生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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予測:雅宣総裁は、岡正章氏の「生長の家総裁への公開質問」には回答しない。 (6746)
日時:2015年04月19日 (日) 14時02分
名前:HONNE

岡正章氏の「生長の家総裁への公開質問」
http://misumaru.o.oo7.jp/ongaku.html

雅宣総裁は、自分が唯一絶対正しいと思っている人です。
また、教化部等の幹部の中にも、雅宣総裁の発言や行動は神意であるとの認識を持っている方が多数でしょう。
岡正章氏も、そのような認識のもとに活動してきたのでしょう。
雅宣総裁にしてみれば、総裁自身の言動は独断独裁ではなく、最初から信徒さんの承認を得ているから現在があるのであり、少数者の意見や批判などを聞く必要など無いことであるとの結果になると思われます。


岡正章氏のホームページは次のような記載があります。

○生長の家とは、建物の名ではない。「和」の名であり、「愛」の名である。(『光明道中記』34頁より)

○分裂がない、対立がないのが生長の家であります。

○だから、生長の家は永遠なのであります。

と。
今、『生長の家とは、教団の名ではない』を付け加えるべきでしょう。かつては、『生長の家とは、教団の名でもある』と言っても良かったのでしょうが、雅宣総裁に盲目的に追従する組織の幹部や、信徒さんだらけなってしまって、『看板だけ生長の家』になってしまいました。

もう、『看板だけ生長の家』の雅宣総裁や教団の好きなようにさせてあげたらよいのです。【真の生長の家の教え】はこちらですと言って、「学ぶ会」、「ときみつる会」等の活動拠点を普及するほうが生長の家のためです。

案の定 (6760)
日時:2015年04月21日 (火) 22時12分
名前:HONNE

【みすまるの珠 近況心境】
http://misumaru.o.oo7.jp/


○ 外にはない。内にある。

○わが内にすべてがある。わが内に時間があり、空間がある。

○人間は、時間・空間の中に生まれてきたのではない。時間・空間を生み出した者である。


――と、ここまで書いてから昼食をとり、12日に放映されたNHKの大河ドラマ「花燃ゆ」を録画で見ていたときに、電話が鳴り、教化部からでした。

国際本部の理事長(講師部長兼務)から、岡は「地方講師解任」と決定した旨の通知があったという連絡でした。公開質問に対しては何のお答えもないままです。

「地方講師とは、自ら教えに救われたものが、講師試験に合格したうえ、参議長よりこれを任命され、この団体の教化方針を遵法してその教化組織の一員として布教するものをいう。」

と「生長の家教規」にあり、私は「この団体の教化方針を遵法して……」という条項に反する行動をとっているから、ということのようです。

○ われら“誠”を生きる

「花燃ゆ」のドラマで、吉田松陰が
至誠而不動者未之有也
(至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり)
という言葉を松下村塾で最初に獅子吼した。

この「至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり」の「誠」とは何でしょうか。

聖経『続 真理の吟唱』161頁「われら“誠”を生きるための祈り」に、次のように教えられています。

 ≪“誠”とは「成る言(ことば)」と書くのである。自己に宿る神の至上命令たる“言(ことば)”を生きることを“誠を尽くす”というのである。「言(ことば)は肉体となりて我らの中(うち)に宿り給えり」 われら即ちすべての人間に言(ことば)は宿っていて、それが仮に肉体の姿をあらわしているのである。この実相を知っても知らないでも本来人間は“神の子”であるけれども、それを知らない間は“神の子”たる権を行使することはできない、一種の放浪者であり、迷い児であるのである。彼は虚仮(こけ)不実の仮存在であって「誠あることなし」である。(中略)

 人が誠実に生きるとは“単に真剣に生きる”ということではなく、人間の本質であるところの実相すなわち“神の子”の自覚に基づいて生きることなのである。われらこの真理を悟り得たるは神の導きにほかならず、神に感謝し奉る。ありがとうございます。≫

岡氏の認識不足 (6776)
日時:2015年04月23日 (木) 19時02分
名前:HONNE

岡氏は書いています。

○生長の家とは、建物の名ではない。「和」の名であり、「愛」の名である。
○分裂がない、対立がないのが生長の家であります。
○だから、生長の家は永遠なのであります。


しかし、残念ながら、現実の教団の人々(総裁、幹部、信徒)は、
実相である「和」とか「愛」は観ているかもしれませんが、
現実のなかでできるはずの、「和」と「愛」の実践ができていないのです。
ですから、今の教団には「和」と「愛」が無いということにことになり、すなわち、「生長の家」はないという事になるのです。
もちろん、和解に対象に」なるはずにもなりません。

いつの日か、教団の人々にも「和」と「愛」が顕れるでしょうが、
この世では無理かもしれません。
あの世で、本当の「和」と「愛」を理解することになるのではないでしょうか。



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