生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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生長の家「今昔物語」・霊界篇の再掲示<第十六話> (411)
日時:2013年03月11日 (月) 08時41分
名前:信徒連合




生長の家「今昔物語」第五篇 霊界篇



第十六話(通算第258話) 他界への出生の実証(その五)




死者の霊と親しき人々の嘆き

(「人間死んでも死なぬ」P.103−105)



(つづき)
<<他界よりの最も重大なる禁制であって霊界の筆者から繰り返し繰り返し力説せられる事は、この世に残れる人達が他界へ移り入った人について嘆いてはならないと云うことである。

彼らは云う――無用の嘆きは彼らがこの世の人に話すことの出来ない間は、彼らの心を悩ましめる。それは実際、積極的の悪である。「事実はどうであるかと云うと」と、ヒースロップの霊魂はその妻に書いている。

「誰でも死んだ時、自分が新しい環境にいることに気がつくと、彼らはこの世に遺して来た人たちのことをおのづから思いだすのである。霊魂は自分の状態が幸福であるならば愛する遺族の人達に自分の死を悲しんではならないと言いたく思う。彼等は自分の来た新しい美しい国土の有様を知らせたく思うのである。彼等はしばしば此の世の人に、鮮やかなあの世の幻を見せて彼らを導くことができる。しかし最も彼らが望んでいるのは、彼らの愛が霊界に来てから、以前より如何に深くなり、強くなり浄まったかと云うことを知って貰う事である。」


「さて、それ故に彼らの大いなる愛の絆は彼らを地上へと引き戻すのである。そして彼等はなつかしき家庭に帰る。彼らが最初に悲哀を感ずるのは、自分たちがやって来たことを知らせる事が全く出来ないと云うことである。遺族のものを慰めてやりたいと云う希望もまことに甲斐ない、彼等は悲哀の号哭(ごうこく)を眺めながら如何にしようすべもないのである。彼等は霊力ある誰かを求めて愛と慰めとのやさしい通信を送ろうと企てる。が、何たることだ!遺族のものは大抵はその通信を受け取らない、彼等はただ驚くばかりで信じないのである。」


 ジュリアはW・T・ステッド氏の手を借りて、近親の人の死にいたく嘆いて打ち砕かれている親友にこう書いている。――

「私の愛する者よ。希望を失った人のように嘆き悲しんでいられるのはどうしたことです。ではキリストが生命と永世とを持ち来たらして下さったとは唯の甲斐なき言葉でしょうか。あなたの愛していられた私がこんなに確かに今なお生きているのに、貴方はまるで、他界と云うものが存在しないかのように慰めなく侘(わび)しそうな様子をしていらっしゃる。キリストが死と墓場とに打ち勝って下さったのに、そんな筈がないと云う風にはなげかれますなよ。」(After Death より)



<注・コメント>

(1) 死体(屍体)のことを、昔から「なき殻」(なきがら)とも「遺骸」(いがい)とも云います。

親鸞聖人の悟りの心境は(『人生を支配する先祖供養』P.33)

<<親鸞聖人はその臨終に際して、弟子たちに「わしが死んだら遺骸を鴨川へながしてくれ」と言われて、わしの石碑をつくって祀ってくれともお経を読んでくれとも言われなかったと伝えられている。それは親鸞聖人は、遺骸は既に「なき殻」であって、自分自身は決して遺骸の中にはいないと信じていられたからであろう。そして自分を祀って御経を誦げてもらわないでも、既に生前の絶対他力の念仏の功徳にて、浄土に生まれて神通方便を得ているのだから、他の有縁の人々を浄土に救いまいらせこそすれ、自分が、衆生のとなえる念仏で救われようなどとは思わないという意味だと受け取れるのである。>>


(2)偶然や突然の変死とは?

『生命の實相』第9巻・霊界篇上巻P.113

<<問――災難によって突然変死する場合があるが、常にこれはあらかじめ決定されていることであるか?時には偶然の死というような事はないか?

ヴェテリニの答え――「< 偶然の死は一つもない。> 死は常に定められた事情の下に、あらかじめ定められた日時に起こる。」(むろん、死期の修正のあることは前掲のとおりである。)






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