生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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生長の家「今昔物語」・霊界篇の再掲示<第十七話> (425) |
- 日時:2013年03月12日 (火) 08時39分
名前:信徒連合
生長の家「今昔物語」第五篇 霊界篇
第十七話(通算第258話)霊界への誕生について(その一)
大往生と断末魔の苦痛について
(『人生を支配する先祖供養』P.7−8)
<<霊魂には修行の足りた霊と、修行の未熟な霊とがあり、それに従って、肉体を脱して彼が霊界に往ったときの状態がちがうのである。
修行の足りた霊は、ハッキリした意識を持って肉体を脱出し、自分が今しがた脱した肉体という抜け殻を客観的に見る事が出来るのである。肉体を脱するのに何らの苦痛をも感じない。所謂(いわゆる)大往生である。そして霊界に移行してからも意識を持ち続けて周囲の状態を見たり聞いたりすることができるのである。
そうでない未熟な霊魂は、肉体の生前の三業(意業・口業・身業)の不浄なるものを浄めんがために、病気の苦痛を経験する。苦痛は浄化の課程である。しかしある程度以上の苦痛は神の恵み深き摂理によって、“意識を失う”という方法によって回避されることになっている。そして意識を失った状態で、その霊魂は霊界の待合室みたいな所に移行するのである。>>
満中陰と五十日祭について
(『人生を支配する先祖供養』P.6−9)
<< 霊界の待合室は薄暗い世界である。それは“冥界”という語(ことば)がふさわしいかもしれない。そこに肉体を脱した霊魂は、肉体の病臭や屍臭(ししゅう)の“移り香(うつりか)”の不快臭を浄化するために、ある期間滞在せしめられるのである。それを仏教では「中陰(ちゅういん)」と称して、まだ霊界のどの位置に往くべきかが定まらない期間である。それは大体七週間であり、仏教では四十九日間とせられ、神道では死の直後より数えて五十日目とせられているのは、仏教も神道も根本的に一致していることを示しているのである。
四十九日間の中陰の期間を満了すると“満中陰(まんちゅういん)”の法事があって生前の懇親者にお供養(満中陰の志)が配られる習慣(しきたり)になっている。神道では“五十日祭”という祭典が行なわれて、冥界の薄暗い前室から解放されて、受け持ちの高級霊の案内によって、その霊魂が割り当てられた幽界の位置に伴われて行き、そこで修行することになっているのである。
現実世界も、幽界及び霊界も、いづれも霊魂がその本来の“神の子”の実相を研(みが)き出すための修行の“場”であることに変わりはない。>>
冥界の照魔鏡について
(『人生を支配する先祖供養』P.9−10)
<<四十九日間の浄化の期間が終わった霊魂は高級霊が霊波によって作ったスクリーンの前まで伴われていくのである。彼はその浄化されて透明になった心で、そのスクリーンに向かうと、そのスクリーンに、彼自身が生前の一生涯に閲(けみ)して来た全ての生活が、天然色映画の如くカラーテレビの如く映し出される。幽界の此の前室は、もう現実世界とは時間のサイクルが異なるのであるから、極めて短時間ともいうべき間に、彼自身の生涯の生活の実情を、第三者的立場に於いて、それを眼(ま)のあたり見るのである。
現実世界に於いては、彼は第三者ではなく、第一者として自分自身が主人公として生活して来たので、「これ位のことは別に悪でも不浄でもない」と厳重には批判することなしにわがまま勝手次第に生活して来たのであるが、今、こうして霊的スクリーンの前に立って自分の一生涯の生活を第三者として客観的に見せられると、善悪判断の基準が公正になって、「この位のことは悪くない」と思って生前に行為した事柄でも、「ああ、これも悪かった。あれも悪かった。あんな汚い行為をするのでなかった」と懺悔の心が起こるのである。
懺悔というのは心を洗い浄めるという意味である。その懺悔の程度は、それぞれの霊魂によって反応が異なって、必ずしも完全に悔い改めが完了する訳ではない。
過去に色々犯しきたった悪業でも「わるかった!」と否定し、「再び罪を犯すまい」と反省決意すれば、その蓄積された“業”が着物を脱ぐように一枚一枚剥落(はくらく)して空中に消えて行くのである。
この過去の行為の一切を照らし出す霊的スクリーンを、擬人的に閻魔(閻魔)大王と称し、または神話的に“閻魔の庁”の照魔鏡(しょうまきょう)と称するのである。
そして「悪かった、二度と再び犯すまい」という決意と共に、悪業の蓄積が一枚一枚、剥落して行く課程を、三塗(さんず)の川 の手前に“脱衣婆”がいて、亡者の着ている着衣を脱がせるというような寓話(ぐうわ)が仏教ではつくられているのである。
いづれも死者の霊がそこで過去の業が自己審判され、消える業は消え、消えない業はそのままに、その業の種類の善悪軽重にしたがって三塗(さんず)のうちの、どれかに行く事が定められて、その霊魂は霊界での落ち着く修業場が決定せられるのである。それを三塗の川を渡るというのである。>>
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