説が普遍的に万人の認むる証拠によって証明し得られるものであるとは言おうとするのではない、それは余りにも疑問が多く、未知の要素が多いからであります。
然しキリスト教会の独断を信ずる者は天国に住居が与えられ、信じない者は永遠の刑罰が与えられると云うような「教会キリスト教」の教えに較べるならば「生まれ更り」説は、論理と常識に合致していると云うことが出来るのであります。>>
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永遠生命・輪廻転生・個生命の進化を説かねば宗教家とは言えない! 開祖・谷口雅春先生の『御教え』を学ぶ<第二回> (4961) |
- 日時:2014年08月26日 (火) 09時29分
名前:信徒連合
輪廻転生 <<生命は死を超えて前進する>>
<第二回>
「生まれ更り」行く場所(『別冊・真理<正死を越える道>P.77−80)
<<「生まれ更り」行く場所を独断的に決める必要はないのであります。肉体の死後、魂は地球以外の天体に生まれるかも知れないのであります。・・・東洋では人間の「生まれ更り」の説は、何百万人の教育ある者および教育無き者によって認められている共通的な信仰であります。然しそんなことは科学の世界で普遍的に認容し得られるための証拠にはならぬのであります。然しこの問題を注意深い有能な研究家が、物質的見地からではなく精神的見地から検討した例もない訳ではないのであります。
ハードマン博士の見解によれば、地球上或いは他の天体に再出生すると云うことは、個々の魂の霊的発達および精神的進化の最も合理的な説明であると云う結論に達せざるを得ないと云うのであります。地球は他のどの場所にも劣らぬ適当な場所であると云うことは不合理ではなさそうであります。この地上に千回生まれ更わっても全く同じ経験、同じ条件の生活が二度あることは決してないのであります。一生涯或いは何回もの「生まれ更り」で最高度の愛を見出すことがありましても、前世に於いて知り合いになった同じ人に逢っても以前の交渉については現在意識は何一つ記憶していないのが普通であります。潜在意識のみが個々の人をそれとなく認識するに過ぎないのが普通であります。十個のアラビア数字が無限の組み合わせを作るに足る如く、地球は進化の途上無限に変化ある体験を経るための無限の機会を与えることが出来るのであります。
吾々はすぐ身の周りで、人々があらゆる種類の体験を積むのを目撃します。ある人は幼児より死に到るまで殆ど常に試練と苦難との連続であります。恐らく彼らはそれによって、霊の進化のために必要な何物かを修得しているのでありましょう。「生まれ更り」の説を信ずる人々の用語で言うならば、それは過去世の業の負債を支払っていると云うことにもなるでしょう。或る時代の「生まれ更り」に野獣の如く残酷で高圧的で不公正であった人は、自ら、高圧的に残酷な目に遭って苦しめられて見ることが「他を残酷に取扱ってはならない」と云う高き智慧に到る道であると云うことは道理に叶っているのであります。
霊の進化のための動かすべからざる法則は、面倒だと言って廃棄し去るわけには行かないのであります。仮にこれを棄てるために努力するとしても、苦しみを通して心が一転して過去の考え方を棄て、人間の魂が向上しない限り、人間や動物の感情や本能の、成育し遅れた低級な諸性質を後に遺すことになるのであります。これが一代の「生まれ更り」中に起こるにしても、或いは百代の「生まれ更り」中に起こるにしても、永遠と云う無限の高き目的に比すれば、小さい事であります。>>
生長のための無限の機会(『別冊・真理<正死を越える道>P.79−82)
<<次の一事だけは確かであると思われる。即ち永遠の生命と云うことが、唯(ただ)「継続する」と云うだけのことであるならば、何の善き意味もないのであります。永遠の存続が生長を意味するものでなかったならば、キリスト教の地獄と同じく恐ろしいものとなるでしょう。魂が「生まれ更り」することなく一身体あるいは一場所に幽閉されることは、最悪の悲劇であります。無限智(神)は「死」と「生」と「再生」の制度によりそれを不可能にしているのであります。
各人は或る程度の開発された力と精神的能力とを持って生まれます。人間のこの諸能力は、孵化すると同時に泳ぐことの出来る魚の本能的能力とはその性質を異にしています。地球上に何人人間が居ましても、その精神的な能力は一人ひとり各々皆違うのであります。この精神的な能力は体験の所産であります。それは肉体的に遺伝するとは限らず、また肉体的遺伝でないことがしばしばであるのであります。精神的霊的素質が如何なる因子で生ずるかは、物質的な遺伝因子を研究する生物学の法則だけでは決定的に解明することは出来ないのであります。
優生学的生殖によって、家畜の品種を改良する如く、或る人種の体位を改良し得ることは恐らく間違いのないところでありましょう。然し偉大な民族の繁栄が永く続かず、やがて没落して行くことを吾々は見て知っているのであります。そこに霊の進化の法則が見られるのであります。「変化」こそ進化にとって必要欠くべからざるものであります。人間の「生まれ更り」は魂の進化の場と条件との変化を意味します。度々生まれ更ることは、度々異なる体験を積むことを意味するのであります。>>
『神真理を告げ給う』(P.65−66)
<<地上で果たすべき最後の過程を卒業した霊魂は高級天体の世界に移住して、もう地球上に帰還することはない。その卒業移住と引き替えに、他の、地球よりも、もっと低い階級の天体に住んでいた未発達の多くの霊魂が、恰も中学卒業の子供が高校へ入学して来るように、地球に移住して来たのである。それが戦後に生まれて来た人たちの霊魂である。彼らは他の天体に今まで住んでいて、他の天体で発達した文明と文化と習慣との中で生活した霊魂であるから、今まで地球で住んでいた人類の道徳とは異なる道徳的基準を身につけており、絵を描くにしても、音楽をたしなむにしても、衣裳をつけ、髪形を調えるにしても、男女交際のあり方にしても、全く戦争前地球人とは全然異なる趣味と表現と風習とをもっているのである。けれども彼らはやがて地球というやや上級天体の生活法に、彼ら自身の生活振りと行動とを慣らして行く時がくるのである。世界は悪化しつつあると見える時にも、結局は一層良い方に移行して行くのであるから余り心配しないがよい。>>
受胎と出生の神秘(『生命の實相』第9巻・霊界篇上巻P.75−86)
<<受胎後二、三ヶ月間は比較的自由であって、その霊魂が母の胎内につくられつつある自己の「肉の宮」を訪れて来ることはホンの時々にすぎない。然し時がたち、「肉の宮」の建設が進捗するにつれて、その霊魂はいっそう頻繁にやって来る。彼はつくられつつある自己の肉体に自分自身の特徴を与え、自分の希望をそれとなく鋳込むために――すなわち自己の人格の烙印(やきいん)を押すために来るのである。妊娠七ヶ月のころになって彼はその小さい肉体に宿ってそこに定住し、その肉体を自己のものとするのである。それから後は霊魂が脱出することはきわめて稀となる。そして出産の刹那にその霊魂は完全に肉体内に幽閉される。彼が完全に肉体に幽閉されるのは、ただにその肉体なる器官との結合が親密になったからのみではなく、霊魂自身の意識、記憶------等が自分の入ってきた心霊科学(サイコケミカル)的条件によって全く亡失されるによるのである。
これは一般的法則である。しかしこの法則には種々の適用の相異と、様式の変化とがあるのである。その原因をわれらは研究しなければならない。
低級な霊魂
――それはその霊魂自身にとっては偶然に捕らえられる。(換言すればむしろその霊魂自身には不明なより高き力に支配されて宿りきたる)――は、“なまくらに”胎内の幽閉状態に満足している場合もあれば、その反対に罠(わな)の中の革紐にしばられた獣(けだもの)のようにもがきながら出来るだけしばしば、また出きるだけはるかにその肉体の外へ逃れ出ていようとして、ただ、出産前二、三ヶ月間だけその肉体に帰って来るのもある。
こうした相異が起こるのはその霊魂独特の反動作用―――個性すなわち性格によるのである。しかし、もし彼が自己の「肉の宮」を整え準備するために適当の時期にやって来ないならば、自己の要求に不適当な「肉の宮」を見いだす危険がある――すなわちその構造に整わぬ点がある。換言すれば「肉の宮」とその居住者との間に調和の欠乏が生ずるのである。(霊魂とその「肉の宮」との間にピッタリしないところが生ずるのは、低級霊の懶惰(らんだ)状態やその反抗状態に起因するのであるが、これは贖罪(しょくざい)のため、または精神生活を洗練し発達させるために、ことさら不完全な親の胎に宿った場合と混淆(こんこう)してはならないのである。)
高級な発達をとげた霊魂
時として意識的に自己の祖先とすべきものを選んで受胎し来るのである。彼は宇宙に「生まれ更り」の法則のあることを知り、その法則が摂理の慈手より出ずる事を知り、我意を放棄して甘んじてそれに従うのである。なぜ“甘んじて”であるかといえば、<スピリットが物質に同化せられ、意識が無意識の中に徐々に吸収せられてゆくのは苦痛であるからである。>霊魂が物質の中に同化されるのは、ただそれだけでも試練の火であり、ただそれだけでも時としては、ある霊魂は一段高き進化に値(あたい)するのである。
すでに述べたことがあるように、死産せる小児の霊魂は、半産して死せる胎児の霊魂と同様に高き進化をとげたスピリットなのである。(レイヌはいう「懐妊七ヶ月以後の胎児には個性ができあがっている。そんな胎児を殺すことは罪悪です。これを殺したものは報いをうけます。」)
幼くして死する児童の霊魂もまた高級なスピリットである。かかる場合にはその霊魂は全然その肉体の器官に宿りきらないことがしばしばある。彼らは自己の運命をあらかじめ知っているので、自己の「肉の宮」を造るのにみずから骨を折ろうとしないで、その肉体をしてただ動物的営みをなすままに放置する。(かかる場合、その生涯がきわめて短すぎて進化の試練とならないこともある。)
しかしながら、ここにきわめて稀な場合がある――生まれてもその肉体が少しも発達しないで、痴呆の状態で老齢に入るのである。これなどは前世における非常な過失の贖(あがな)い――恐ろしい罪障消滅法――と解すべきであろうか? レイヌは答える。「多分それは罪障消滅法中でも最も辛いものなのです――なぜならこれらの霊魂はスピリットとしての意識が残っているからです。これらの霊魂は完全に肉体中に這入りきっていないで、霊界にいながらその肉体につながっているがために、スピリットそれ自身としての意識の一部が存していて、そのために鋭い苦痛を感ずるのです。私たちはこれらの人達に愛を感じ、これらの人たちのためになることをしてあげなければなりません。しかしこれらの人たちを憫(あわ)れんではなりません。――それはその霊魂の苦痛を増すばかりですから。」(以上P.75−78)
高き進化をとげた霊魂は、みずから意識してこの世に生まれかわって出るのであるが、ちょうど好都合と認むべき親たるものの生理状態を利用して、もしくはあらかじめ親たるものの状態を都合のよいように修正しておいて、自己の希望する性別を選択して生まれ出ることができるのである---------(P.81)
人工授精について
レイヌは答える――「人工授精が成功した場合は、意識してこの世に生まれ出て来ようとわざわざやって来た霊魂が宿ってくれるのです。それは熟慮して画策された行為です。霊魂自らの選択です―――偉大なスピリットにありがちな意識的受胎です。しかいそれはきわめて稀です。もし人工授精を一般に盛んにやるようになれば、生きた子供の生まれる割合がきわめて少ないでしょう。(P.85)
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永遠生命・輪廻転生・個生命の進化を説かねば宗教家とは言えない! 開祖・谷口雅春先生の『御教え』を学ぶ<第三回> (4976) |
- 日時:2014年08月27日 (水) 07時30分
名前:信徒連合
輪廻転生 <<生命は死を超えて前進する>>
<第三回>
死の神秘(『生命の實相』第9巻・霊界篇上巻P.86−88)
<<ヴェッテリニは語る――死期はあらかじめ定められている。 病気および災厄は、あらかじめ定められたる運命を成就せんがために、霊界の不可視の使い(スピリット)がその人を導くところの手段である。「生」は、時として臨んで来る「死」に対して極力争おうとする。このことは死の神秘を恐怖する未発達霊魂の人々において特にそうである。しかしながら霊界の使者(メッセンジャー)が霊魂の脱出するのを待っている。そしてこの世の終焉が来たときには、そのメッセンジャーが助けてくれる。もし必要な場合には、彼は強いて霊魂を脱出せしむることもある。
肉体をはなれたる霊魂は、高級なスピリット――白色のスピリットである――の集会の前につれて行かれる。高級なスピリットはこの新参の霊魂の進化の程度を鑑別(みわ)ける。もし進化の程度が低ければ、その霊魂はある長期間、あるいは短期間、地上の雰囲気内を彷徨しまわり、自己が肉体的生活を営んでいた頃の生活を回顧し、他界より人生の争闘を観察して自己の責任を自覚せしめられ、自己の意識を発達せしむることを学ぶのである。
これらのことは、まず新参の霊魂が高級の霊魂に引き廻されてするのであるが、やがてただひとり、あるいは同じ程度の進化にいる霊魂たちと一緒に、あるいは無関心な気持であるいは悲歎にくれながら、あるいは愉快な気持で(これらの気持の相異は霊魂そのものの進化の高さで決まる)空間をうろつきまわる。そしてやがて時が来る――それは多少とも長き期間の後である。霊界の支配役のスピリットが、彼を再び地上に送る――それは新しく生まれかわって、なおいっそうその霊魂を向上せしむるための経験を受けしめんがためである。 もし肉体をはなれて霊魂がすでに秀(すぐ)れた進化をとげた霊魂である場合には、みずから進んで、ある一定の目的のためにさらにもう一度地上の世界に生まれかわって出ることもあるのである。その一定の目的とは、<自己犠牲の行為によって、自己をいっそう高き進化の圏内に運ばんがためである。>
ヴェッテリニのごときスピリットは、ただ斯くのごとき目的のために、この地上に帰り来るのである。しかし、標準としては、ここまで高き階級に達したる霊魂がさらにいっそう高き進化をとげるのはその霊界における活動によってである。彼らは白色のスピリットとなる――地上の世界に関するあらゆる事件の比較的最上権を有する審判(さば)き役となるのである。白色のスピリットは更に進化をつづけて他の「霊圏」に入るのであるが、この「霊圏」のことは人間にとっては知り難く了解し難きものである。
ヴェッテリニはそれについて(少なくともその瞬間)は語ることを拒んだのである。しかしながら、自分はこの一段進んだ「霊圏」いなむしろ一段進んだ<状態>においては――自分がここに<状態>というのは、彼らがより高い地圏に生まれかわって来るのではないように思われるからである――かかる高級なるスピリットは、あらゆる地上的な興味を全然超越してしまっている。かかる興味は彼らにとっては全然無意義である。彼らは地上的なるものより一段高く生長してしまっているということを言葉の端より総合しえた。>>
死の神秘のつづき(『生命の實相』第9巻・霊界篇上巻P.91−94)
<<--------「死」の問題について自分はまたたずねた。ヴェッテリニは説明を単純化するために進化の程度を四段階に分けて、これらの各段階の霊魂が地上の生活から霊界へうつり行く状態を説明してくれた。
第一階級――最低級――この階級の霊魂は自己の宿っている肉体を最後の極度まで使うのである。その霊魂は自己の機関とする肉体に言葉どおりしがみついているのであって、この階級の霊魂を肉体から引き離すためには、時として霊界のスピリットの干渉が必要であるのである。この階級においては、死後少しも意識をもっていない。かかる霊魂は地球の低い雰囲気内をいわば「昏睡」の状態でなまくらに彷徨しながら、次なる生まれかわりの時期を待つのである。
第二階級――においては、肉体を去って帰幽せる霊魂は霊界のスピリットの群れによって迎えられる。これらのスピリットたちは帰幽の霊魂の意識を目覚めしめ、その責任の観念を喚(よ)びおこそうとするのである。彼らは帰幽の霊魂の能力に応じて死の現象のなんたるかを理会せしめようとするのである。かかる帰幽の霊魂が今度生まれかわってこの世に出る場合には、前なる生涯においてしたところの生活――それが善であろうと悪であろうと――の反動的生活を営もうとするのである。そしてこの反動的生活を通じて彼は自己の責任感の幾分を“あらわ”にするであろう。
第三階級――の帰幽の霊魂については、すでにある程度の意識を発達させている。彼は責任を知っている。それは帰幽の前においてさえも、睡眠または昏睡状態中すでに、自己を待っているところの霊界の状態を予見することができるのである。死に面してその人が一定の態度――恐怖ないし平安 ――を示すのはこの予見によるのである。すなわち睡眠または昏睡中の予見にもとづいて、意識が昏睡から覚(さ)めたときに漠然たるそれとなき予感におそわれるのである。かかる霊魂がいよいよ肉体をはなれて、霊界の案内者に導かれて白色のスピリットの居並ぶ前につれ行かれれば、彼は自己の過去の生活をスッカリまざまざと意識せしめられ、その責任を感ずるのである。この程度の進化状態においては、帰幽の霊魂は自己の未来の生活に横たわっている試練の火を理会と諦念(あきらめ)とをもって受けることができる――なぜなら彼みずから試練の火の必要をさとっているからである。
第四階級――最後にこの階級の進化を遂げた霊魂においては、臨終にのぞんで運命の修正を申し出ることもできるのである――これは今日、青色スピリットがレイヌに説いたところであるが、ヴェッテリニはそれを次のごとく説明した。――運命によって定められた死期が近づいて来たときに、ある程度まで発達した霊魂は、肉体の睡眠中または無意識状態中に肉体を脱出して、司配級のスピリットの所へ相談に行くことができる。これらの司配級のスピリットに助けられて彼は自己の生活について負うべき責任とその結果とを完全に意識する。このとき、もしその霊魂が――すでに高き進化をとげているのではあるが、――なおしばらくの間この世に生まれ代わって来る必要がある場合には、<彼はあらかじめ定まった時刻に死なないで、その瞬間まで耐えしのんできたところの同じ苦痛の状態を、数年間ないし数ヶ月間継続して、>普通ならば受けるべきはずの、もう一度この世への「生まれかわり」の緩徐な過程を踏まないで、地上における最後の進化を、生まれかわりを省略して、高速度に完了するのである。これは白色のスピリットの非常な恩恵的取り計らいのように思われるのである。>>
運命選択の特権(『生命の實相』第9巻・霊界篇上巻P.101−102)
<<人間の生涯は摂理――「不可知の手」――によって定められている。恒星と遊星との運行の影響の下に一定の妊娠を遂げ、出産し、そして一定の時日に死するということは摂理の手できめられている。が、運命は修正を受くるのである。審判階級のスピリットが干渉するのはここである。もし運命の修正によって個体霊魂の進化がたすけられるならば、星の運行によってあらかじめ定められたる死の時期を早めたり遅らせたりするのである。(例をいえば、レイヌの父系の祖母は最近に死んだのである。これについてヴェッテリニの語るところによれば、彼女の死は星の影響に従うならばもっと遅く来るべきだったのである。しかるにその保護のスピリットが彼女の受苦をもはや十分なりとみとめてすぐ彼女の霊魂を釈放したのである。
これと反対に受苦の期間を延ばして死期を遅らせることも起こりうるのである――彼女の母系の祖母は本来ならこの四月に死んでいたはずであると。)「死の使者(つかい)はこの仕事にばかり従事している特殊階級のスピリットではないのである。彼らは新たに帰幽せる霊魂の世話をする役目の一群のスピリットに属するものである。「死の使者」は数人のこともあればただひとりのこともある。
自己の責任を知ることができるだけに、意識の発達した霊魂は幽界へ移行するやいなや彼の生前のあらゆる行為をまともに見る。そして自己の行為を精査して生じた悲歎と悔恨の情とは、彼が次にこの世に生を受けたとき一段高き進歩を遂げるための努力を喚起するのである。しかしながら自責の意識の発達していない霊魂も、時として霊界の審判廷の前に伴(つ)れて行かれるというのは、彼はその時は何もハッキリ自覚しなくとも、漠然とある執拗な印象を受け、やがて時が来るとこの印象が彼に反省と省察との機会を与えるからである。
十分発達せる霊魂は、自身が次の世に受くべき運命を選択する特権をもっている。彼はもはや輪廻の波動にただ受動的のみには従わないのである。彼は自己が欲するならば、霊界にそのまま止まってそこで自己の進化をつづけることもできる。また彼は他の人間の進化を助けるために、周到なる考慮の後に相当な位置に生まれかわり出て、他を利することによって自己をいっそう利するのである。
霊界における進化はいっそう速やかなれどもいっそう困難なのである。それで多くの霊魂は遅くとも苦痛少なき現世の修行を選んでいる。地上の人間にとってはこの霊界における進化が何より成り立っているかを知ることはできない。<われら人間の摑(つか)むことのできるただひとつの点は、まず自己自身をあらゆる現世的な繋縛(けいばく)、あらゆる地的な興味から截(た)ち切ってしまうことである>。徐々に、彼は与えられた運命を修正し得るまで進化をとげる――彼はかようにして、「運命」そのものの王座に近づく。
しかし「運命」そのものの本質は依然として不可知である-------高級のスピリットは運命が不可抗的に各人の生活の上にそれ自身を課していることを知っている。ある事件――幸福もあれば不幸もある――は避くべからざるものである。「不可知の手」――神秘な謎の手があらかじめそれを用意しておくのである。
ヴェッテリニは説いて曰く、ある「生命」が受ける諸種の境遇のおよそ一半は業運の法則によって決定せられているのである。残余のうち半分は個体の自由になし得るところで他の半分は高級なるスピリットの修正の手にあるのである。各人の生命を支配するこれら諸種の影響要因の区分は明瞭で、規則的で、権威ある語調でレイヌの口を通じて語られた――ライフの半分は業運によって決定せられる。四分の一は各人の自由意志に属する。他の四分の一は高級霊(グレート・スピリット)の手に委(ゆだ)ねられている。>>
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