生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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生長の家「今昔物語」・ 理性篇の再掲示 <第二十六話> (473) |
- 日時:2013年03月16日 (土) 08時34分
名前:信徒連合
生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇
第二十六話(通算第352話)
西田哲学との比較に於ける人間論 <その八>
『人間死んでも死なぬ』P.349−351
<<仏教の哲学――特に般若の哲学は『般若心経』にある通り「老死無し」の哲学である。
「老死無し」と云うのは、単に「老死」だけが無いと云うのではなく、生老病死の四苦のうちの老死だけを代表的に引き出して来て「老死なし」と云ったのであるから、「生老病死なし」の意である。
従って般若経は「病無し」の哲学であり、病むところの眼耳鼻舌身意さえも無しの哲学である。だから般若経では古来病気の治った実例がある。
瀧澤氏の解する如く、西田哲学は、「眼耳鼻舌身<有り>」の哲学であろうか。「私のもの、私の身体、否一片の塵と雖(いえど)ももと神の創れるものなるが故に」と瀧澤氏は言う。(同書P.8末行−9)
これならば無論「眼耳鼻舌身<有り>」の哲学である。神の創れるものは実在なるが故に、一片の塵も、凡(すべ)ての物質も実在だと云うのが瀧澤氏“の云う”西田哲学である。(私は西田博士の原著全部は渉猟していない)物質が実在であるならば、物質が結核と云う形をなしているのも実在であると云わなければならない。また物質が癌と云う形を成しているのも実在であると云わなければならない。総括して言えば総ての病気は実在であると言わなければならない。
ここには病の消滅する原理はあり得ない。実在は消滅し得ないからである。若し西田哲学の全貌が瀧澤氏の要約紹介せられた如きものであるとするならば、西田哲学は私の生命の實相哲学とは似て非なるものであることを感ずる。
それが似ていると言われるのは、「今此処にあると云うことは、永遠なるものにふれている」(同書P.10)と云う種類の直観であろう。
今生きていると云うことは、久遠の<いのち>を生きていると云うことである。今と久遠とのこの不思議な結合、物質の自分だと見えているけれども実に永遠の霊性が自分であると云う物質と霊性との不思議な結合、(『生命の實相』の到る所に)そう云う相反するものの相即的直観それが似ていると云うのであろうと思う。
今、私は生きている。今、久遠を生きているのである。哲学とか云う、そう云う「学」ではなしに、今、如実に素直に茲に私は<久遠のいのち>を生きていることを直観するものである。
此の場合に云う「今」とは過去、今、未来と相継起する時間的流れを超越せる「今」である。<時間は無い>のである。過去、現在、未来を超越する「今」が<ある>だけである。
「今」と言うも「久遠」と云うも、そのままでは実在の、即ち神の、存在の“み”懐(ふとこ)ろの中に融け込んでいる自覚である。
「今」と云うと、瞬間を感ぜしめ、「久遠」と云う永き連続を感ぜしめるけれども、そう云う意味の「今」ではない。常に「今」であり、「超時」の今である。
私は「超時」の“中”に生きているのである。否何人も「超時」の中(うち)に生きながら、時間の流動的投影面にその「超時」の存在を或いは永く或いは短く影を映しながら「時間」なるものを有るが如く感ぜしめているに過ぎないのである。
また何人も「超時」の中に生きながら、空間的静止的投影面にその「超時」の存在を或いは大きく或いは小さく影を映しながら自分を空間的物質的存在だと思わしめているに過ぎないのである。
だから、時間もなく空間もなく、時間的自分も空間的自分もないのである。ただ「超時」の存在があるだけである。
斯くの如き超時の存在が本来有りもせぬ時間的空間的存在を、殊更に自己を限定して現していることを、西田哲学で「永遠の今の自己限定」(瀧澤氏の本P.10初行)と云うのかもしれない。或いは却ってそうでないかもしれないが、言葉は迷わせるものであるから、どうであるかも知らない。
若しそうであるならば西田哲学は私が『仏教の把握』なる本に書いた無明縁議論に似ている。(谷口雅春著『仏教の把握』P.246)
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