生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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<転載> 「マサノブ教団」全本部講師・地方講師必読の“真理の悟り”投稿文 <その十八>  (5153)
日時:2014年09月16日 (火) 19時47分
名前:信徒連合



この様な素晴らしい「生長の家」真理の理解と解説の投稿文が見つかりました。他の掲示板でも転載されております。最初に見つけてくださった方に感謝申上げます。

「マサノブ教団」が依然として「生長の家」という看板を掲げている限り、そこに所属している本部の講師部長、本部講師、地方講師の皆さんは自分自身どの程度深く開祖・谷口雅春先生の本来の『御教え』という真理を理解しているかの尺度として、熟読して頂くに値する現代の「維摩居士」とでもなぞらえることの出来る内容であります。謹んで御紹介させて頂きます。

出所は、−−
http://56937977.at.webry.info/201409/article_3.html



////////////////////////////



< 転載:第十八回 >



22/この世界は完全なのか? 不完全なのか?

<< 作成日時 : 2014/09/15 23:17

 「この世界は完全なのでしょうか?」それとも「不完全なのでしょうか?」人により、見方によって、その答えは様々だと思います。小生が思うに、この観念こそが、人類の運命を分ける決定的分岐点と思っています。生長の家では、「実相は完全円満」であり、「現象は無い」と教わります。では、妙な質問ですが、「現象は完全なのでしょうか?」それとも「現象は不完全なのでしょうか?」

  合掌礼拝
               ©2014あまむし




22-1) 「この世界は神様しか存在しない完璧なる世界=vを承認できない原因
22-2) 「自分の力を誇示したい」という「自我意識」は消せるか
22-3) 「不完全」と感じて悩むのは、「完全」である証拠
22-4) 現象世界は不完全なのか?
22-5) この世界を「完全と観れば幸福」が、「不完全と観れば不幸」が現れる
22-6) この宇宙は、「神の無償の愛」という実体で充満している

※インターネットの世界では、いつ情報が遮断されるか分かりません。もし、「もう一度文章を見てみたい」と思われる方がおられましたら、ご自分の責任で「保存」されることをお勧めいたします。拡散はご自身の責任でご自由にどうぞ!



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22-1) 「この世界は神様しか存在しない完璧なる世界=vを承認できない原因


〈22-1-1 「この世界は完璧なる世界≠ナある」を認めないと問題が出て来る〉

 「この世界は神様しか存在しない完璧なる世界≠ナある」、このことを自分自身が認めない限り、何をどう頑張っても、色々な問題が出て来てしまうことになるのです。それは何故かと申しますと、「この世界は神様の世界であるから、完全円満で完璧である」という概念を心で認めないということは、「この世界は不完全だ」「神様以外のものも存在するのだ」ということを認めてしまっていることになるからです。



〈22-1-2 「認めた物が現れる」心の法則〉

 神以外のものを自分の心で認めておりますと、「認めたものが現れる」のが、現象世界の鉄則でありますから、自分の周囲の現象世界に、「不完全」が現れてしまうのであります。だから、心の中で、「この世界は神様の世界だから、完全円満である」と思っていない程度に応じて、心の反映として、自動的に環境に不完全な問題が出て来るのは、「認めた物が現れる」心の法則によるものであります。



〈22-1-3 「自分より偉大なる力」を受け入れる気持ちが「素直」「無私」〉

 「この世界は神様しか存在しない完璧なる世界=vということを認めるには、「自分より偉大な存在を素直に認める」ということがどうしても必要になってまいります。そのことを認めるためには「素直」とか「無私」が必要となります。「自分より偉大なる力」や「自分以外のもの」を受け入れる気持ちが「素直」であり、その感覚が徹底し、自分の力の無力さが解る程度に応じて、「無私」になるのだと思います。



〈22-1-4 神を素直に承認し難い感覚は、自分の力を誇示したい自我意識から生じる〉

 「自分より偉大なる力」その究極のものが「神様の絶対力」であります。その「神の絶対力」を受け入れないということは、実は精神分析的に考えてみますと、その人の潜在意識に、「自分の力を誇示(こじ)したい」というような、「自我意識」が強く働いているのです。その場合に、自分を超えた存在である処の「絶対者である神」を、素直に承認し難い感覚が生じるものと考えられます。



〈22-1-5 潜在意識が様々な屁理屈を考え出して、現在意識を打ち負かす〉

 このような「自我意識」即ち「自分の力を誇示したい感覚」を強く持っておりますと、幾ら「現在意識」で「神様を全面的に承認せよ」と命じても、「潜在意識」が頑(がん)として、その命令を受け入れないのであります。そうすると、「潜在意識」がなんだかんだと、様々な理屈(屁理屈)を考え出して抵抗し、ついには「現在意識」を打ち負かすのであります。



〈22-1-6 「潜在意識」に別の「想い」を蓄積していると、「現在意識」の通りには行かない〉

 「潜在意識」について極簡単に説明しておきたいと思います。「潜在意識」とは、蓄積された「想い」です。それに対して「現在意識」は、「今起している想念=vであります。「現在意識」で「想念」を起しますと、その「想い」が「潜在意識」に蓄積されます。「自分の心」のほとんどが、「潜在意識」に蓄積された過去の「想い」ということになりますので、「現在意識」で「こうしたい」と強く思いましても、「潜在意識」に別の「想い」が蓄積されていますと、「現在意識」の通りには行かないということになります。従いまして「潜在意識」にどんな「想念」を蓄積するかで、その人の運命はほとんど決定するということになります。


※この「潜在意識」と「現在意識」の問題は大変重要です。「現在意識」で強く「こうしたい」と思っても、「潜在意識」に別の「想い」が蓄積していますと、自分の心の中で対立して、想い通りに行かないことになりますが、何故そのようになってしまうのか、等の原因につきましては、このブログ上で別の機会に取り上げたいと思います。




22-2) 「自分の力を誇示したい」という「自我意識」は消せるか



〈22-2-1 「自我意識(迷い)」はどうすれば失くせるのか〉

 「この世界は神様の世界だから完璧だ」という考え方を受け入れられない場合は、以上のような「潜在意識」の働きが作用していると指摘しました。つまり「自分の力を誇示したい」という「自我意識」が原因であります。では、この「自我意識」をどうすれば失くせるか、という問題が出て来ると思います。しかしながら、この潜在意識中の「自我意識(迷い)」を「失くそう」と頑張ってみましても、実はこれは無理な相談なのです。どれだけ精進努力しても、実に難しいのであります。谷口雅春先生もこの精進努力をされたことは、『生命の實相』自伝篇に詳しく書かれていますので、皆さんよく御存知のことと思います。(最後は神の啓示を受けることによって悟られました。)



〈22-2-2 「自我意識(迷い)」を自力で消そうと思っても無理である〉

 お釈迦様も難行苦行されましたが、御自分の精進努力では「悟りを開く」ことができませんでした。結局挫折した釈迦は山を下り、バラモンの娘から粥を施されたその慈悲の心に接した後、菩提樹下で瞑想し悟りを開かれました。潜在意識中の「自我意識(迷い)」を自力で幾ら頑張って消そうと思っても、それが無理であることは、無数の聖人達が実証して下さっています。それは「本来無いもの」を相手にしているからであります。



〈22-2-3 釈迦は「この世界が生かし合いの世界であった」ことを悟った〉

 では、どうすればいいのでしょうか。お釈迦様はバラモンの娘から「粥」を施された時、「仏の慈悲」を観たのでありましょう。それは、「あぁ、この世界は争いの世界と思っていたが、生かし合いの世界だった」という「仏の慈悲」「神の愛」として、この世界の有り様を悟った瞬間であったのでしょう。釈迦の言葉の表現を変えてみますと、「あぁ、この世界は不完全な世界≠ニ思っていたが、完全な世界≠セったのだ!」という観の転換が行われたことになります。その切っ掛けとなったのは、「自我の努力」を捨て去って、「仏の慈悲」に真直ぐに振り向いたことによるのではないでしょうか。



〈22-2-4 肉体人間の自分が、勝手に「不完全」と思っていた〉

きっと、それまでのお釈迦様は、「現象世界」に映し出されている生老病死を見て、「この世界は不完全である」と見ていたし、そう思っておられたのでしょう。だから、精進努力して、「心を浄めて」「汚いもの、不完全なもの」を失くそうとされていたのだと思います。しかし、人間の努力では「悟り」を開くことはできないことを知った時、心を「仏の慈悲」に振向けることになったのでしょう。気付いてみれば、実に簡単明瞭なことであって、「この世界は不完全ではなかった」「この世界は仏の生かし合いの慈悲の世界だった」という事実が存在していたのです。それを肉体人間の自分が、勝手に「不完全」と思っていたことに気付いたのです。肉体人間の勝手な誤解だったのです。




22-3) 「不完全」と感じて悩むのは、「完全」である証拠


〈22-3-1 神様が人間に物質的存在を有り≠ニする観念(妄想)を植えつけた〉

 要は「この世界は元々完全円満大調和の世界だった」ということなのですが、見方によって、逆にも見えてしまう世界なのです。では、そんな簡単なことなら、最初からそれを人類は認めればいいではないか、と思うのですが、それがそうなっていない処に面白さがあると思うのであります。それは、どういうことかと申しますと、神様が地上天国を建設されるために、現し出した人間に、物質的存在を有り≠ニする観念(妄想)を最初から植えつけたからなのです。つまり、吾々人間には、「自分は肉体人間である」という「観念」が植えつけられているのです。



〈22-3-2 人間の霊的自覚を眠らせて、「肉体」であるという夢を見せた〉

 そうすることによって、神様の地上天国の計画が進むのでしょう。そのことについて、『神真理を告げ給う』に次の様に書かれています。《それなのにわたし≠ヘ人間の霊的自覚を眠らせて、人間が時間・空間のスクリーン上に顕れている物質的存在なる「肉体」であるという夢を見せたのである。このことを『創世記』では「土の塵をもって人を創造(つり)り」という風に『物質人間』の重複(ちょうふく)創造として記述しているのである。それは本当に重複創造≠ナある。それが重複創造≠ナあるというのは、わたし≠フ生命の波動即ちコトバによって創造(そうぞう)された霊的存在であるところの実相人間≠ニ、その実相の自覚が眠りに入って自己≠土の塵¢ヲち物質≠ノて創造(つく)られたるものと夢みている物質人間≠ニが同時にそこに出現しているからなのである。》(谷口雅春先生著『神真理を告げ給う』P47より一部引用)

注)『神真理を告げ給う』はユニークな聖典でありまして、文中のわたし≠ニは、神様自身であります。神が直接語りかけたものです。



〈22-3-3 「迷い」は「悟り」が動き出し、現象化しつつある道程である〉

 この聖典の44頁には、「迷い」についての明確な記載があります。《「では、その本来無き迷いが、どうして恰(あたか)もあるかの如くあらわれて来るのか」という最後の問が残るのである。その最後の問にわたし≠ヘ答えることにする。あなたは仏教の「煩悩即菩提」という語(ことば)をたびたび聴いたこともあるし、読んだこともあるであろう。迷い≠ェそのまま菩提≠フ道程であるということである。迷い≠ニいう「菩提(さとり)とは別なもの」があるのではないのである。迷い≠ニ見えているものが、実は悟り≠ェ動き出し、現象化しつつある道程であるから、迷い*{来無しといい得るのである。あなた達が迷い≠セと思っているものは、実はわたし≠ェ神の国≠地上に顕現するための土台又は地盤になるための精神的基礎工事を行うために授けたところのものなのである。》(『神真理を告げ給う』P44より一部引用)



〈22-3-4 「迷い」は神の国を地上に顕現するための精神的基礎工事〉

 ここで神様がちゃんと吾々人間に説明して下さっています。《あなた達が迷い≠セと思っているものは、実はわたし≠ェ神の国≠地上に顕現するための土台又は地盤になるための精神的基礎工事を行うために授けたところのもの》だということだったのです。つまり、「迷い」(「この世界は不完全だ」という観念も含めて全ての迷い)は、そうなるべくして、現れている(感じている)に過ぎないということであります。



〈22-3-5 「迷い」を「悟り≠ェ動き出したもの」と観る必要がある〉

 神様曰く《迷い≠ニ見えているものが、実は悟り≠ェ動き出し、現象化しつつある道程であるから、迷い*{来無しといい得る》という訳であります。という事は、「迷い」を忌み嫌ったり、排斥しなくてもいい、ということでありましょう。《迷い≠ニ見えているものが、実は悟り≠ェ動き出し、現象化しつつある道程》ということでありますから、「迷い」に対しては、「悟り≠ェ動き出したもの」と観る必要があります。



〈22-3-6 「この世界は不完全」と悩んでいる事自体が、完全な証拠である〉

 「この世界は不完全である」というのも一つの「迷い」と考えられますが、その「迷い」ですら、菩提(悟り)が動き出したもの、ということでありますから、結局は「この世界は不完全である」という「迷い」自体が、「この世界は完全である」という「悟り」の道程に過ぎない、という事になって来るのであります。変な言い方でありますが、「この世界は不完全である」と悩むこと自体が、「この世界は完全である」ということの証拠であるとも言えるのです。



〈22-3-7 「迷い」自体が「この世界は完全である」という悟りの発露である〉

 「この世界は不完全である」と悩んでいる事自体が、「この世界は完全である」という悟りの発露でありますので、悩んでいること自体を喜んで祝福していればいい、ということになるのであります。



〈22-3-8 「迷い」は、「悟り(実相)に心を注視せよ」とのメッセージ〉

 かといって、そのままにしておけばいいのか、という問題ではありません。「迷い」が出るのはその奥に「悟り」が動き始めているのですから、その「悟り」(実相)に心を集中する必要があります。「久遠の今(悟り)」に心を集中させる事によって、「悟り」が現し出され「迷い」は自然に消滅することになります。つまり、「迷い」が出たということは、「悟り(実相)に心を注視せよ」とのメッセージであります。




22-4) 現象世界は不完全なのか?



〈22-4-1 「現象世界は不完全ではないのか?」という疑問〉

 生長の家をよく勉強しておられる方は、ここでこういう疑問を投げかけられるのではないでしょうか。「完全円満なのは実相世界≠セけであって、現象世界≠ヘ人間の念が現れた世界だから、不完全ではないのか?」という疑問であります。



〈22-4-2 「現象は無い」「心も無い」の一喝〉

 これは尤(もっと)もなことです。現象は「三界唯心所現」即ち「心の展開せる世界」でありますから、心が「不完全」を思えば、現象に「不完全」が現れるのは当然であります。そこで、生長の家では、「現象は無い」と一喝し、心を「実相」に振向けさすのであります。「心が実相を観ようと思ってもなかなかそれが難しい」という人には、「心も無い」と一喝するのであります。



〈22-4-3 『心もない!』の宣言で、『心』の悍馬から実相の大地に降りる〉

 『生命の実相』自伝篇には、谷口雅春先生が、昭和4年(1929年)11月のある日、神の啓示を受けられた時のことについて書かれています。《では、心はあるであろうかと思うと、その瞬間、『心もない!』とその声は云うのだった。今迄、私は『心』と云う得体の知れない悍馬(かんば)があって、それを乗りこなすのに骨が折れると思っていたのだ。ところが『心もない!』と云う宣言によって、私はその『心』の悍馬から実相の大地に降りたのであった。》(谷口雅春先生著『生命の実相』自伝篇より一部引用)

 「現象は無い」「心も無い」ここまでは分かりました。では、無い現象を映し出している処の、「三界唯心所現」というシステムをどう観るかであります。



〈22-4-4 「三界唯心所現」は、「神の無償の愛」そのものである〉

 この「三界唯心所現」の法則を司る観世音菩薩は、実相世界を現象世界に顕現させる働きがあります。どのように顕現させるかと申しますと、「心で思った通りに現象化させる」という手法を用いておられるのです。この手法は実に素晴らしい方法でありまして、「人間の選択の自由意志にしたがって何事でも与えてくれる」というものなのです。例えそれが神の御心に適(かな)わなくても、人間が心で念じたことは、全てそのまま現象世界に現し出してくれるという、素晴らしい働きなのであります。これは四無量心の究極の姿である「捨無量心」そのものでありまして、これはすなわち「無条件の愛」であり「無償の愛」であります。つまり、観世音菩薩の働きである「三界唯心所現」は、「神の無償の愛」そのものと言えるのであります。

注)「三界唯心所現」の「心の法則」が、「神の無償の愛」であるということにつきましては、説明が長くなりますので、割愛させて頂きます。当ブログ『3/被告「旧約聖書の神ヤハウェ」を弁護する・・・・「因果律」も畢竟「無償の愛」そのものだ!』の「7)「因果の法則」は「神の無償の愛」そのもの」に詳しく説明していますので、ご参照下さい。http://56937977.at.webry.info/201402/article_3.html



〈22-4-5 「現象世界」も実に有難い、神々しい存在である〉

 「神は愛なり」であり、「実相なる神は愛そのもの」であることは、誰もが納得の行く処でありましょう。それに加えて、「三界唯心所現」という現象を現し出すシステムも、よく考えてみますと、「神の無償の愛」そのものであったということなのです。そう考えますと、この「現象世界」というものも、実に有難い、神々しい存在であることが分かって来るのであります。



〈22-4-6 「現象をマイナスイメージ」として捉えると、良き運命を現さない〉

 「現象無し、実相独在」の真理を学んでおりますと、得てして、「現象は不完全であり、否定すべきもの」という観念を強く抱き勝ちであります。それは「現象否定」の切っ掛けとなり、ある意味結構なことではありますが、一方で「現象に対するマイナスイメージが払拭されない」問題を残すのであります。「現象をマイナスイメージ」として捉えると、その印象が、その人の人生観を左右することになり、良き運命を現さない事になりかねません。一切を「感謝」に置き換え、一切を光明一元に観られるまでは、その人の運命は抜本的に改善し得ないのであります。



〈22-4-7 現象世界を忌み嫌っていると、現象に感謝出来にくい〉

 「三界唯心所現」が「神の無償の愛」であることを発見するまでは、どうしても「現象世界」というものを忌み嫌う風な、拒絶感が一方に現れて、本当の意味で「現象に感謝」が出来にくいのであります。しかし、「現象世界」そのものの働きが、「神の無償の愛」であることが分かって来ますと、もう何も恐れるものは無くなるのです。「実相世界」は勿論の事、「本来無い処の現象世界」に至っても、一切の存在が「無償の愛」そのものであったということなのです。



〈22-4-8 「現象は不完全だ」と考えている間は、現象に不完全が現れる〉

 一切の存在が「無償の愛」そのものであったということに気付かず、「実相は素晴らしい」でも「現象は不完全だ」と考えている間は、「この世界は不完全だ」という観念に縛られて、実に不自由なのであります。そして、「思った通りに現象化する」という大原則によって、「この世界に不完全が現れる」ことになってしまうのであります。




22-5) この世界を「完全と観れば幸福」が、「不完全と観れば不幸」が現れる



〈22-5-1 日本の「観世音菩薩信仰」は、実に素晴らしい〉

 「実相は完全円満なる愛」であり、「現象として現れている心の法則≠煌ョ全円満な神の無償の愛」と感じていますと、もうどこにも「不完全」というイメージが、存在しなくなるのであります。幸いな事に、日本では「観世音菩薩信仰」が非常に浸透しており、「観世音菩薩は慈悲深い仏であり、一切衆生を救済して下さる」という根強い信仰を持っているのであります。これは真理であって、「心の法則≠ヘ神の無償の愛である」ということを、昔から教えていたのです。日本の「観世音菩薩信仰」は実に素晴らしいと思うのであります。



〈22-5-2 旧約聖書の「ヤハウェ信仰」は、「因果の法則」の表面的解釈に過ぎない〉

 一方、旧約聖書に出て来る「ヤハウェ(エホバ神)」も全く同じ「心の法則(因果の法則)」を司る「観世音菩薩」なのですが、西欧やユダヤ世界では、何千年にも亘って、「契約の神」「目には目をの神」「支配・被支配の神」「罪と罰を与える神」「復讐の神」等と言う、「因果の法則」の現象的側面ばかりを強調した解釈で終止していたのであります。「因果の法則」を表面的に解釈すると、人類に「恐怖心」のみを与えることになり、実際そのような神を信じて来た「西欧文明」「ユダヤ思想」は、迫害、戦争、侵略、破壊の限りを尽くしていることを見れば、民族が信ずる「神」によって、どれほどその民族の運命が左右されるかが、分かるのであります。



〈22-5-3 人類は「心の法則」を「神の無償の愛」と見なければならない〉

 現象顕現の一大法則である「心の法則」を、表面上の解釈だけで、「不完全なもの」として理解するだけでは、結局ユダヤ民族のように不幸な運命を引き寄せることになってしまいます。人類が幸せに過ごす為には、「心の法則」の奥に流れる「観世音菩薩の大慈悲」や「神の無償の愛」を観なければならないのです。



〈22-5-4 「心の法則」を完全として観るか、不完全として観るかで運命が変る〉

 「心の法則(因果の法則)」を完全なもの(観世音菩薩の慈悲)として観たのが、日本民族であり、不完全なもの(支配・被支配、罪・罰、復讐の神・・・)と観たのがユダヤ民族であったのです。その結果、日本民族は数千年に亘って、平和で安定した国家を作り得たのであります。一方ユダヤ民族は数千年に亘って、迫害、戦争、侵略、破壊を繰返し、国家を無くし混沌とした運命を築いたのであります。これは極めて重要な「歴史の教訓」であり、壮大なる「実験」と言えるのであります。



〈22-5-5 「幸福を求めたい」のであれば、「完全」と見ればいい〉

「心の法則」を「不完全なもの」とも見れますし、「完全なもの」とも見ることができ、それを選択するのは、一人一人の自由意思に任されております。その人の見方、見る立ち位置によって、どうとでも解釈できるのであります。唯、「不完全」と見る人は、その人の運命が「不完全」に現れ、「完全」と見る人は、その人の運命は「完全」として現れることになります。つまり、その人が「不幸を求めたい」のであれば、「不完全」と見ればいいことになり、「幸福を求めたい」のであれば、「完全」と見ればいいことになります。それは本人の選択の自由であります。




22-6) この宇宙は、「神の無償の愛」という実体で充満している



〈22-6-1 その人が思いたい様に、現象世界はその証拠を与えてくれている〉

 結局、絶対的真理として「現象世界が完全」だとか、「現象世界が不完全」だとかの問題というよりも、一人一人の「人生観」の問題でどちらとでも解釈が可能である、と言い得るのであります。その人が思いたい様に、現象世界はその証拠を与えてくれているのであります。



〈22-6-2 人が信じた通りに現象世界に映し出される、完璧な無償の愛≠フ仕組み〉

 「この世界は完全だ」と思う人には、「この世界は完全として映し出され」、それがその人にとっての証拠と見えることでしょう。「やっぱりこの世界は完全だったではないか」と。一方、「この世界は不完全だ」と思う人には、「この世界は不完全として映し出され」、それがその人にとっての証拠と見えることでしょう。「やっぱりこの世界は不完全だったではないか」と。つまりは、この世界は、「その人が信じた通りに現象世界に映し出される」という「完璧な無償の愛≠フ仕組み」で成り立っている、ということなのです。



〈22-6-3 完全と思う人には完全として現れ、不完全と思う人には不完全と現れる〉

 「この世界は完全か、不完全か?」という設問に対する答えとしましては、「完全と思う人には完全として現れ、不完全と思う人には不完全と現れる」ということになると思います。そして、そのように現し出している大宇宙の「三界唯心所現」のシステムは、「完璧な無償の愛=vである、ということになるのであります。「現象世界」を現し出しているところ一大原理が「完璧な無償の愛=vであるということは、「現象世界」に何が現れておりましても、人々の心がどんな想念を想い描いておりましても、その大前提として存立せしめている実体そのものは、「完璧な無償の愛=vであるということであります。



〈22-6-4 実相世界も現象世界も、この宇宙は「無償の愛」で構成されていた〉

 即ち、心にどんな「迷い」を掴もうとも、「現象世界」にどんな悲惨な姿を現し出そうとも、それを存立せしめている実体は、全て「無償の愛」であったということなのです。「無償の愛」が「心」となり、「現象世界」となっていたのであります。「迷っていようと、何していようと」それが「無償の愛」という「実体」によって構成されていたことを知る時、この宇宙の神秘さ、偉大さ、荘厳さを垣間みることができるのです。実相世界(久遠の今)は勿論の事、現象世界を含めて、この宇宙は「無償の愛」で構成されていたのです。



〈22-6-5 「神の無償の愛」が充満せる現象世界〉

 「現象世界」は本来ないのでありますが、「時間空間の世界」で「素粒子、原子、物質」と現れ、我々は観察ができるが為に、まるで存在しているように見えているのでありました。その「時間空間」や「素粒子、原子、物質」「肉体、心、想念」なるもの全てを存立せしめている「場」が、一体どのようなもので構成されているかと申しますと、それは「神の無償の愛≠ニいう実体で充満している」と言えるのであります。「神の無償の愛≠ニいう充満せる実体」が、「現象世界を構成している」のであります。

 
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【まとめ】22/この世界は完全なのか? 不完全なのか?


22-1) 「この世界は神様しか存在しない完璧なる世界=vを承認できない原因

〈22-1-1 「この世界は完璧なる世界≠ナある」を認めないと問題が出て来る〉

〈22-1-2 「認めた物が現れる」心の法則〉

〈22-1-3 「自分より偉大なる力」を受け入れる気持ちが「素直」「無私」〉

〈22-1-4 神を素直に承認し難い感覚は、自分の力を誇示したい自我意識から生じる〉

〈22-1-5 潜在意識が様々な屁理屈を考え出して、現在意識を打ち負かす〉

〈22-1-6 「潜在意識」に別の「想い」を蓄積していると、「現在意識」の通りには行かない〉



22-2) 「自分の力を誇示したい」という「自我意識」は消せるか

〈22-2-1 「自我意識(迷い)」はどうすれば失くせるのか〉

〈22-2-2 「自我意識(迷い)」を自力で消そうと思っても無理である〉

〈22-2-3 釈迦は「この世界が生かし合いの世界であった」ことを悟った〉

〈22-2-4 肉体人間の自分が、勝手に「不完全」と思っていた〉



22-3) 「不完全」と感じて悩むのは、「完全」である証拠

〈22-3-1 神様が人間に物質的存在を有り≠ニする観念(妄想)を植えつけた〉

〈22-3-2 人間の霊的自覚を眠らせて、「肉体」であるという夢を見せた〉

〈22-3-3 「迷い」は「悟り」が動き出し、現象化しつつある道程である〉

〈22-3-4 「迷い」は神の国を地上に顕現するための精神的基礎工事〉

〈22-3-5 「迷い」を「悟り≠ェ動き出したもの」と観る必要がある〉

〈22-3-6 「この世界は不完全」と悩んでいる事自体が、完全な証拠である〉

〈22-3-7 「迷い」自体が「この世界は完全である」という悟りの発露である〉

〈22-3-8 「迷い」は、「悟り(実相)に心を注視せよ」とのメッセージ〉



22-4) 現象世界は不完全なのか?

〈22-4-1 「現象世界は不完全ではないのか?」という疑問〉

〈22-4-2 「現象は無い」「心も無い」の一喝〉

〈22-4-3 『心もない!』の宣言で、『心』の悍馬から実相の大地に降りる〉

〈22-4-4 「三界唯心所現」は、「神の無償の愛」そのものである〉

〈22-4-5 「現象世界」も実に有難い、神々しい存在である〉

〈22-4-6 「現象をマイナスイメージ」として捉えると、良き運命を現さない〉

〈22-4-7 現象世界を忌み嫌っていると、現象に感謝出来にくい〉

〈22-4-8 「現象は不完全だ」と考えている間は、現象に不完全が現れる〉



22-5) この世界を「完全と観れば幸福」が、「不完全と観れば不幸」が現れる

〈22-5-1 日本の「観世音菩薩信仰」は、実に素晴らしい〉

〈22-5-2 旧約聖書の「ヤハウェ信仰」は、「因果の法則」の表面的解釈に過ぎない〉

〈22-5-3 人類は「心の法則」を「神の無償の愛」と見なければならない〉

〈22-5-4 「心の法則」を完全として観るか、不完全として観るかで運命が変る〉

〈22-5-5 「幸福を求めたい」のであれば、「完全」と見ればいい〉



22-6) この宇宙は、「神の無償の愛」という実体で充満している

〈22-6-1 その人が思いたい様に、現象世界はその証拠を与えてくれている〉

〈22-6-2 人が信じた通りに現象世界に映し出される、完璧な無償の愛≠フ仕組み〉

〈22-6-3 完全と思う人には完全として現れ、不完全と思う人には不完全と現れる〉

〈22-6-4 実相世界も現象世界も、この宇宙は「無償の愛」で構成されていた〉

〈22-6-5 「神の無償の愛」が充満せる現象世界〉










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