生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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「雅宣教」(今の教え)の根本的間違い――それは、雅宣総裁が“現象”の立場に立って「今の教え」を構築していることである! <事例 2> (401) |
- 日時:2013年03月10日 (日) 19時19分
名前:画龍点睛
開祖・谷口雅春先生の『御教え』と「雅宣教」といわれる「今の教え」との根本的相違点は何処にあるのか? それは一言で言えば――
開祖・谷口雅春先生の『御教え』は、「實相」という観点から説かれているのであります。しかし、雅宣総裁は、講習会では生長の家の教えの基本は「唯神實相・唯心所現」とは概論としては説明しておりますが、個別的なことがらに関しては、實相の観点からではなく“現象”の観点から、“現象=実在”という理解の上に立って論じているのであります。この点が「雅宣教」(今の教え)の根本的誤謬であります。以下、個々の事例によってこのことを確認いたします。
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<事例 2> “人間至上主義”について
雅宣総裁は、「人間至上主義」という言葉をよく使うのであります。しかし、この言葉は世間常識的には受け入れられやすい言葉でありますが、生長の家の『御教え』を説く中でこの言葉を使うことは細心の注意が必要と思うのであります。
なぜならば、この言葉も“現象”の立場に立って“現象”を見たことばであって、“實相”に立って“現象”を見たことばではないのであります。以下、その訳を考えて見たいと思うのであります。
雅宣総裁に言わせると、地球上に生活している人間は、食欲という肉体的欲望を満足させるために、又より一層の金儲けをしていくために、更により一層の愉快で快適な生活と人生を送るために頭を働かせて自然界からその資源と材料を収奪し続けてきた。必要以上に収奪を繰り返し、余剰分はゴミとして簡単に捨て去ってきた。その結果、森林は破壊され、河川は汚濁され、CO2は増え、オゾン層には穴が開き、北極海の氷も溶け出し海面は上昇し、温暖化現象が生じてきたのである。飽くなき物質文明の向上を目指す人類社会の基本的価値観は「人間至上主義」の価値観であって、このまま軌道修正されずに突き進むならばやがては地球自体が生き物が住めぬ死の星になるは必定である。
もうこのあたりで「人間至上主義」なる価値観は大転換をしなければならぬ。「人間至上主義」から「人と自然との共生」という価値観の転換によって人類は新しい文明を築きあげて行かねばならない。その先鞭を付け、自から範を垂れるために生長の家は“森の中”へ行き自然との共生生活に入るのである。
ざっとおおまかに言えば、雅宣総裁の「人間至上主義」批判の考え方は以上のようなものだと理解されるのであります。この考え方は現代社会に於いては“その通り”と受け入れられやすい考え方であります。しかし、よく考えて見ると、日本に於いても、かつての高度成長経済に伴なうさまざまな社会問題となった“公害”も企業や行政の政治努力によって大幅に改善されてきており、日本国内では企業活動や人々の日常生活において、「公害を出さない・自然を保護・自然と共に・ムダを省こう・資源の有効利用」という考え方が広く浸透してきているのであります。何も「生長の家」が第一最大の運動をしなくても信徒は全員現代社会の一員として立派に「人間至上主義」生活を改善して実践しているのであります。
本当に改めなければならないのは、雅宣総裁の“思考”そのものであります。彼は宗教家を自称し、『御教え』の後継者を名乗っているのですから、『御教え』から観て雅宣総裁の「人間至上主義」観は甚だ不十分な理解である事に気付くべきであります。
冒頭に申し上げましたように雅宣総裁の「人間至上主義」観は、“現象”から“現象”を見ているのであります。地球上に住む人間は全般的に見て「人間至上主義」思想であって、地球上の自然を自己の利益のために簒奪し続ける“悪業を積む人”であります。宗教的用語を使えば「人間は罪人である」という事になります。この人間の性(さが)は、過去世からの潜在意識に定着してきたもので人間の“原罪”と言えるものである。このように雅宣総裁の「人間至上主義」観は、結局のところ「人間罪の子」の思想である事になります。
なぜ、雅宣総裁の「人間至上主義」思想が「人間罪の子」の思想に結びついて行くのか? と言えば、雅宣総裁は「人間神の子」の實相を隠蔽している「神性隠蔽」(『生命の實相』第13巻・倫理篇)の事を説かないからであります。なぜ雅宣総裁は「神性隠蔽」を説かないのか? といえば、雅宣総裁自身が現在ものすごいほどの神性が隠蔽されている状態にあるからで、“神性隠蔽”を説く事をためらわざるを得ない心理状態にあるからであります。
しからば、“實相”の立場に立って、「人間至上主義」の価値観で生活する“現象”の地球人類を如何に観るか、と申しますと、地球人類の大部分の人間は「人間は神の子」である實相を忘れ、その神性を迷いの想念で幾重にも覆い隠されている、この「神性隠蔽」が「人間至上主義」の価値観となって現われていると言えるのであります。“實相”の観点に立てば、どこまでも「人間は神の子」であり、「人間至上主義」は神性隠蔽という“迷妄”であるという風に解説しなければならないのであります。この“迷妄”の想念の展開が地球環境問題の本質であると「三界唯心所現の法則」で説かなければならないのであります。
雅宣総裁は、“現象”の観点から“現象”を見るわけで、「神性隠蔽」も説かなければ「三界唯心所現」も説かず、「人間罪の子」を強調するだけに終ってしまうのであります。宗教家ではなく評論家であります。こんな事では“生長の家総裁”とは恥かしくて言えないはずであります。
雅宣総裁は“現象”から“現象”を見ているわけですから、「地球環境保護改善」という問題解決手段も唯物的手段に重点を置くわけであります。これが“森のオフィス”であり、信徒の太陽光発電設備設置や電気自動車購入に補助金を与えるといった唯物的方向へ心が向くわけであります。
しかし、“實相”から“現象”を見れば一番大切なことは、「神性隠蔽」からの解放、つまり「神性開発」が大切で、「神性開発」の結果、三界唯心の原理で人類社会の迷妄の雲が晴れて行くのであります。政治や行政や企業の手の及ばない人類の心の変革、「神性隠蔽」からの解放こそ宗教界の受持ち分担なのであります。
これからの「生長の家」のなすべきことはこの様な宗教本来の使命を遂行する事であり、具体的には“森のオフィス”の建設ではなく、「生長の家学園」の創設で一人でも多くの「唯神實相」の人生観、世界観を身につけた優秀な人財を社会の各層に送り出し続けることにあると思うのであります。
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