生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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生長の家「今昔物語」・霊界篇の再掲示<第十五話> (395)
日時:2013年03月10日 (日) 09時55分
名前:信徒連合




生長の家「今昔物語」第五篇 霊界篇



第十五話(通算第257話) 他界への出生の実証(その四)




(つづき)
「私は道路が何を材料として出来上がっているかを調べて見たが、それは乳色の石英の綺麗な砂であった。私はその一片を拾い上げて精密に点検した。中央には小さい黒点がある。私はそれをよくよく調べて見たのであるが、それは或る金属の化学作用によって穿(うが)たれたらしい孔(あな)であった。

「折りしも雨が降りそそいでいた。空気は極めて爽やかである。道の傾斜は極めて険しかったが、歩むのに少しも疲れを覚えない。私の足は極めて軽く、歩きぶりと云ったら子供のように不確かであった。歩いていると心の中に生前の病気のことが思いだされた。私は健康が回復し、力のついたことを嬉しく感じた。

「しばらくすると、私は自分の孤独を堪らなく淋しく思った。『毎分間に誰かが死んでいる筈だ。私は三十分も待ったのであるから、誰かあの山間で死んで、私も道連れとなるに相違ない』と私は推量しながら、周囲へ眼を放った。東方には連山がうち続き、その山腹の森林は頂までのぼっている。下方には鬱蒼たる森林の渓谷を貫いて美しい小川が流れ、それは数えきれぬほどの白い飛沫を打ち上げていた。

私はその小川を緑濃き或る川のようだと思い、連山はワルドロンの高地に甚だ似寄(によ)っていると思った。道を挟んでいる左右の黒岩はルックアルト山を想いださせた。

「これで精神の三大能力たる記憶、判断、及び想像は遺憾なく活動していたことがわかる。

「更に十五分間も待ったが、誰も来なかった。そこで私は『人が死ぬと、それぞれ自分自身の道を与えられるのかも知れない。全く同じ人間と云うものは世界には二人とはないのであるから、他界に於いては吾々の歩む道は一人一人異うのだろう』と推論せざるを得なかった。

「私は今度は他界から来る誰かに出くわすだろうと思った。が甚だ不思議なことには、私にはそれが何者であっても構わないように思われた。『天の使いか、悪魔か、何者かが来るだろう。早くみたいものだ』と思った。

私は生前には教会の信条を信じていなかったが、私はそれよりも優ると信ずる信仰を筆や言葉で証(あか)していたのだと思った。

『しかし私は本当は何も知らない。疑うべき点、または誤った点も無いではなかろう。私は恐ろしい運命に向かって急いでいるのかも知れない。』と考えていると、私のまわりには何とも云えぬ事変が起こった。

『恐るる勿れ。汝は救われている。』こうあちらからも此方(こちら)からもハッキリした思想の来るのを聞いたのである。否、私は音声を聞いたのではない。何者をも見たのでもない。唯遠近の諸地点から、何者かが私に関して考え且つ発表しつつある思想をパッと直感的に意識したようであった。


(註)この体験実話によって、人間の霊魂は何々宗派と云うような派閥的な宗門に入らなくとも正しい信仰を持つ者の霊は既に救われていることがわかるのである。(谷口)


「しかしそれが真実であることが、どうして私に解かるだろう。私はその神秘を疑いながら神秘の感じに閉ざされていた。私は懐疑と恐怖とを覚えてみじめな感じに堪えがたくなった。と、その時慈愛と柔和との忘れがたい表情をした一つの顔が見えて来て、私の信仰を強めてくれたのである・・・

「意識も努力もなしに私の両眼はひとりでに見開いた。私は自分の両手と寝床とを認めた――再び肉体に帰ったのであった。私はそれに気がつくと、驚き且つ失望して、『どうしたことだ。又死ななければならないのか』と叫んだ。そうして非常に衰弱していたにも拘わらず、看護の人たちが休息せよと云うにもかかわらず、私はすぐさま他界の経験を語ったのである」


 この叙述者の証言の本当であることは、諸学者の質問に対して彼自身応答した事によっても知る事が出来たのである。

すなわち戸口の側にたっていると云われる紳士は、やはり事実上そこに佇んでいたのであり、街道で見たという水溜りも、丁度雨降りであったからやっぱり街道にそのまま残っていた。

霊の細い線については叙述者自身或いはこの学説を聞いていたことがあるかも知れないが、彼はそれを信じていなかった。従って、彼の観たところのものを予備観念の幻影化だと説明することは出来ないのである。

 死が<或るもの>の肉体より蝉脱(せんだつ)することであることは、こうして何れの証拠も肯定しているのである。

その「或るもの」は純粋に非物質的のものではないが、思考作用の根元として確実に存在しているのである。

従って幽霊が実在すると云うことは疑うことが出来ない。嘲笑に会うことをおそれて真実を否定するのは科学者らしくない態度である。ガス体的幽体の存在する以上、所謂「幽霊」も亦存在している筈である。幽霊は決して超自然のものではなく、現に如何にしてもその真実性の疑いがたいような性質の幽霊が各所に出没しているのである。>>

 (セヴラュー博士著『心霊界の実証』より)









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