生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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生長の家「今昔物語」・ 理性篇の再掲示 <第二十話> (394) |
- 日時:2013年03月10日 (日) 09時45分
名前:信徒連合
生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇
第二十話(通算第346話)
西田哲学との比較に於ける人間論 <その二>
『人間死んでも死なぬ』P.331−333
<<『現象無し』と云うことは、何にも無いということではない。其処にその“現れているもの”は無いということである。現れているものは無いけれども、“現れていないもの”が<ある>のである。
肉体は現れて見える。肉体は現象であり、現象は無いのであり、従って肉体は無いのである。
現れて見える肉体は無いけれども人間“そのもの”は無いのではない。人間“そのもの”は厳然として実在する。
併し、人間“そのもの”は五官で見る訳には行かないから狙撃することも出来ねば、爆撃粉砕することも出来ぬ。却って狙撃し、爆撃し、粉砕する事が出来るのは本来無いところの肉体の方である。
肉体は“本来無いもの”であるが故に、狙撃し、爆撃し、粉砕し、これを「無」にまで減少することが出来るのである。“本来無いもの”は本来ないものであるが故に「無」にまで還元する。
「無」のみが「無」にまで還元する。“本来無いもの”のみが無くなる。“ある”ところの人間は本来“ある”限り、決して「無」にまで変化し得ぬ。
“本当の人間”――“人間そのもの”――は本来あるが故に「無」とは成り得ない、即ち“死なぬ”。“絶対死なぬ”。人間“そのもの”は絶対死なぬ、人間“そのもの”は久遠不滅の存在である。
*** 私の全集『生命の實相』を読んで病気が治ったという否定すべからざる事実が続々起こったり、戦場に於いて生死を超越して奮戦し得た実例を数多(あまた)生じたる理由は、それが「“絶対死なぬ”人間“そのもの”」なる哲学を感情的に移入する誰にでも理解され易い文章で詳解し、その哲学を実際生活上に生活し得るように誘導したからである。
生長の家に哲学が無いという人は、実はその人は、私の全集『生命の實相』を読んでいないからである。
真理を感情的に移入する文章を芸術であると観るならば、全集の『生命の實相』は私の文章芸術であるが、哲学そのものは難解なる哲学用語の外にあることをしらなければならない。
私は哲学を難解なる術語から解放したのである。哲学“する”とは難解なる術語を使うと云う意味ではない。
真理を如実に把握して生きると云う意味である。
表現された真理をそのまま読者が生活に生きるように押し出す迫力があるのが哲学である。
哲学は哲学“せしむる”力を持たねばならぬ。併し多少たりとも哲学的術語を持たなければ「生長の家には哲学がない」と言いたがる人のために本稿は幾分か在来よりも哲学的様相を備えて記述したのである。 ***
斯くの如く、肉体は瞬々刹那々々に変滅して痕跡をとどめない。前なるは既に無いのである。既に無いものは、初めから無いのである。
一瞬間前の肉体と、今の肉体とは全然別物である。その意味に於いて、肉体は時間的にも非連続のものである。一瞬一瞬非連続のものがズッと連続して、一継続の存在であるかの如く、五官に感じられるのは、映画の画面と等しく五官の錯覚によるのである。
映画の画面は、一瞬一瞬非連続の一枚一枚の写真が継続的に同一平面に投影せられるが故に、非連続なるものが連続せるが如く錯覚され、個々別々なるフィルムのコマの絵が一連続の如く錯覚されるのである。映画が錯覚の応用であるが如く、人間の肉体生活も錯覚の応用である。(『維摩経』方便品第二)>>
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