生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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永遠生命・輪廻転生・個生命の進化を説かねば宗教家とは言えない! 開祖・谷口雅春先生の『御教え』を学ぶ<第四回> <第五回> <第六回> (4993)
日時:2014年08月28日 (木) 08時12分
名前:信徒連合


世の中の凄惨無惨な社会的事件の発生は、現代人の<肉体生命尊重優先>の唯物的思考にあります。この根本的解決のためには「先祖供養・個別霊供養」が如何に大切か、さらには各人の単なる肉体生命よりも霊的生命を重視する社会的価値観の変更が必要であります。これからの現代人は、「永遠生命・輪廻転生・個生命の進化」について学び、日常生活の思考基準として行かねばならないのであります。マサノブ総裁は「そのような事は現代科学では確立された理論でもなく、宗教界に於いても“合意”には未だ至っていない。故に“今の教え”では採用しないのである」と明言しているのであります。故に、マサノブ総裁の『生長の家ってどんな教え?』でも触れてはいないであります。

「霊的生命」の思考――<永遠生命・輪廻転生・個生命の進化>を<先祖供養・個別霊供養>に加えて現代人に思想啓蒙をしなければ、唯物的肉体的現代文明の犠牲者(社会的凄惨残酷悲惨事件)を抑制する事はできないのであります。以下、引き続いて開祖・谷口雅春先生の『御教え』を学んで参りましょう。「生長の家 今昔物語・霊界篇」から転載いたします。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



輪廻転生 <<生命は死を超えて前進する>>


<第四回>




物質主義者の霊魂(『生命の實相』第9巻・霊界篇上巻P.188−190)

<<ヴェッテリニ曰く、――

 「大多数の物質主義者は、自己の過去世の生活について微かな記憶をすら留めていないので、単純に自己の唯物的意見に固執(こしゅう)するのである。彼等の心の内には自己が信ずる粗大な証明しかもたない、極めて単純な物質的世界観と相鬩(せめ)ぐところの、なんとなくそぐわないような感じが絶対に起こらないのである。彼らはこの世に生まれ出る以前に幽界に昏睡状態にいたのであって、交霊会に呼び出された前の君の父の霊魂のようにさえ達していなかったのである。彼らは生まれかわって出てきたが、自己の過去の状態について何一つ直覚的な認識をも留めないのである。それで彼らは物質的に議論を進めて行けば、最もロジカルだと思われる信仰に驀進することができるのである。低い階級の物質主義者はこの部類に属する。」

 「秀でたる思想家、偉大なる知性を備える大思想家のごときでさえも、その霊魂が前者と同じくはなはだ低い進化のものであることがしばしばある。彼らは幸いにも非常に安全な非常に制御しやすい肉体を得たのである。騎手は下手でも乗馬が非常に良いのである。名馬は最も貧しい騎手にさえ巧妙な乗り回しをみせる。」

 「しかし、また人類の幸福のために働いているところの賞賛すべき、真理に忠実な、最価値ある哲人にして、応報応果のことについてなんの望みも有しないものがある。この哲人!ああ------彼らは偉大なる進化をとげつつあるのである。彼ら自身の為にしようという少しの観念もなしに捧げきった、研究の生活をなしつつある彼等の生活は、彼の霊魂を高きに引き上げる。しかしかかる場合はまれである。しかもかかるひとびとでさえもその臨終において『誰がこれを知ってくれるだろう?自分は自己が真理であると信ずることのために自己の内の最善なるものを奉仕さしたのだ------しかしこれを誰が知ってくれるだろう?』と果たして嘆息しないであろうか。ぜんぜん応報を期待しないでいられるものはほとんどないのだ」と。>>




“生まれかわり”・“霊界の生活”についての霊界通信の異論の原因(『生命の實相』第9巻・霊界篇上巻P.190−191)

<<ヴェッテリニはいう――

 「まずわれわれは霊媒を介して意志を通ずるということに伴う非常な困難とその困難より来るまちがいと、それから<霊界通信をもたらすスピリットの大多数が低き階級の無知のスピリットであることを考慮にいれなければならない>。彼らは生前もそうであったように、十分知りもしないことをペチャクチャしゃべりたがるのである。霊界通信をもたらすスピリットに高級なスピリットがきわめてまれだということを記憶しなければならない。--------

しかしながら高く進化せるスピリットも『生まれかわり』を否定することがあるのである。それは生前より人間は生まれかわるものではないとの確信を抱いて霊界に入り、自分がすでに高き進化を遂げた霊魂であって『生まれかわり』の必要もなく、自分の住む霊界が高き圏内にあるので『生まれかわり』ということが少しも議論にも噂にも上がらないような場合には、そのスピリットは、生まれかわりはないものという信念を暫(しば)しの間は持ち続けるのである。」>>




霊魂の創造について(『生命の實相』第9巻・霊界篇上巻P.163)

<<自分(注・コルニエル氏)は他の問題を提出した。――
 時間の全経過を通じて、霊魂は無制限に創造されつつあるものであるか。それとも永遠を通じて一定数の霊魂が存在するのであって、ただその進化状態の相異から霊魂の種別というものが生じるのであるか?

これに対する(ヴェッテリニの)、答え――
 否、霊媒を通じての答えの移牒(いちょう)はきわめて複雑したものであった。実際レイヌ(注・霊媒)の現在の状態では、これに対する答えを明瞭にもとめるのは無理であった。すべてのうちただ一つだけ確答を得た。そしてそれは確実と認めてよいであろう――それは霊魂の萠芽(めばえ)は全期間を通じて間断なく創造されつつあるということである。

 (谷口注)各自の霊魂の発達の等差や、地上生活への生まれかわり度数の相異や、肉体の年齢にかかわらず、霊界通信で「あの霊魂はまだ若い」などといわれる事実から見ても、常に新しく現象界へ霊魂の萠芽(めばえ)が現顕されていることがわかる。>>




産土の神様――霊界の市長(『霊供養入門』P.184−186)

<<霊魂が、ある母親の胎内へ宿って来る場合、誰が宿すかというと、それは神様の世界では「産土(うぶすな)の神様」とか「鎮守(ちんじゅ)の神様」と呼ばれている神様の働きなのである。この神様は“霊界の市長”のような役割をされる。現実界では、われわれに子供が生まれると、市役所へ行って届ける。すると、市役所を通じて、その子供は現実界の行政の範囲内に入ることになる。現実世界の奥にある“霊の世界”にもこれと同じような“市長さん”がいて、これが「産土(うぶすな)の神」とよばれている。この神様は、夫婦がいて子供がほしいと思っていると「どの魂を、あそこの夫婦に入れてやったらよかろうか」というようなことを決められる。古くからある日本の風習でも、子供が生まれたら「氏神(うじがみ)参り」をするけれども、「氏神」というのと「産土の神」とは混同されているようである。

 「氏神」とは、「谷口」の家なら、谷口氏(うじ)のずっと昔の祖先から続いている神様である。いわば“先祖の神様”である。たとえば、谷口家で例を挙げて言えば、これは五伴緒の命(いつとものおのみこと)や、アメノコヤネノ命の時代からズーっと続いてきて、藤原家に至り、それから更に南朝の時代を経て谷口家になってきたというような、その一番初めのアメノコヤネノ命に当る。これが谷口家の氏神さまということになる。谷口氏(うじ)の“祖先”ともいえる。

ところが「産土(うぶすな)の神」というのは、「産」まれた「土」の「神」と書くように、生まれた土地を含む領域一体の霊界を支配しておられる神様である。その神様が「あそこの夫婦の間にこの霊魂を宿したらいいな」という具合に世話をなさるわけである。だから、子供が生まれて相当の日数がたつと、この産土(うぶすな)神社へお参りして“出生届(しゅっせいとどけ)”をする。そして「こんな立派な子供を授けていただきまして有難うございます。今後よろしく御守護下さいますように」とお願いを申し上げることが必要なのである。現代人の中には、この産土の神様を無視する人が多いけれども、それは好ましくないと言わねばならない。>>




実相と輪廻転生(『生命の實相』第21巻・教典篇P.179−184および『人生を支配する先祖供養P.80−84)

<<「霊は物質の性に非ず、愛は物質の性に非ず、知恵は物質の性に非ず」ということがあります。先刻申しましたように仏教ではこの霊という言葉はつかいません。仏教では霊魂は無いとも言われる。霊魂とは言わない代わりに「有(う)」という字を使うのです。三界を分って二十五有に分類したりしている。

この「有」というのがいわゆる霊魂でありまして、それは第一義実相的の存在ではない。仮現としての存在なのであります。
 第一義実相では人間は迷うことはないが仮現としての人間は迷うて、仮存在として輪廻転生するのです。われわれの肉体すなわち色身(しきしん)が滅して、まだ後来(こうらい)の生が二十五有のうちのどの「有」の境涯に定まるか分らない間の存在を中有(ちゅうう)と言うのです。よく「魂が中有に迷う」などと言う。これは仏教では普通肉体の死語四十九日間ということになっている。この中有としての存在が満了すると、満中陰(まんちゅういん)と言って、何かお葬いのお供えの返しなどをするのであります。だから「言葉」が異(ちが)うといって、ただちに仏教では霊魂を認めないといって争うのはまちがいです。

しかしここにある霊とは先刻申しました「不可思議自由自在なもの」という意味を現すために霊という字を使ってあるのです。生命の実相(ほんとのすがた)は、実に、霊“妙”なものでありますから、霊“妙”不可思議の“妙”という字にあてはめてもよいのであります。『法華経』では「妙」という字を使っている。霊々妙々不可思議なる生命の働きは、一定の化学反応しか起こさないような物質の性能だけでは得られるものではないのであります。それがこの一節に書いてあるのであります。

 この霊妙不可思議な働きは物質から来るのではない、愛というような不思議な生命を生かす働き、智慧と云うような不可思議な心の働き、こんな霊妙な働きは、物質から来るものではない。だから「霊は物質の性に非ず、愛は物質の性に非ず、知恵は物質の性に非ず」なのです。生命の霊性、愛、智慧というものは、いかなる大科学者が、いかなる装置で物質を捏(こ)ねあわしても発現する者ではない。生命は霊なる愛なる智慧なる神からのみ来るのであります。この神から来た生命の霊性が現象世界に投影したのが、現象生命である。

この現象生命はどういう状態で現象界に存在に入るかというと一つのバイブレーションとして存在するのであります。このバイブレーションを客観的に観察すると一つの念体である。霊魂または霊体というのはこれであります。物質は実相宇宙の投影が認識作用によってその霊妙性を捨象されて生じたバイブレーションの体(たい)でありますが、この物質の体に、現象生命の体が複合して、肉体人間として現れているのであります。だから人間は大別すると二種の体が重複しているのであります。われわれは体(からだ)が一つしかないと思っていますが、肉体と霊体とが重なり合って一つに見えているのであります。>>




実相と輪廻転生(『生命の實相』第21巻・教典篇P.179−184および『人生を支配する先祖供養P.80−84)

<<(つづき)太陽が七色のバイブレーションが集まって一つの無色の光線になっているのと同じように、われわれはこの肉体という物質的波動の体のほかに、霊体的波動の体というものが一緒に複合して一つに現われているのです。それがある期間たつと物質的波動の体と霊的波動の体との分離せねばならぬ時期がくるのです。そして霊的波動の体だけが霊界に生活する。これが霊魂であります。実相生命の投影が、霊魂という現象生命の波動体として現象界に現われた時には、実相の無限次元の性質が、時間空間という五官的認識機能のスクリーンによって縦横厚みだけを残して捨象されているので、縦横厚みの立体空間の世界においては、われと彼との区別がハッキリしているので、実相、自他一体の実相が蔽(おお)い隠されており、その差別智から、いろいろ実相ならざる念を起こし、その念が蓄積されて業(ごう)となるのであります。仏教でいう業とは念の蓄積であります。

 一例をあげますと、人を憎い、と思います。すると彼は憎い、という憎む念の振動数が持続されたまま念に蓄積されます。これは、彼は憎いと思った瞬間、宇宙に蓄音機の吹き込み機のようなものがあって、憎いという念がそのままレコードに刻みつけられ、時のたつにつれて、憎いという念が蓄積され、それがたまって無数のレコードになる。これが業(ごう)であります。

業の内容は念の蓄積でありますから、念は振動(バイブレーション)でありますから、振動は客観的に観る時は体(たい)であります。だから業とは体であるということができるのであります。まず業が霊体という念の体を創り、その業の種類に従ってさらにまた肉体という念の体を作り、その二種の念体がぴったり一つに重なった時に肉体を備えた現象人間が出来上がるので、霊体が肉体という念の体を、分離して生きているのが霊界の霊魂なのであります。

それで霊魂というのも、念の波動体であります。仏教では霊魂と言わずに、その代わりに「有」という語(ことば)を使い、「有」の本体は何であるかというと業である。だから霊魂が生まれ代わるということの代わりに業の輪廻と言いますけれども、結局は同じことであります。釈迦は『過去現在因果経』に、自分は前世にはこういう人間に生まれて、また次にこう生まれて、その次にこうなり、浄飯王(じょうばんのう)の子と生まれ、何歳にして出家し、何歳にして悟りを開き、今八十歳にしてこうして衆生に法を説くように更生(うまれかわ)ったのだと書いています。

釈尊も自身が生まれ変ったという限り、霊魂という仮の「有」を認めているのです。しかしその生まれ更わったのは釈迦の実相が生まれ替わったのではない。霊魂という仮の「有」が生まれ更わったのです。業という仮存在のレンズの厚みの変化に従って現象界への投影状態が変わる。これを生まれ更わると言う。しかし本当の実相の釈迦は生まれ変わりはしない。釈尊自身でも後にはわれは百千万億阿僧祇劫前から悟りを開いている生きとおしの如来であると『法華経』の中で説いていられます。ところが一方には自分はこうこうして生まれかわったということも確かに言っておられる。が、これは業のレンズの変化に従って仮の有が彼方に転現し、こなたに転現したのです。

 これは釈迦だけの話ではない。本当はわれわれも、生まれ変わったりなどしない久遠生きとおしの釈迦と同じ存在であり、「アブラハムの生まれぬ前(さき)より吾はあるなり」と言ったキリストと同じ久遠永遠の存在なのであります。

 生まれ変わるのは、仮の相(すがた)の我、業の蓄積のレンズによって諸方に転現してあらわれる我であります。だからわれわれは本体は生まれ変わらないでいながら、現象生命は生まれ更わるのであります。仏教ではこれを広略相入(こうりゃくそうにゅう)といっている。広相すなわち現象生命は諸方に転現すれども略相すなわち実相生命は本来去来なしと言うのです。生長の家ではこの略相の我を本当の我と言い広相の我、現象の我を「ニセ者の我」と言っています。「ニセ物の我」というのは本来無であるからそんなものにひっかかるな、そんなものは<ある>と思うなと説くのが生長の家でありますから、それは釈迦の諸法無我と言われた教えとぴったり一致するわけであります。

生まれ更わるということはあるにはあるがそれは現象の仮の「有」が生まれ更わるのであって、それは要するに活動写真の影のようなものであるのです。活動写真を見るのに<ある>と思って<ある>という立場で見るから実際<ある>ように見えるのですが、結局それは影で無だ、無いもんだということを知ればよいのです。ただ実相の我のみある!この本当の、「実相の我」「金剛不壊の我」をわれわれが知った時、いっさいの人生の悩みは吹き消されてしまうのです。>>、





永遠生命・輪廻転生・個生命の進化を説かねば宗教家とは言えない! 開祖・谷口雅春先生の『御教え』を学ぶ<第五回> (5000)
日時:2014年08月29日 (金) 07時57分
名前:信徒連合




個性命の進化と向上



(第一回)




*『生命の実相』第9巻霊界篇・上巻には、「進化」という文字が数えてみますと151回ありました。数え落としもあると思いますがそれほどまでに「個性命(個々の霊魂)の進化(霊界を含めての現象世界に於ける実相顕現の過程=プロセス)」というものが重要なものである事がわかるわけであります。以下、開祖・谷口雅春先生の御著書から「個生命の進化」に関する御文章を抜粋させていただきます。なお、「個性命(霊魂)の進化」に関しては、第三代目・谷口雅宣先生の『今の教え』では意識的に回避しておられるのであります。その理由は第三代目・谷口雅宣先生御自身が左翼唯物論思想が基本でありますので、<霊と霊界>のことは、「自分には解からぬ(=信ぜず)」と講習会での信徒の質問に答えておられるのであります。




生命は死を超えて前進する(『別冊・真理<生死を超える道>』(P.51−55)

<<大甲虫(おおかぶとむし)は樫(かし)の木の皮の中に生みつけられた卵から孵(かえ)のである。孵った時は小さな蛆(うじ)で長さ半インチ、太さは小麦の茎(くき)ほどのものです。体の色は黄色がかっており、頭は黒く、鋭い顎(あご)があって樫の木の硬い木質に孔(あな)を穿(あ)けます。孵化(ふか)すると木質の表面で生活を始めるのであります。穿孔虫(せんこうちゅう)であって三年間位は樫の木の中で生活するのであります。

 この虫の感覚は基本的なもの二つ――即ち味覚と触覚しか持っていません。見ることも聞くことも齅(か)ぐことも出来ないのであります。樫の木質について発達した味覚をもっています。又この大甲虫の棲(す)む樫の木を割って、針で突くか或いは触れると触角があると云う反応を示します。神経組織は最も簡単なものであります。

 自然この虫が最初に穿(うが)つ孔(あな)はその体の大きさしかないのです。然し体が樫の木の内部に進んで行くに従って体は生長して大きくなります。生長して大きくなった身体は、幼い小さい時に穿(うが)った孔へと引き返して帰ってくることが出来ません。この虫は木質を消化する為の「一片の腸」みたいなものにすぎないような存在ではあるが、生長するに従って、通路も大きくなる。体の前部を伸ばし、後部を縮めて前に引き寄せ、次いで後部を伸ばして前部を縮め、徐々に前進します。この虫の腹部には毛虫の腹部にあるような匍匐(ほふく)動物の廃退器官の痕跡(こんせき)とでもいうべきものが残っているが、それはもう使用しない。――しかもその跡が残っていて、この虫の生命のある時期には匍匐動物であって、物の表面で生活し、恐らくは樫の葉を食べていたのだと云うことを示しています。然し進化の或る段階で樫の木質を好むようになり、穿孔(せんこう)動物になったのであります。或いは多分、鳥はこの虫がおいしくて滋養に富んでいると云うので、この敵から逃れるために孔を穿つことになったのかも知れません。ともかく外界を去って樫の木の中の不思議な暗い所に入り、そこで生命周期の最初の部分を過ごすのであります。

 大甲虫の幼虫は三年の間、生きながらの墓場、冥土(めいど)のような闇の中でこうして暮らしています。そして遂には二インチ半ないし三インチの長さになり、人間の小指位の太さになります。次いで体内に神秘な変化が起こり、その変化のために否応なしに木の表面に向かって真直ぐに孔を穿って出て来ます。そしてさっさと仕事に取り掛かり、居心地の良い寝床になるように、直径三インチ位の適当な長さの巣を造ります。虫自身のいのちの中にある“何物か”の智慧により、樫の木から取った繊維で巣に内張りをするのです。この“何物か”を我々は何の躊躇(ちゅうちょ)も無く本能と呼んでいます。実はこの“何物か”は神の智慧が光のごとく現われたものであり、この智慧によって変貌を行うに便利な場所を準備し、その変貌によってこの虫は新しい生活と新しい運命とに入って行くのであります。

 然しこの変貌を行う場所としての彼の楽屋は、これだけの準備で完成したのではありません。幼虫は将来の出口をカモフラージュするに丁度足るだけ樫の皮の表皮をホンの少し残してその下のところを全部齧(かじ)って、不思議にも将来出て行くことを本能的に知っていて将来にそなへて、出ることを容易にしておくのであります。次に体内の分泌物からかたい粘質物を吐いて入り口を封鎖し、雨その他の侵入するものを防ぎます。このようにして一大変化の準備を終ると、この醜(みにく)い、見ればぞっとするような姿をした虫――当時は、その感覚は基本的なものが二つしかなく、どう観ても樫の木質を消化する能力を持つ長さは指ほどの一片の腸にすぎないような様子をしたこの虫は――眠りに入るのであります。

 併し、その眠りは今まで全然知らなかったような眠りです。「死」さながらの眠りです。そして本能的に頭を入り口の方にして眠るのです。これには重大な意義があるのですが、そのことは後に述べます。この点に注目して、一般の人間は「死」と云う一大変貌の起こる前にこの虫位の分別があって、肉体の「死」の後に来る「生」について準備が出来ているか確かめてみるがよい。
 一定の時が経つと「復活」と云う不思議が起こるのです。生きた大甲虫が「死んだ体」から現われます。芥(あくた)の如く「醜い虫」の死の体から生きた新しい輝かしい体が甦(よみがえ)るのです。彼はぎらぎら光る鎧(よろい)を着け、翼を持ち、味方か敵か、恋の相手か恋敵かを、その顫動(せんどう)によって見分ける鋭敏な触覚を持っています。彼は、もう味覚と触覚だけの下等生物ではない。立派に“五官を具(そな)えた”誠にすばらしい動物であります。彼は恋愛その他の高い程度の冒険をすることも出来るし、かれは、もう前方へ匍匐(ほふく)するだけしか知らない動物ではない。もう飛翔の機は熟しています。永眠の死の扉はばらばらに裂かれ、新しい生き物となって防寨(ぼうさい)を破って外界に飛び出して天空に舞い上がるのです。

如何なる意味から考えても、彼は全然新しき生物です。そして新しき世界に、新しき生活を始めるのです。若し出来るなら、何がかくならしめたか、説明して戴きたい。私はその経過を説明しただけであって、その不思議を説明することは出来ないのです。この不思議を司るものこそ宇宙普遍の知性――神なるもの――ではないでしょうか。その不思議な知性があなた達にも宿っているのではないでしょうか。>>




霊魂進化の神示(『神ひとに語り給ふ』神示講義・教の巻(P.167−168)および『生命の實相』第9巻・霊界篇上巻P.102−103)

<<『神の子』なる人間の實相を現象世界に実現するのが人生の目的である。現象世界とは現界、幽界、霊界を通じて呼ぶ言葉である。人間の運命とは『神の子』なる人間の實相(因子=たね)が現象世界に投影する時、時間空間的に展開するのに、おのづから一定の順序を追うて展開して行くように大体定められているのを言う。

それはたとえば朝顔の種子(たね)の中には既に『花』の因子(たね)が包蔵されているが、それが現象界に『花』となって完成するまでには、日光に逢い、湿気に遇(あ)い、芽を出し、蔓(つる)を出し、蕾(つぼみ)を生じ、ついに花を開くと云うように、大体一定の順序を追うて展開するが如きである。斯くの如く、神の子なる實相人間も、その投影を現象界に完成するには大体一定の時間を要し、植物が日光に逢い、雨露に遇(あ)うが如く、或いは幸福に恵まれ、或いは虐運(ぎゃくうん)と戦うことによって、といに實相人間の現象界への投影を完成するのである。

併し、その投影が完成するには、その投影は『念波の集積』で成立(なりた)っているのであるし、人間は心の自由を有(も)ち、自由に實相の悟りによって念波を浄(きよ)め得もすれば、迷いによって念波を一層汚(けが)すことも出来るのであるから、現象世界に實相人間を顕現する過程(進化の過程)を心次第で縮めることも長くすることもできるのである。

霊魂進化の過程を短縮するのは、念の浄化による。念の浄化には、實相を悟ることが第一であり、物質欲に捉(とら)われざることが第二である。物質欲に捉われざるためには、『物質本来無し』の真理を悟るのが第一である。『物質本来無し』の真理をさとる程度に達せざる者には、物質の快に捉われざるための修行として、自ら進んで苦を求めて喜ぶか、物質に快を求めて却って苦を得る体験を通じて、ついに物質欲に捉われざるに到るかの二途しかない。

前者は自ら進んで嘗(な)める苦行であり、後者は幸福を求むれども求むれども運命的に他動的にやってくる苦難である。その他に過去の悪業の自壊する過程として自己の霊的流動体に起こる擾乱(じょうらん)現象の苦痛もある。苦難がみだりに取り去られず、多くの霊魂の霊界通信が苦行の価値を力説しているのも此の色々の理由によるのである。(昭和八年九月十五日神示)>>




『生命の實相』第9巻・霊界篇上巻・はしがきP.2)

<<・・・個人の運命は国家や民族の運命と混じり合っているのである。さらにくわしく言えば地上の人類全体の運命および地球と他の天体との関係における運命とも混じり合っているのである。そして地球やその他の天体は、人間の霊魂がそこにおいて修行し、向上し、内在無限の神性をより多く発揮するための「場」だということができるのである。したがって、肉体をもっている人間の運命は、肉体を脱却して、よりいっそう進化向上せる霊魂の指導を受けて、種々に導かれ、修正せられつつあるのである。

われわれはこれらの関係を無視して人間の運命を論ずることはできない。人間は決して肉体存続期間だけの存在でもなければ、その生活圏が地球上だけに関係しているのでもない。あらゆる天体はわれわれの生活の「場」であり、進化向上の「場」として造られたものであって、天体の運命と、個人の運命とは密接に関係せしめられているのである。われわれがここで言う「運命」とは運がよくて金が儲かるとか、運が悪くて失敗するとかそのような小さな問題を言うのではない。もっと人類全体と、そして宇宙全体とに、関連せるところの大いなる運命である。・・・>>




『生命の實相』第9巻・霊界篇上巻・P.97)

<<「理解せんと試みることは進化することである。」>>




霊魂の進化の程度の測定標準(『生命の實相』第9巻・霊界篇上巻P.120)

<<・・・ともかくわれらの地上において霊魂の進化の程度を測定する標準はあるのであろうか?この世に出生した霊魂の高さを示す徴候というものはあるのであろうか――と自分はいった。
 ヴェッテリニは答える――「直覚的認識――霊魂の認識のほかに、外より見える徴証(しるし)もたくさんある。そのうちの一、二をここに言ってみよう――<第一>、“雅量(がりょう)”である。しかしここにいうところの雅量は人間霊魂の深き認識より出発したる他に対する赦(ゆる)しである。それは聡明なる雅量であって寛大と峻厳(しゅんげん)との必要を知るところの雅量である。Bonte-severite(寛大なる峻厳)こそ向上せる霊魂の特徴として記憶すべき一つである。<第二>、卑しき者、世に出でざる者、弱きものに対する愛――社会的成功、名誉、地位等に対する無関心によってともなわるる愛である。<第三>、哲学的思索の傾向、霊界の神秘を知らんとする熱望、その神秘に貫き入ろうとする努力――これらは霊魂の進化そのものである。」>>




霊魂の個性の存続と価値(『生命の實相』第9巻・霊界篇上巻P.135)

<<個性的意識は、進化の過程を通じて層一層個性的となるものであるか?またスピリットは常に自己自身の存在と継続と同一自己を意識しているか?それともある教義でとなうるごとく、進化するということそのことのために、個性的意識が普遍的意識に吸収されてしまうものであるか――すなわち霊魂の進化とは緩徐なる個性の破壊的過程であるのか?

自分のこの問いに対してレイヌは鋭い注意をあつめて聴いていたが、自分の方へ振り返った――

「コルニリエさん。ヴェッテリニのおっしゃるところによりますと、個性的意識は進化の度が進むに従っていよいよますます大となるのです。霊魂が一生涯によって獲得し征服したすべては、その霊魂の個性をそれだけ明瞭にそれだけ強大にするのです。個性は彼のものです。彼のみのものです。蒼色のスピリットは灰色のスピリットよりも個性が明瞭です。白色のスピリットは蒼色のスピリットよりもなおいっそう個性的です。なおいっそう高級なスピリットは、なおいっそう自己自身であるのです。>>



 
霊魂の個性の存続と価値(『人間死んでも死なぬ』P.340−341)

<<その如く、「あなた」の肉体は幾度滅びても、<「あなた」なる理念>は、つねに設計者の中にあって永遠に死滅することないが故に、幾度でも地球またはその他の遊星の如き適当なる環境材料を見出して、そこに“現象的な人間”として姿を現し出るのである。そしてかくして出生する“現象的な人間”は<本当の人間(理念の人間)>のただの投影(かげ)に過ぎないのである。
 私は「人間」そのものは、設計者の「理念」なるが故に消えることなき久遠不滅の存在なのであると言った。ここに見逃すべからざる二つのことがある。

(1)「人間」は設計者に関係していること。
(2)「人間」の本質又は“本当にある”人間は理念であるが、その理念とは類型的概念ではないと云うことである。

「<人間なるもの>」と云う共通類型的な概念ではなく、ひとりひとりの人間、「あなた」なるもの、「彼」なるもの------等々悉く設計者の心の中に描かれたる個性的な理念であって、決して類型はないのである。設計者を仮に神と云う。神の心の中には決して類型的な理念は描かれはしないのである。神は無限創造である。神は無相にして無限相を内に包蔵する。類型の重複を造り出す必要は決してないのである。「人間」には類型は一人も」ないのであって、悉く個性を備えている。類型の如く見える人間が若しありとすれば、それは本来類型の人間ではなく、まだ未発達であるが故に個性ある人間の特殊性が蔽(おお)われて開顕していないに過ぎないのである。それは柿の嫩葉(わかば)と大豆の嫩葉(わかば)とが、互いに類型的に形が似ているのは、それが本来類型的な為ではなく、それが未発達であるが為にその個性が完全に発揮されていないに過ぎないのである。

 「理念」には類型はなく、悉く個性的である。人間も赤ン坊は一層類型的であるが、生長するにつれて“より”一層個性的となる。猿の胎児と人間の胎児とは互いに類型的であるが生長するにつれて別個の斬然(ざんぜん)たる個性を発揮する。民族もその未発達期に於いては類型的な性格が多いが、より一層発達するに連れて、より一層個性的となるのである。>>


<註・コメント>

 開祖・谷口雅春先生のこの部分の御文章は、個々の霊魂の個性の進化に関する“生命哲学的”な根拠であると考えられると思います。こう云うのが第三代目・谷口雅宣先生のお好きな<“理性”による理解>というものだと思います。開祖・谷口雅春先生の『御教え』は霊的直感的把握と共に、このようにキッチリと“理性的理解”が出来るものなのであります。





永遠生命・輪廻転生・個生命の進化を説かねば宗教家とは言えない! 開祖・谷口雅春先生の『御教え』を学ぶ<第六回> (5011)
日時:2014年08月30日 (土) 07時51分
名前:信徒連合




個性命の進化と向上



(第二回)




『生命の實相』第9巻・霊界篇上巻よりの抜粋


<<霊魂の進歩は自己みずからの体験によって獲得した智慧によるのである。人はただ自己が経験したことのみを“本当に知る”のである。経験しないものは「であろう」にすぎないのである。>>(P.128)


<<人の霊魂も意識の鈍(にぶ)い不発達な状態から、しだいに進化するにつれて意識の玲瓏透徹(れいろうとうてつ)した状態へと到達する。かかる状態へまで進化した霊魂は、地上の運命を支配したり修正したりする力を得るのであるが、その力は霊魂の進化と共に常に増加するのである。>>(P.164)


<<スピリットが高級の進化をとげた場合には、高く進化せるという“その”事実によってそこには完全な調和が存在する。といってもこれは個性の滅却ということではない。ある完成せねばならぬ仕事に対する意見がマチマチにならないということである。完成すべき目標は一つである。分担すべき部分がちがっているが、受け持つ仕事をいかになすかということについて諍論(そうろん)されるということはないのである。

これに反して低き霊界においては、地上の人間生活に付きまとうていた異論百出的な状態が存在する。各スピリットは地上において有した性癖や意見の俤(おもかげ)をそのまま備えている。社会問題、政治問題、宗教問題等は論争の種であって、彼らにおいてはまだパッションは超克されていない。霊界通信においてスピリットの持説が区々に別れているのはこの理由によるのである――

あるスピリットはきわめて真面目に、祈りは魂の安息のために必要であると説いているしまたあるスピリットはきわめて真摯(しんし)に、教会のために寄付金を募るのはよいと考えている。またあるスピリットは機才(ウィット)を誇るために、あるいは単に戯言(ぎげん)を弄(ろう)する面白さからでたらめな意見を述べて人々を欺(あざむ)くのである。「死者」は、彼が生きていた時知っていたこと以上のことを知らないのがふつうで、生きていた時よりも無知であることさえ時にはあるのである。例えば、生前優秀な肉体を備えていた霊魂は、肉体を放棄することによってかえって貧弱となったわけである。>>(P.167−168)、

(註・コメント――開祖・谷口雅春先生は嘗て、“戦後の世の中には<体育館>は沢山出来でいるが、それ以上に<心育館>こそが必要である、と言われていたことをこの霊魂の進化に関連して今思い出します。)


<<人間は正邪を甄別(けんべつ)しなければならない。進化を促すのは研究であり、理会せんとする努力である。もし人間に「真理」ばかりが与えられるならば「真理」に到達せんとする努力はなくなり、彼等の進化は停止するのだ。>>(P.175)


<<霊媒的能力は、肉体的素質の問題であって、霊魂の素質に無関係だということである。>>(P.178)


<<あらゆる生物――造られたるものは――進化しなければなりません。それ故進化の方法を見いださねばなりません。>>(P.185)


<<高く挙(あ)がるもの、低く落ちるもの――興亡の変化が、ただ人間的事件より結果するものとしてはあまりに激しい――レイヌはそれをただ人間の残忍性だけの発露以上の高い原因に帰している。この恐怖すべき悲惨な状態をもたらしたのは人間の残忍性だけによるのでも、既成社会が新時代に対して無理解すぎるのによるのでもないといっている。それは宇宙変化の周期的法則に起因する――それは恒星の進化に原因する。時代が進化の一周期の完了期に近づきつつあるのだ。最も進化せる人種は滅びなければならない、これが自然の法則である。今より三百年――もしくはその前後のころに、地球の大変動が起こる――大地震、火山の爆発、大洪水、旧大陸の海中への沈下、新大陸の出現等があってわが国の大部分およびわが国民の大部分は破滅する運命をもっている。彼らは一種無言の本能によって、自己を破滅の淵(ふち)に運んで行きつつあるのである。――否むしろいっそう悲惨な運命へと突進しつつあるのである。>>(P.219)


<<その後のヴェテリニの霊示を聞くに、人間の霊魂が地上の進化の一段階を完了するには、普通四千年ないし六千年を要するのであって、その期間には、三、四十回の地上への生まれかわりと、それにともなう更生前の休養期とが含まれているのである。他の星の生活から地上へ転生せる霊魂群の間には、互いに相関関係があるのである。白色人種として進化すべく、他の星より転生せる人間霊魂群がことごとく皆、地上の試練生活の一サイクルを終了するには二万五千六百年を経過しなければならないことになっている。現代地上に生を享(う)けている霊魂たちは、一度に全部地上に生を享けて来たのではない。それは連続の周期波によって幾回にも分かれて地上に移住し来たったのであって、各自はかくして自己の受け持つ地上生活の舞台を完了しつつあるのである。フランス民族中には、この最初のころの地上転生の周期波に乗せられて地上に移住せる人間霊魂群がかなり多いのであって、これらの霊魂たちは、さらに重ねて地上生活を閲(けみ)する必要がないのであって、これらの古き移住霊魂は、今より三百年ほどの間に完全に霊界人としての生活に入り、新しく地上に生まれかわり来る霊魂たちを指導する役目をとることになる。だからこの周期の終末期に地上より姿を没するのは、必ずしもフランス民族またはフランス国民だけではない――それがフランス民族だけのように取り次いだのはレイヌの誤達である。今より三百年前後を一周期の終末として地上生活を完了するのは、今より約五千年前、地上生活に白人種として移行し来たれる移転霊魂の最初の一群である。

 この霊示が真なりとすれば、人間社会の進歩が不可解に遅々としている理由が説明されるのである。ある所要程度まで進歩せる霊魂は、(みずから進んで特殊の地上任務を尽くすために地上へ顕現(あらわれ)る霊魂は別として、)地上に再び生まれ来らず、まだ粗野なる未発達の霊魂のみが地上に移住し来たるのであるから、その道徳性および人間性の進歩があるレベルをいつまでも越ええないのは当然である。しかし更生周期(サイクル)の度数が重なるにつれて、地上人間の霊魂の進化がいっそう速やかになる見込みはある。すなわち、後に来たる霊魂は先の霊魂よりもいっそう教育的な条件を見いだす。換言すれば、その肉体器官は、いっそう精妙に進化せるものとなっており、個人的経験を通じておよび霊魂よりの指導を通じて、ヨリ多くを学びうることになるし、社会もまた個人の活動および創造をより自由に営み得るようになっているであろうから。>>(P224−225)




『別冊・真理』<生死を超える道>よりの抜粋

<<人間は一層高き世界に向かって進化の螺旋階段を登って行きつつあるのであります。イエス、マホメット、釈迦、ソクラテス等の聖者は、その生活と教えとによって、如何なる精神的生活の原理を実行すれば、各個人が、そして遂には人類が、一層高き世界に到達することができるかということの目標を示しているのだと吾々の精神科学は観るのであります。>>(P.12)


<<人間の知的発達の程度は、最下級の痴呆者から、大思想家、大科学者の創造的天才の頂点に至るまで実に千差万別であります。この事実が人間の生命は単に「種族」の生命として動物、昆虫、鳥類、魚類の場合のように、一斉に揃って進化するのではなく、「個」としての生命が、個々別々に進化することが判るのであります。人間の心、道徳、精神の発達程度に右のような大差があり、従って、条件に不公平を生ずるという事実は、人間の個性生命の不滅と云う問題に関連して深い意義があるに相違ないのであります>>(P.31)


<<人間不平等の所以――
ともかく人間の天賦は他の動物のように大勢がみな一様ではなく、個人個人がみな精神的にも、道徳的にも、更に肉体的能力にまでも、個性的に異なる発達をしていることによって、人間の霊魂が繰り返し生まれかわる間に特殊な発達をとげたのだと結論してもよいと思うのであります。このことは非情にむつかしい問題であることを私も認めます。とくにこの事には未知の部分が含まれていますので益々困難ではあります。或る点では推理によって結論に到達しなければならないのでありますが、推理に頼ると云うことは、すべての古い宗教と少数の新しい宗教とのどちらにもある致命的誤りの源であったことは明らかであります。然し先入観や偏見によって証拠を抂(ま)げようとさえしなければ、代数方程式の場合のように、人生の事実に合致する答えが得られる可能性はあるのであります。

 實相哲学を主流とする神学体系は、「神はすべてであり、神は霊である。故にすべては霊であり、物質は存在せず」と云う直観的真理を基礎としているのであります。この直観を基礎とした哲学および神学は、病気の如き人間経験を否定する時は、理論的であり、科学的であります。これは絶対理想主義の哲学であって、理論的に「罪と病と死」の存在を否定する時、この三つの悪は意識の中に居り場がなくなり、従ってそれらを恐れることが無くなるからとの理由でこの説を受け入れる人にとってはなかなか好結果を得る学説であります。この純粋理想哲学を奉ずる人の信念が昂揚するとき、五官の立証するものを否定し、さらに理性が肯定するものさえも否定し客観的経験さえも否定し去るならば、自律神経を媒介として生理作用を司る潜在意識は、その「否定」によって悪(病気等)をおそれなくなっている人をその悪から解放するのであります。>>(P32−33)


<<心の因と肉体の果――
このような問題に直接に接近して行くためには、心の世界に働く因果の法則の有りのままを研究しなければならないのであります。“宇宙の知性”は人間を創造し、人間の魂に不滅の観念および不滅を実現したいと云う希望を植えつけたのである以上、これを立証する方法も必ず造ってあるに相違ないのであります。しかし如何に多数の人々がそのことを信じているにしても、疑いの存する限り、実例によって立証されていないのだと云うことになるのであります。

 人間の大多数が信じ且つ願っているところの生命の「不滅」と云うことは、滅する肉体を超えて不思議な煙幕の彼方にあるのであります。この肉体の眼は、こうした煙幕を貫いて見る事が出来ないのでありますから、理に照らしてその不滅なる「結果」を来たすための「因」求めなければならないのであります。われわれは盲目的信仰のみを頼りとすることは出来ないのであります。歴史を見ても現代人の為す所を見ても、、人間は本気になって誤謬を信ずることが出来るものだと云う事が明瞭に証明されているのであります。例へば、キリスト教の世界では、文字通りの「天国」と客観的な「地獄」とが現実に存在し、肉体死後の魂がそこに行くのだということを信ぜよと教え、また事実大多数の人が信じているのであります。そして死後人間の或る者は永遠の歓喜を受け、ある者は永遠の苦痛を受けるのであると信じているのであります。

 右の信仰の証拠としては、昔ながらの教義と伝説意外には何もないのであります。その伝説と教義とは九十九パーセントの人間が文盲で迷信に浸っていた頃の無知蒙昧の暗闇時代(くらやみじだい)の人々の書いたものであります。それらによると肉体を離れた人間の魂には二つの階級があり、その住む場所が二つの場所に別れるのだと云う以外には住む場所はなく、その精神的原因としては、或る人の身代わりの苦しみを信ずる事によるだけで一方は聖人となり、他の人はそれを信じないだけで永久に罪人として処罰されると云うこと以外には何もないのであります。そう云う宗教においては、公正な神の本質、贖(あがな)いの法則、精神的進化の原理等は皆拒否され、科学上の事実と理智の叫びは無視され、その代わりにずっと昔死んだ人々の言葉の権威および教会当局者の言葉を迷信的に信じているのであります。>>(P.34−36)




『別冊・真理』<生死を超える道>よりの抜粋


<<過去の預言者の偉大な直観にみちびかれて真理を悟る者は幸いであります。然し私たちは単にそこで止まってしまってはならない。私たちは自分自身、己の耳を開いて大自然の声を聴き、心の眼を開いて大自然の魂が斯くも豪壮にして劇的な、適格な言葉で教えてくれる教訓を見なければならないのであります。その教訓はすべて私たち自身に関するものであって、目に見える形で書かれており、私たちによく考えよと言って挑んでいるのであります。>>(P.50−51)


「個」の進化と「種族」全体の進化――

<<「種族」としての全体の進化は、植物であっても昆虫であっても、或いは獣の場合でも、「種」としての生命は共同戦線を張って前進するのでありますが、人間の進化に於いては「個」としての生命が様々に変化ある戦線を張って前進するのであります。その前進は一列には並んでいないのであります。その前進は個人的業績として蓄積されてゆくのであって、工学上の製品、芸術、技術等の文化的創造、教育上の進歩-------等の如く、その福祉は、全体に及ぶことは及ぶのであるが、魚族、鳥族、象族等が「種」の進化の共通のものを代々受け継いで行くが如くには、人間は、種族全体が、個人の知的精神的発達を代々受け継いで行くことを証明する何物もないのであって、人間は、個々の霊魂が一人ひとり進化するのであります。>>(67−68)


<<遺伝は肉体的特徴だけは承(う)け継いで行くのであって、一定の型の器官を有する身体は人類の共通の継承物であります。知性はその力を比較して計るとき、下は愚鈍の零(ゼロ)から、上は天才と呼ばれる最高のものに至るまで、実に無数の段階があるのであります。

 低い段階の親が、高い段階の子を持ち、高い段階の親が低い段階の子をもったり、大都市の貧民窟(ひんみんくつ)に生まれた子供が非常に大きな権力のある地位を得たり、王侯富貴に生まれた子が堕落して能力なく、非生産的寄生生活をしたりすることがあります。斯様(かよう)な変化は本能のみで生活する低いレベルの生物には全然起こらぬか、少なくとも極めて稀であって、それらの生物同士を比較してみても、その能力の差を見ることはほとんど出来ない程であります。先ず、人間以外の生物は、その与えられている能力が種族別に平均していると言えるのであります。>>(P.68)


人間には平等はない――

<<ところが人間は平等には生み出されていない。一人一人が、著しい特色、傾向、個性的性格等を持って生まれるのであります。犯罪的傾向、残忍な性格、反社会的衝動等を天賦的に持っているのもあれば、又通常の人もいます。通常とは種族民族又は国民の作っている共通の標準に精神的に又道徳的に合致していると云う意味であります。更に或る者は生まれながらにして特に勝れた力と天賦とをもっています。動物や昆虫は平等に生まれると言い得るであろうが、人間は平等の素質をもって生まれるとは言えないのが事実であります。>>(P.69)


差別の原理――

<<身体の生理作用は自然の法則に随って行なわれますが、魂の発達は霊の法則に従って行なわれます。前者は肉体に関連し、後者は霊体に関連します。前者は一時的であり、後者は不滅であります。そして霊体の発達が存続して人間に差別を生ずる原理となるのであります。霊体を使用する魂は如何なる「生まれ更り」の肉体に入るにしても、その肉体に入る前に「個」として存在していたのであるからであります。人間の精神的道徳的身長が千差万別である理由は他に説明のしようがないのであります。これは人間進化の理に叶った説明だと言わなければならないのであります。>>(P.69−70)











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