生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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<転載> 「マサノブ教団」全本部講師・地方講師必読の“真理の悟り”投稿文 <その十五>  (5003)
日時:2014年08月29日 (金) 13時04分
名前:信徒連合




この様な素晴らしい「生長の家」真理の理解と解説の投稿文が見つかりました。他の掲示板でも転載されております。最初に見つけてくださった方に感謝申上げます。

「マサノブ教団」が依然として「生長の家」という看板を掲げている限り、そこに所属している本部の講師部長、本部講師、地方講師の皆さんは自分自身どの程度深く開祖・谷口雅春先生の本来の『御教え』という真理を理解しているかの尺度として、熟読して頂くに値する現代の「維摩居士」とでもなぞらえることの出来る内容であります。謹んで御紹介させて頂きます。

出所は、−−
http://56937977.at.webry.info/201408/article_5.html


////////////////////////////



< 転載:第十五回 >





19/久遠の今<Vリーズ(1)/「久遠の今」神は一切万物大宇宙を創造し給う

<< 作成日時 : 2014/08/28 23:22



 「久遠(くおん)の今」とは、「唯神実相哲学」において極めて重要な概念です。生長の家創始者谷口雅春先生は、生長の家の哲学の中で、一番重大な問題は、今≠ニいうことであり、この今≠ニいうことがわかったら、それが本当の悟りである、とまで諭しておられます。現在世界で発生しているあらゆる問題の根源は、「近代科学(物質科学)」に裏付けられた「唯物論」にあると言えましょう。実は、「唯物論」の迷妄から完全に脱却するには、「久遠の今」に穿(うが)ち入らなければならないのです。今回は、三回シリーズに分けて、「久遠の今」をテーマにして考えて見たいと思います。

  合掌礼拝
                 ©2014あまむし


19-0) まえがき/如何に「久遠の今」が重要であるか
19-1) 創造の神は「久遠の今」の一瞬、大宇宙を創造されている
19-2) 「久遠の今」の実在世界と、「時間空間」の現象世界の違い
19-3) 「心の汚れ」を取り「焦点を合わせる技術を習熟」すれば「真象」が現れる
19-4) 「日本惟神の道」は「真象」を現す道を示し、『古事記』は宇宙創造の原理を示す
19-5) 時空の世界から観察すると「物質が継続的に存在し続けている」ように見える
19-6) 「地上天国実現」の鍵は、「久遠の今」にある



※インターネットの世界では、いつ情報が遮断されるか分かりません。もし、「もう一度文章を見てみたい」と思われる方がおられましたら、ご自分の責任で「保存」されることをお勧めいたします。拡散はご自身の責任でご自由にどうぞ!©2014あまむし

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19-0) まえがき/如何に「久遠の今」が重要であるか


〈19-0-1 谷口雅春先生の「久遠の今」のお悟り〉

 『生命の實相』自伝篇にある次の一節は、谷口先生が生長の家を始められた直前の、お悟りの瞬間であります。一部引用させて頂きます。《「今立て!」という声が、覚えずわたしの頭の中で、どこからともなく降るように聴こえてきたのだ。「今立て!」とその声は言った。「今のほかに時はない。『今』の中に無限があり、無尽蔵がある。軍資金ができてから、時間の余裕ができてから、身体の余裕ができてから、光明化運動を始めようなどというのはまちがいだ。三界は唯心の現われだ。力が出ると知れば、その時すでに無限の力はなんじの有(もの)である。実相のお前は久遠の神性であり、すでに無限の力を持っているのだ。」》

 《「現象はない! 無いものに引っかかるな。無いものは無いのだ。知れ!実相のみがあるのだ。お前が実相だ、釈迦だ、キリストだ、無限だ、無尽蔵だ!」大きな降雹(こうひょう)のたばしるような声がわたしの頭の中でした。わたしは全身の痺(しび)れを感じた。久遠の今、すでに無限力であり無限智であり、仏である自覚が自分に甦生(よみがえ)ってきた。》(谷口雅春著『生命の實相』自伝篇より一部引用)



〈19-0-2 谷口先生は「久遠の今」に在って、真理を説かれた〉
 ここに書かれている「今立て!」の「今」は、「久遠の今」であります。時間の流れの「今」ではありません。先生はこの「久遠の今」に在って、真理を説き始め、ずっと説き続けておられたのであります。又、谷口先生は御講話で、《生長の家の生き方、哲学の中で、一番重大な問題は、今≠ニいうことであります。この今≠ニいうことがわかったら、それが本当の悟りであるわけです。今≠ニいうのは、久遠の今≠ニいうことであります。》このような内容を説いておられました。「久遠の今」が、生長の家の哲学にとって、一番重要な問題であり、先生御自身が「久遠の今」に在って生き続けておられた結果として、生長の家の膨大な真理が地上に現れたことを考えます時、如何にこの「久遠の今」ということが重要であるかが、分かるのであります。




19-1) 創造の神は「久遠の今」の一瞬、大宇宙を創造されている

 今年の夏も終わろうとしています。8月のある日の朝でした。いつもの様に神想観を行じておりました時、「久遠の今」についての気付きがありましたので、まとめてみました。


〈19-1-1 「創造の神」は光源/天照大御神、塩椎大御神、住吉大御神と尊称されている〉

 今この一瞬一瞬、神の創造活動が大宇宙の至る所で行われています。「創造の神」は光の源であり、これを「天照大御神」と日本民族は尊称しました。同時にその光源には、無限の「理念」が内在しており、これを「塩椎(しおつち)大御神」と尊称しました。又、同時に一切を「顕現せしむる働き」となり、法則となり、愛となって現れるのであります。それを「住吉(すみのえ)大御神」と尊称いたしました。



〈19-1-2 創造の神は「久遠の今」の一瞬、大宇宙を創造されている〉

 神は「久遠の今」(時間空間の現象が現れる以前の「絶対無の今」)の一瞬一瞬、創造活動をせられています。この「久遠の今」の一瞬、大宇宙の一切を創造されています。一瞬で、一切を創られるのです。一瞬一瞬と表現していますが、現象面から表現するとそうとしか表現し得ないから、「一瞬一瞬」と言いましたが、より的確に表現すれば、「久遠の今」ということになります。



〈19-1-3 「久遠の今」に「実相世界」がある〉

 一切を創り給う神は、「神の無限の智慧」「神の無限の愛」「神の無限の生命」「神の無限の供給」「神の無限の喜び」「神の無限の調和」を内在しておられます。つまり、「久遠の今」に神の一切の御徳が内在し、大宇宙や時空間の、過去、現在、未来の一切の理念的実在が内包されているのであります。「久遠の今」こそが、「実相世界」「神の実体」であります。



〈19-1-4 一切万物は「光源たる神」から発せられた「光」である〉

 「光源たる神」は一切万物を産み出しておられます。一切万物は、「光源たる神」から発せられた「光」そのものであり、それは、「光源たる神」(天照大御神)の「無限の理念」(塩椎大御神)の「顕現」(住吉大御神)として「無限の知恵と愛と生命」が展開している調和せる世界であります。従って、大宇宙の一切万物は、大調和しているのであり、争ったり、ぶつかったりすることはあり得ないのであります。



〈19-1-5 全能なる神の心動き出でてコトバとなれば、一切の現象展開して万物成る〉

 聖経『甘露の法雨』「神」の項に《この全能なる神、完全なる神の 『心』動き出(い)でてコトバとなれば 一切の現象展開して万物成る。万物はこれ神の心、万物はこれ神のコトバ、すべてはこれ霊、すべてはこれ心、物質にて成るもの一つもなし。物質はただ心の影、影を見て実在と見るものはこれ迷。汝ら心して迷に捉(とら)わるること勿れ。》(谷口雅春著『甘露の法雨』より一部引用)とあります。全能なる神は、「久遠の今」の一点において、大宇宙の万物を創造せられているのであります。




19-2) 「久遠の今」の実在世界と、「時間空間」の現象世界の違い

〈19-2-1 完全円満なる実在宇宙は、「久遠の今」顕現(創造)されている〉

 「久遠の今」における神の創造とは、どのようなものでしょうか。人間の想像を遥かに超越した「神の創造の世界」でありますから、言葉にすること自体が元来無理に違いありません。しかし、それと解った上で、あえて文字に書き表わしてみたいと思います。創造の神の「無限の理念」の顕現として、又「無限の御徳(智慧と愛と生命)」を備えた「光の展開」(神の想念)として、完全円満なる実在宇宙は「久遠の今」顕現(創造)されているのです。その世界には勿論、神の子人間も実在し、一切万物と共に完全円満な大調和にして善なる世界が顕現しているのであります。同時に、ダイナミックな無限創造の世界でもあります。



〈19-2-2 実在世界は自他一体の「愛」の世界であり、観察し得ざる世界〉

 しかしながら、その実在世界は自他一体の「愛」の世界でありますから、未だ観察し得ざる世界なのであります。何故観察し得ないかと申しますと、それは、全てが一体であって「自分」しか存在しない場合は、客観的世界ではありませんので、「自分」を見れないからであります。しかし、「自分自身(の世界)を観察できない」という理由だけで、「自分自身(の世界)が実在しない」ということにはならないのです。唯、観察ができないだけのことであります。言って見れば、その世界は「主体(主観)」のみの世界と言えると思います。自分の目では、自分の顔を見れないようなものであります。



〈19-2-3 キリストの示し給うた世界が「久遠の今」の世界〉

 その一切万物が実在する世界は、「久遠の今」に全てが内在しているのであります。「久遠の今」というのは、それほどに偉大なるものであり、「存在の全て」とも云い得る、最重要事項と言えるのであります。これが「久遠の今」であります。『神の国は汝らの内にあり』と言われた、キリストの示し給うた世界が、「久遠の今」の世界であります。



〈19-2-4 釈迦の御悟り「華厳経」も「久遠の今」の世界〉

 又、釈迦が悟りを開かれて最初に説かれたのが『大方広仏華厳経(だいほうこうぶつけごんきょう)』であります。この御経で説かれた世界は、「毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)」(大日如来)が中心にましまし、一切衆生が光に満ちている大光明世界であります。「大方広仏」とは、時間も空間も超越した絶対的存在としての仏、という意味でもあり、この「華厳経」の世界も「時間空間の現象世界」以前に実在している、「久遠の今」の世界を現していると考えられるのであります。



〈19-2-5 自分を観察する「道具」が、「時間空間の客観世界」〉

 この実在世界は、自他一体の「一つなる愛≠フ世界」でありますから、自分の荘厳なる姿(実在宇宙)を、自分で味わうことが出来ないのであります。観察し、味わうためにはどうすればいいかと申しますと、「鏡」が必要となるのです。その「鏡」に相当するものが、「時間空間の客観世界」ということになります。実在宇宙(久遠の今)では、客観的に観察し得ないので、「時間空間の客観世界」を使って、観察するという仕組みを創り出した訳であります。そのための「道具」として編み出したのが、「時間空間の客観世界」であります。



〈19-2-6 「時間空間」という「鏡の世界」で自分を観察している〉

 この「時間空間の客観世界」という一種の「鏡」を使って、「実在世界の自分自身の姿を観察する役目」を、吾々肉体人間が担っているということになるのです。吾々は「時間空間の客観世界」に恰も自らも生きていると感じながら、同じく「鏡」の中に映し出された世界をも、眺めているのであります。そのようにしない限り、自分の姿を自分が観察することは出来ないからであります。



〈19-2-7 「肉体」と観じる事が「鏡の虚像で生きている」と錯覚している証拠〉

 「肉体を持っている」と観じていること自体が、既に「鏡」の「虚像の世界の中で生きている」と錯覚している証拠とも言えるのであります。なぜなら、「自分は今、時間空間の世界で肉体を持って生きている」と錯覚しない限り、「実在宇宙(久遠の今)を観察する」という任務が達成できないからであります。故に、一時的に錯覚しているに過ぎないのです。



〈19-2-8 「実在の自分の生命」は、「久遠の今」に生きている〉

 しかし本来の自分自身は、円満完全、永遠不滅の霊的実在そのもの、生命そのものであります。常に「実在の自分自身の生命」は、「久遠の今」に生きているのであります。「時間空間の現象世界で生活している」と見えている(観察している)「肉体人間」は、飽く迄観察する為に、仮に「鏡の世界に現れている虚像」でありまして、断じて「本当の自分」ではないのであります。



〈19-2-9 「久遠の今」の世界に居ながら、「肉体の目」を使って宇宙を観察している〉

 本当の自分自身の生命は、常に「久遠の今」の世界で生き続けているのであります。その「本当の自分自身の生命」は常住「久遠の今」の世界にありながら、「鏡の世界」の中に現れていると見えている「肉体人間の肉眼の目」を使って、恰も肉体人間が観察しているかのように、宇宙を客観的に観察しているのであります。



〈19-2-10 その人の心が観じた通りに、現象宇宙を仮創造できる〉

 この時に人間が使っているのが、「心(心のレンズ)」という素晴らしい道具であります。この道具は、「心が観じた通り(心のレンズを通して観た通り)に現象世界に投影される」という「心の法則」という、「宇宙の機能(システム)」であり、全ての人間が活用できるようになっているのです。従って、「その人の心が観じた(信じた)通りに、現象を現し出す」という芸当をいとも簡単に成し遂げているのです。則ち、「想った通りになる」のです。その人が想った(信じた)通りに、現象世界という「鏡の世界」に現れるようになっているのであります。



〈19-2-11 「アラジンの魔法のランプ」の「魔神」を皆持っている〉

 実に素晴らしい偉大な力を、全ての人間の心は既に持っているのであります。全ての人間の心は無限力者であります。「千夜一夜物語」の「アラジンの魔法のランプ」という物語に出て来る「魔神」は、どのような願いでも成就してくれます。その「魔神」以上の「無限力者にして忠実なる召使い」を、全ての人間が既に持っているということなのです。そして自分が命ずる通りに、欲する事物を叶えてくれているのであります。



〈19-2-12 「物質世界」は観察するための「虚の世界」であるから、存在していない〉

 こうやって、人間の「心のレンズ」を活用して見ているのが、「時間空間の世界」「客観世界」でありまして、そこに現れている存在を恰も「物質」として認識していますので、吾々人間はこの世界のことを、「物質世界」と思いこんでしまうのであります。ところが、この「物質世界」というものは、観察するために仮に現された処の、「虚の世界」でありますから、存在していないのであります。あるように見えているだけなのであります。「鏡」の世界に写った「虚像」のようなものであります。




19-3) 「心の汚れ」を取り「焦点を合わせる技術を習熟」すれば「真象」が現れる


〈19-3-1 「実相の眼」で「久遠の今」を観る「心の創造力」〉

 吾々人間は、「心のレンズ」を通して、「久遠の今」に実在せる世界を引き出す力を持っています。これは純粋な「創造活動」であります。自分が欲するものを、神様の世界から「現象世界」に現し出すのであります。この働きは「心の創造力」であります。「肉眼の目」を閉じて、「実相の眼※」で実相を観る働きであります。そうやって「実相の眼」で「久遠の今」の世界に精神統一するということは、「心のレンズ」を働かして観(み)ていることでもありますので、「因果の法則」が働くことになります。その結果、「時間空間の客観世界」に「物質」として、認識せられるようになるのであります。


※注)「実相の眼」は、「久遠の今」を観ずる眼であります。「瞑想」「祈り」「鎮魂行」「座禅」「神想観」等は、肉眼を二つの目を閉じて、この「実相の眼」によって、神の世界(久遠の今、実相世界)を心で観ずるのであります。



〈19-3-2 「肉眼の目」で「現象」を見る「心の観察力」〉

 上記の「心の創造力」を使って映し出した「現象世界」の映像を、「肉体の目」と「心(心のレンズ)」を使って、「神の子人間」自らが確認のために観察しています。これは「心の観察力」でありまして、その瞬間「実相の眼」を閉じて、「肉眼の目」を使って現象を見る働きであります。唯「観察している」と云いましても、肉体人間がぼうっと見ている間にも、「心(心のレンズ)」は働いているのであります。故に、自動的に「因果の法則」によって「時間空間の客観世界」に、「物質(現象)」として現し出されるようになるのであります。



〈19-3-3 「偽象」の「否定」と、「実相」の「肯定」が欠かせない〉

 「心の創造力」を駆使して実相(久遠の今)を観じても、又「心の観察力」を駆使して現象(心の影)を見ても、同じ様に「心が観じた印象」は「現象化」されるのであります。故に、もし迷いを含んだ「偽象」が見えたなら、それを即刻「否定」する事が極めて大切になるのであります。それと同時に改めて「実相世界(久遠の今)」の完全円満な姿を「瞑想する」(観ずる)ことが、極めて重要であると言えるのです。心が観じた通りに現象世界に現れるのでありますから、「偽象」の「否定」と、「実相」の「肯定」が欠かせないのです。



〈19-3-4 心の「創造力」「観察力」を使って、神が自己実現している〉

 神の子人間の生命は、「久遠の今」に座して、上記二つの「創造力」と「観察力」を持つ「心のレンズ」を駆使しながら、神の創造活動に協力しているのであります。もっと明確に言えば、「神の子」として現れた「神」が、「久遠の今」に座して、「心という道具」を使って自己実現されているのが、吾々人間の本質なのであります。



〈19-3-5 「心のレンズ」に汚れが無い場合は、「真象」が投影される〉

 人間の「心のレンズ」に汚(よご)れ無く、ピントのズレがない場合は、物質的に投影された「一切万物」は、「神の光(無限の智慧、愛、生命)」そのものとして投影されます。これは「真象(しんしょう)」であり、「実在」であります。



〈19-3-6 「心のレンズ」が汚れている場合は、「偽象」が投影される〉

 「心の創造力」を使って「創造」していますが、その「心のレンズ」が汚れていたり、焦点にズレがある場合には、「実相世界の理念」が歪(ゆが)んで投影されます。したがって、現象世界にそれは「不完全」として現れます。これは「偽象(ぎしょう)」であり、「実在」ではありません。「偽象」は必ず崩れ去る運命にあります。※


※注)「偽象≠ヘ必ず崩れ去る」についての詳しい説明は、後日アップ予定の『21-7) 「真象」は消えないが、「偽象」は消える』を参照して下さい。)



〈19-3-7 観察者の「心のレンズ」が汚れている場合は、「真相」でも不完全と誤解する〉

 現象世界が「不完全」と感じられる、もう一つの原因があります。例え現象に現れたものが「完全円満」の「真象」が現れていたとしても、観察者の「心のレンズ」が汚れていたり、焦点のピントが合っていない場合は、そこに現れている姿は不完全≠ナある、と誤解されることになります。



〈19-3-8 「心の汚れ」を取り「焦点を合わせる技術を習熟」すれば「真象」が現れる〉

 現象世界に現れて見える「偽象」の原因は、結局は「人間の心のレンズ」の「汚れ」と、「焦点を合わせる技術の未熟」にあるということであります。この現象宇宙を「実相世界」(久遠の今≠フ世界)さながらに映し出すには、結局は、「人間の心のレンズ」から、「汚れ」を払拭し、「焦点を合わせる技術を習熟」すればいいことになります。そうすれば、現象世界にも「真象」が現れざるを得ないことになります。



〈19-3-9 「物質有り」の印象に囚われると、「心のレンズ」が汚れる〉

 ところで、何故「心のレンズ」に「汚れ」が発生するかと申しますと、「客観世界」を観察した時に、「心」が「物質有り」という印象に囚われるからであります。なぜ「心」が「物質有り」という印象に囚われることが、「心のレンズ」が「汚れ」るのでしょうか。それは「物質有り」という概念自体が、「嘘」であるからであります。それ自体が「迷い」であるからです。「鏡に映し出された姿を見て、それが自分だ」と思い込んでいることが、「心の汚れ」なのです。「物質有り」という「迷い」が、全ての問題の根源なのです。



〈19-3-10 「心の迷い」を取り除く究極の「道」は、「久遠の今」にある〉

 その「心のレンズ」の「汚れ」を取り去るということは、「物質有り」という「迷い」を取り去る以外にないのであります。では「物質有り」の「迷い」を取り去るには、どうすればいいのでしょうか。それは、「物質無し」を知ればいいのです。「物質無し」を知るには、物質に囚われる経験を経て「物質の虚しさ」を知って、「物質無し」を体験的に知る方法があります。もう一つの「究極の道」は、「久遠の今」に心を振り向ける方法であります。「心の迷い」を取り除く「究極の道」は、「久遠の今」にあるのです。



〈19-3-11 「久遠の今」を観れば、一切の迷いは霜露の如く消え去る〉

 《無量の勝方便(しょうほうべん)は、実相を思ふより得
 一切の業障海(ごっしょうかい)は、皆妄想より生ず
 若し懺悔せんと欲せば、端座して実相を念へ
 衆罪は霜露の如し、慧日(えにち)能(よ)く消除す》

 『観普賢菩薩行法経』の一節は、まさにこのことを教えているのです。「久遠の今」を観れば(実相を念えば)太陽(神)の光が降り注ぎ、一切の迷い(一切の業障海)は、霜露(そうろ)の如く消え去るのであります。




19-4) 「日本惟神の道」は「真象」を現す道を示し、『古事記』は宇宙創造の原理を示す


〈19-4-1 宇宙の道理を極めてよく理解していたのが日本民族〉

 この世界に「真象」を現し出すには、「人間の心のレンズ」から、「汚れ」を払拭することと、「焦点を合わせる技術を習熟」すればいいことは理解できたと思います。その「宇宙の道理」を極めてよく理解していた民族が、実は日本民族なのであります。日本民族が長年月をかけて産み育てたところの「日本惟神(かんながら)の道」、乃ち「日本神道(しんとう)」を見れば、それは一目瞭然(いちもくりょうぜん)です。



〈19-4-2 「日本神道」では「祓い清め」で天地一切を清める〉

 日本に伝わる「惟神の道」、所謂「日本神道」では、「心の汚(よご)れ」を「穢(けが)れ」と呼びます。「心に穢れ」があるから、「神(天地万物の実相)」を隠してしまうのです。その「心の穢れ」は、言葉や行(想念の行動化)によって「祓(はら)い清め」ることにより払拭でき、本来の「神性が現れる」事を知っていたのです。従って、何にも増して「心身を清める」生き方を第一としたのであります。だから、一切の行事には、必ず「祓い清め」を行っているのです。



〈19-4-3 人間が幸せになるのは極簡単/これを知っていた日本民族は偉大である〉

 日本民族は、人間の「心の汚れ」をコトバで「払い清め」れば、天地一切が清まることをちゃんと知っていたのです。これは、実に合理的な考え方、生き方であると云わざるを得ません。人間は難しいことを学ばなければ幸せになれない、ということはないのでありまして、元々神は完全円満な世界を「久遠の今″沛に」提供してくれているのでありますから、受け取る人間の「心の汚れ」を、ちょっと取り除きさえすればいいだけのことであるのです。そのことをちゃんと知っていた日本民族は、実に偉大であると言わざるを得ないのです。



〈19-4-4 神道では「鎮魂」行によって、心の操作技術を習得する〉

 又、同時に神道では「鎮魂(ちんこん)」を重視します。鎮魂は「霊魂を鎮(しず)める」という意味に一般的には使われますが、「精神統一」として「神我一体」の行としての意味があります。つまり「神想観」や「座禅」の行法に当ります。この「鎮魂」行法によって、日本惟神の道(日本神道)では、「人間の心のレンズ」の「焦点を合わせる技術の習得」を盛んに行ってきたのであります。



〈19-4-5 「祓い清め」と「鎮魂」で、心を清め神に振向けてきた〉

 「鎮魂(精神統一)」は、自己の肉体を滅却(めっきゃく)し、心を神の理念に統一せしむるための行であります。古くから行われている「鎮魂」行と「祓い清め」の民族風習を通して、日本民族は心を清め、常に心を神に振向ける訓練をしてきたのであります。



〈19-4-6 「日本惟神の道」「日本精神」は、神の国を現し出す道〉

 日本民族が常に大切にしている「真心」「二心なき心」「正直」「誠」「無私」という日本精神は、その証であります。「心のレンズの汚れ」を取り除くことで、「真象」が現れるのでありますから、「日本惟神の道」「日本精神」を取り戻す事が、この世界に「神の国を現し出す道」であると言い得るのです。この点から見ましても、「日本惟神の道(日本神道)」と「日本精神」に基づいた生き方が、如何に天地の道理に合った、素晴らしい「道」かが分かるのであります。



〈19-4-7 「古事記の神話」が今この一瞬に成就している〉

 「神がこの宇宙の一切万物を創造せられている(産み出している)」という考え方は、日本民族の宇宙観を現している「古事記の神話」と共通するものであります。「古事記の神話」の内容は、神が一切万物を産み出した神話≠ナありますが、宇宙が始まり、日本国家が産み出された、昔の話だけではありません。「古事記の神話」は、今この一瞬一瞬、大宇宙で展開している現実である、と解釈すべきと考えられるのです。「神は今≠ノ至っても働き給う」のであります。この「今」は「久遠の今」であります。神の無限の創造は留まることはありません。大宇宙の隅々に亘って、神は今のこの一瞬一瞬(久遠の今)に、創造をしておられるのであります。働き続けておられるのであります。そして、創造された一切万物は、神の産み給うた神々として、尊称せられているのであります。この国産みの神話は、「久遠の今」この一瞬一瞬に実現しているのです。



〈19-4-8 神が神の子として、今の瞬間瞬間「天孫降臨」し続けている〉

 さらに「古事記」の「天孫降臨」の神話は、今この一瞬一瞬に、神御自身が全人類一人一人となって「天孫降臨」しておられる現実の描写であります。宇宙が創造された太古の描写ではないのです。あの「古事記」の「天孫降臨」は、実に「久遠の今」行われ続けている「神の創造の描写=vであったのです。「古事記の預言」の通り、神が神の子として、日本全土で、世界中で、全宇宙で、今の瞬間瞬間「天孫降臨」し続けているのであります。



〈19-4-9 『古事記』は宇宙創造の原理を捉えた人類の「宝物」〉

 『古事記』は古代人が頭で考えた唯の創作物では断じてないのであります。宇宙の創造の原理を、直感力によって捉えた日本民族の叡智の結晶と云えましょう。宇宙創造の原理と国家が産む出されて行く原理、人間が産み出されて行く原理、「久遠の今」、宇宙が創造されている原理が書き記された、人類の「宝物」と考えられるのです。今この一瞬にも「古事記の預言」が実現し続けているのです。




19-5) 時空の世界から観察すると「物質が継続的に存在し続けている」ように見える


〈19-5-1 物質が継続的に存在し続けているように見るのは、誤解である〉

 肉体人間の目から物質を観察していると、その物質が時間空間の中で、継続的に存在し続けているように見えていますが、それは誤解であります。「物質的存在」と見えるものが、物理的法則に則って、惰性的に存続していると見ているのは、時間空間のスクリーンに映し出された世界の方から見ているからであります。



〈19-5-2 時間空間のスクリーンを通して見ると、物質が存在する様に見える〉

 本当は「物質が持続的に存在している」のではなく、「一瞬一瞬に神の創造が間断なく行われ、物質が存続している様に見せている」という見方が、実体に近いのであります。「一瞬一瞬神が大宇宙を創造している」のですが、それを時間空間のスクリーン(認識の形式)を通して人間が観察すると、一見「物質が存在している」が如く錯覚されるに過ぎないのです。



〈19-5-3 「物質がある」と見えるので、「唯物論」的にならざるを得ない〉

 現象世界から観察すると、時間空間という確固とした世界の中で、「物質」が既に存在していて、さらに「その物質が持続的に存在し続けている」と見えてしまうのです。そのように、この世界は「物質がある」と見えてしまうが故に、どうしても「唯物論」的にならざるを得ないのであります。時間空間の世界から観察する限り、「唯物論」を完全に否定することは、なかなか難しいのであります。※


※注)「物質無し」「時間空間の現象無し」という考え方は、哲学的宗教的考え方である、という風に思われ勝ちですが、実は立派な「科学的事実」であるのです。既に天体物理学の世界ではとっくの昔に、「物質無し」「時間空間無し」は証明されているのでありますが、何故か、科学者も人々はその事実を承認しようとしないのであります。この事につきましては、次回の当ブログ『20/久遠の今<Vリーズ(2)/「物質無し」は哲学理論にあらず、科学的事実だ』で、検証してみたいと思います。




19-6) 「地上天国実現」の鍵は、「久遠の今」にある


〈19-6-1 「霊的文明」を開花させるには、「唯物思想」の夢から醒めねばならない〉

 吾らの地球文明は、「唯物文明」が飽和状態に達し、「霊的文明」が開花する時期に入ったのであります。「霊的文明」を開花させるためには、この宇宙が物質で出来ている世界だとする「唯物思想」の夢から、目を醒さなければなりません。そして、この宇宙を「久遠の今、神が創造活動されている霊的実在である」と、観るようにしなければならないのです。



〈19-6-2 「久遠の今、神が創造活動されている」との見方になった時、神の使命が達成される〉

 「久遠の今、神が創造活動をし続けられているが故に、この宇宙は存在し得ているのである」という見方に変った時、人間は神から授かった「本来の使命」を達成することができるのであります。その理由を次に申し上げます。



〈19-6-3 「神が産み出している世界ではない」という迷いで、宇宙の実相が見えなくなる〉

 人間は「心のレンズ」を通して、神の実相世界を観て「真象」を映し出し、その神の作品(真象)を「心のレンズ」を使って味わう「本来の使命」があります。しかし、「人間の心」が「この宇宙は神が産み出している世界ではなく、物質の世界である」という「根本的迷い」の観念を持ってしまうと、「人間の心」に厚い迷いの雲がかかってしまい、宇宙の実相の有り様(久遠の今)が観えなくなってしまうのです。神の実相世界が大きく眩(くら)まされるので、「真象」から大きく遠ざかってしまうのであります。



〈19-6-4 「地上天国実現」の鍵は、「久遠の今」の「神の創造」に対する「認識」〉

 でありますから、「久遠の今、神が創造活動を続けられているが故に、この宇宙は存在し得ているのである」という見方がどうしても必要となるのです。「久遠の今、創造の神が、宇宙一切を産み出しておられるのである」という事実を承認した時、「心のレンズの曇り」が払拭されることになるのです。「心のレンズの曇り」が払拭される時、神から与えられた「使命」は成就し、この現象宇宙にも地上天国が建設されることになるのであります。「地上天国実現」の鍵を握っているのは、実に「久遠の今″sわれている神の創造≠ノ対する認識=vと云わざるを得ません。この正しい宇宙観を眩(くら)ませる、唯一の原因は「この宇宙を物質として観察する」物質的見方であったということなのです。


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【まとめ】19/久遠の今<Vリーズ(1)/「久遠の今」神は一切万物大宇宙を創造し給う


19-0) まえがき/如何に「久遠の今」が重要であるか

〈19-0-1 谷口雅春先生の「久遠の今」のお悟り〉

〈19-0-2 谷口先生は「久遠の今」に在って、真理を説かれた〉



19-1) 創造の神は「久遠の今」の一瞬、大宇宙を創造されている

〈19-1-1 「創造の神」は光源/天照大御神、塩椎大御神、住吉大御神と尊称されている〉

〈19-1-2 創造の神は「久遠の今」の一瞬、大宇宙を創造されている〉

〈19-1-3 「久遠の今」に「実相世界」がある〉

〈19-1-4 一切万物は「光源たる神」から発せられた「光」である〉

〈19-1-5 全能なる神の心動き出でてコトバとなれば、一切の現象展開して万物成る〉



19-2) 「久遠の今」の実在世界と、「時間空間」の現象世界の違い

〈19-2-1 完全円満なる実在宇宙は、「久遠の今」顕現(創造)されている〉

〈19-2-2 実在世界は自他一体の「愛」の世界であり、観察し得ざる世界〉

〈19-2-3 キリストの示し給うた世界が「久遠の今」の世界〉

〈19-2-4 釈迦の御悟り「華厳経」も「久遠の今」の世界〉

〈19-2-5 自分を観察する「道具」が、「時間空間の客観世界」〉

〈19-2-6 「時間空間」という「鏡の世界」で自分を観察している〉

〈19-2-7 「肉体」と観じる事が「鏡の虚像で生きている」と錯覚している証拠〉

〈19-2-8 「実在の自分の生命」は、「久遠の今」に生きている〉

〈19-2-9 「久遠の今」の世界に居ながら、「肉体の目」を使って宇宙を観察している〉

〈19-2-10 その人の心が観じた通りに、現象宇宙を仮創造できる〉

〈19-2-11 「アラジンの魔法のランプ」の「魔神」を皆持っている〉

〈19-2-12 「物質世界」は観察するための「虚の世界」であるから、存在していない〉



19-3) 「心の汚れ」を取り「焦点を合わせる技術を習熟」すれば「真象」が現れる

〈19-3-1 「実相の眼」で「久遠の今」を観る「心の創造力」〉

〈19-3-2 「肉眼の目」で「現象」を見る「心の観察力」〉

〈19-3-3 「偽象」の「否定」と、「実相」の「肯定」が欠かせない〉

〈19-3-4 心の「創造力」「観察力」を使って、神が自己実現している〉

〈19-3-5 「心のレンズ」に汚れが無い場合は、「真象」が投影される〉

〈19-3-6 「心のレンズ」が汚れている場合は、「偽象」が投影される〉

〈19-3-7 観察者の「心のレンズ」が汚れている場合は、「真相」でも不完全と誤解する〉

〈19-3-8 「心の汚れ」を取り「焦点を合わせる技術を習熟」すれば「真象」が現れる〉

〈19-3-9 「物質有り」の印象に囚われると、「心のレンズ」が汚れる〉

〈19-3-10 「心の迷い」を取り除く究極の「道」は、「久遠の今」にある〉

〈19-3-11 「久遠の今」を観れば、一切の迷いは霜露の如く消え去る〉



19-4) 「日本惟神の道」は「真象」を現す道を示し、『古事記』は宇宙創造の原理を示す

〈19-4-1 宇宙の道理を極めてよく理解していたのが日本民族〉

〈19-4-2 「日本神道」では「祓い清め」で天地一切を清める〉

〈19-4-3 人間が幸せになるのは極簡単/これを知っていた日本民族は偉大である〉

〈19-4-4 神道では「鎮魂」行によって、心の操作技術を習得する〉

〈19-4-5 「祓い清め」と「鎮魂」で、心を清め神に振向けてきた〉

〈19-4-6 「日本惟神の道」「日本精神」は、神の国を現し出す道〉

〈19-4-7 「古事記の神話」が今この一瞬に成就している〉

〈19-4-8 神が神の子として、今の瞬間瞬間「天孫降臨」し続けている〉

〈19-4-9 『古事記』は宇宙創造の原理を捉えた人類の「宝物」〉



19-5) 時空の世界から観察すると「物質が継続的に存在し続けている」ように見える

〈19-5-1 物質が継続的に存在し続けているように見るのは、誤解である〉

〈19-5-2 時間空間のスクリーンを通して見ると、物質が存在する様に見える〉

〈19-5-3 「物質がある」と見えるので、「唯物論」的にならざるを得ない〉



19-6) 「地上天国実現」の鍵は、「久遠の今」にある

〈19-6-1 「霊的文明」を開花させるには、「唯物思想」の夢から醒めねばならない〉

〈19-6-2 「久遠の今、神が創造活動されている」との見方になった時、神の使命が達成される〉

〈19-6-3 「神が産み出している世界ではない」という迷いで、宇宙の実相が見えなくなる〉

〈19-6-4 「地上天国実現」の鍵は、「久遠の今」の「神の創造」に対する「認識」〉







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