生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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開祖・谷口雅春先生の直接指導録 <その11> =宗教というものについて= (455) |
- 日時:2013年03月14日 (木) 17時25分
名前:信徒連合
開祖・谷口雅春先生の直接指導録 <その11>
=宗教というものについて=
『生命の實相』第15巻・人生問答篇(P.101〜105)
谷口:
何か煩悶がおありですか。
宮岸:
いいえ煩悶といっても別にないのですけれども、以前に一度「一燈園」に入れてもらいたいと思ったことがありましたが、「一燈園」は宗教でないと思ってやめました。本当に神さまなり、仏さまなりを知ってドン底から落着いた生活に入りたいと思っているのです。何教の教会も村の近くにありませんので、お寺の方なら割合近いから、その方へ行ってお経の講義を聴かせてもらうことにしたいと思っています。
谷口:
それも結構ですが、宗教というものは、お経や聖書のなかにあるのではありません。むろんお経や聖書には真理が書いてある。だからはなはだありがたいのです。
しかしその解釈にいたっては、その人、その人のサトリによっていろいろに解釈されるのであります。親鸞聖人と日蓮上人とはいずれ劣らぬ名僧でありながら、釈迦のお説きになりました仏法を全然ちがうように解釈された。親鸞聖人が「ただ念仏さえとなえればほかの行は何一つせいでよい」と言われると、日蓮上人は全然反対に「念仏など称(とな)えていると無間地獄へ堕(おち)るぞ」と言われた。
どちらもえらい名僧で学問は衆に秀でている。どちらもお経の一字一句の意味が解らぬという人ではない。それだのにお経の説き方は全然別になった。だからお経の一字一句がわかったとて、本当のサトリが得られるにはきまっていないのです。日蓮上人の説き方が正しいか、親鸞聖人の説き方が正しいかは、日蓮以上、親鸞以上の名僧でないと判別することができない。
本当のサトリというものはお経の語義の中にあるのではない。あなたは「一燈園は宗教でない」と言われましたが、一燈園でも立派な宗教です。「生長の家」もまた見方によれば宗教です。宗教というものはお経の文字の講義をしたり講義を聴いたりする事ではない。“道”に随った生活をするのが宗教的生活で、“道というものを指し示す教えが宗教である。”
“道”は必ずしも何々教というものの中にはない。何々教という立派な名義の中にいて、お経やバイブルの講義をどんなに立派にしても、“道”をはずれた行ないをする人は宗教家とはいえない。それは宗教業者です。
既成宗教はだめだという声がきこえるのもそのためである。既成宗教がだめなのではない、宗教業者が宗教を形ばかりにして生命のないものにしたのです。これに反してお経の一字をも解釈しえないでも、道にかなった行ないをする人は宗教生活者です。だから宗教の開祖にはずいぶん無学な人が多い。
天理教祖でも、金光教祖でも、大本教祖でも、みんな無学である。< 無学の人が「道」にかなった行いをした。> <そこで無学の人と、天地に満ちている「道」とが一体(ひとつ)になった。> <そこで「道」というものが、その無学の人を通して真理の響きを奏でる>、これが宗教(おしえ)というものです。
教祖が無学な場合には一絃琴(いちげんきん)のような簡単なことばで「道」を説かれた。しかし「道」というものは、“天地にミチ”、<すべてのひとの真心の内にミチている>ので、真心をハッキリさせている人なら必ず共鳴する。そこで多数の人々が共鳴して信者となって集って来る。
集った人々のなかに学者があれば、教祖が簡単な単純な言葉で伝えられた「道」をいろいろ学者ぶったありがたそうな複雑な言葉で説明する。そこで表面はますます厳(いかめ)しくなり、立派になってくるけれども、それを説く人の生活が道にかなわないと、だんだん、本当の「道」が奥の方に埋もれてくるのです。はじめに権威のあった宗教が段々権威が無くなってくるのは、たいていそういう径路をとるものです。
(中略)
谷口:
昔からいろいろの宗教がある。それはどの時代にもいろいろの人間がありその性質や素養や傾向がちがっている。それで、神はおのおのの時代や、いろいろの種類の人間に向くようにいろいろの教えを、それにふさわしい人物をとおして天降されるわけですねえ。
甲の宗教で救われぬ人も、乙の宗教では救われる。甲の宗教ではどうも説き方が古めかしくてピッタリ心に来ぬという人のために、また新しい乙の宗教が出現して来る。“もと”の救いの神は一つであっても、救われない人間の種類がいろいろあって、そのいろいろの人間の魂がどうぞぜひとも救ってくださいと暗黙のうちに神を呼んでいる。「求めよ、さらば与えられん、呼べよ、答えん」ですなあ。
神は人間の魂の切なる求めの声を聴いて、そのいろいろの人間にふさわしい <救いの放射光線>を天上から投げかけられる。この <救いの放射光線>とも霊波ともいうべきものを霊眼で見れば、その姿が象徴化されて天使(てんのつかい)にも見えれば、古代の装束をつけた神々しい神様にも見える。
その <救いの霊波>の意味を感受してわかりやすく人類に伝えるのがいろいろの宗教の教祖です。いずれも救いの神は元は一つ、求める人間がちがっているから、いろいろの教えが出て来るのです。
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